43人が本棚に入れています
本棚に追加
「ひと手間かけると、その分心が豊かになりますから」
小さくおちょこを合わせる。エンドウの入ったかき揚げとウドの天ぷらは、食べるとからっと音がした。桜は夜風に吹かれて、さわさわと音を立てる。奥の池には漣が立ち、月を揺らしていた。
雪解けの季節があたたかすぎるせいで、私の中にある悲しみが浮き彫りになっていく。いつぶりだろう、こうしてゆっくりと時間の流れを感じるのは。
「すべて捨てるの、怖くありませんでしたか」
唐突に先生が小さく尋ねる。少し考えて、
「捨てることは怖くありませんでしたよ。躊躇の無い自分の方がよっぽど怖かったです」
と返した。
「羽化ですね」
「うか?」
「蛹だったんですよ、捨てたものは。すみれさんを守ってくれてたんです。躊躇なく羽化できたすみれさんは、もうどこにでも行ける蝶ですね」
「でも、私、どこにも行けてないし、行く場所も決めてません」
「ここに来たじゃないですか」
先生は私の空いたおちょこに日本酒を注いで、桜の花を浮かべてくれた。日が沈んだというのに、先生の柔らかい笑顔に残った昼間のひだまりがあたたかい。
最初のコメントを投稿しよう!