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「お待ちしてましたよ。改めて、森糸翠です」
出迎えてくれた家主の森糸さんは一礼し、私を中へと招き入れてくれた。見学に伺った日はきっちりとしたスーツ姿だったが、今日は着物を着ている。濃紺の着物に浅い麦色の帯が綺麗に映えていた。
「敷居が高いので、足元に気をつけて」
と言って、私に手を差し伸べてくれる。私を大切に扱ってくれる所作は、大正ロマンを生きているような紳士らしさを感じさせた。マニュアルに沿った紳士風な行動ではなく、根っからのジェントルマン。そんな雰囲気に圧倒されてしまう。
「荷物、それだけですか?」
先生は驚いた顔で私の大きなトランクを見つめている。
「ああ……なんというか、今までのものは捨ててきたので……」
苦笑いの私に、そうですか、と森糸さんは短い返事だけを返す。私に移された目は、すべてを見透かされているようで怖いくらいに澄んだ目だった。
部屋へと案内してくれる森糸さんの背中は思ったよりも広い。後ろで緩く結んであるロマンスグレーの髪が、濃紺の着物の上でしゃらしゃらと揺れて光る。洒脱の言葉が似合う人だと思った。
森糸さんと私が歩を進めるたびに軋む床の音が心地良い。庭はすっかり春の装いだが、足の裏にはひんやりと冷たい感触が伝わってきた。
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