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「良かった。無理強いではなかったか。嬉しいぞ。ならば、この疑問にも答えてくれ。お前、なぜ今日は髭をつけているのだ。付け髭はやめたはずでは? あの日の私の忠告を忘れてしまったのかと、そのことも寂しく思っていたぞ」
「あ、これ、ですか。えー、この付け髭は、ですね……」
驚愕が、私を口ごもらせる。今の今まで触れてはこなかった付け髭姿を寂しく思われていたとは。私の素っ気なさを寂しいと言われたことに加えて、驚きは割り増しだ。
「大した理由ではないのです。大津の別邸に滞在するにあたり、現地では髭姿が無難なのではと家人から助言を受けまして」
「助言?」
「はい。見知った土地とはいえ、何があるかわからない。素顔を隠しておくに越したことはないと言われたのです」
筆頭女房の安芸は本当に心配性だ。私は女のような容貌だが、れっきとした男。何もあるわけはないし、よしんばあったとしても腕に覚えはあるのだ。数人の賊など簡単に撃退できる。
が、付け髭をすることで余計な揉め事が回避できるのなら。建殿と過ごす時間に邪魔が入る可能性が減るのならと、予防策のための付け髭だった。
そう、万全を期していたはずが、いざ当日になってみれば、当の想い人は可愛らしい従者と常にぴったり、仲良くはしゃいでいるという有様だったのだ。拗ねたくもなる。
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