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「掃除はしたつもりです。何せ古いので。埃っぽかったら申し訳ない」
開いた襖の先には、六畳一間の畳の部屋。畳は張り替えられていて、イ草の青い香りが立ち上がる。隅には古い文机が置いてあり、細い花瓶に桜の枝が挿してあった。薄暗い室内は桜によって少しの明るさを保っているように見えた。
「鍵がありませんが、僕は二階には上がりません。気になるようでしたら言ってください。襖ごと扉に変えるなど検討してみます」
「い、いえ。お構いなく。お掃除もありがとうございます。あと、桜も」
慌てた私に、小さく微笑みを残して翠先生は部屋を出ていく。閉められた襖越しには、先生が階段を下りる音が聞こえた。なんとなく、足音が消えるまで動けなかった。
みしみしと軋む音が聞こえなくなったことを確認してから、私は窓を開ける。
窓の外にはきちんと景色が見えた。隣のアパートの古びた外壁などではなく、空の下に家々が立ち並び、庭の桜が近くまで伸ばした枝が見える。真下から聞こえる子どもたちの声が微笑ましい。
都会の窓からもこんなに風情のある景色が見えるものなのか。
東京に来てもう七年になるが、この街について未だに知らないことの方が多い。私の知っている景色と言ったら、朝の通勤ラッシュのストレスと会社の大きな窓から見えるスーパーの電飾と近所のコンビニくらいのものだ。
世界は自分の手で狭めるだけ狭めることができる、ということをこの七年かけて学んだ。
最初はもっと広い世界が見えていたはずなのに、いつから私の世界は収縮していたのだろう。
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