あの日の吸血鬼

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「三十歳のときに、お互い独身だったら結婚しよう」  メーセージアプリに「谷彩芽」の名前を見つけたとき、翔太郎の頭に浮かんだのは大学卒業前のサークルメンバーとの飲み会で交わした口約束のことだった。昨日、翔太郎は三十歳の誕生日を迎えたところだった。  思わず彼女の名前をタップしてメッセージを開く。サークルの同期が結婚する、同期のメンバーでビデオメッセージを作成しようと思うから手伝って欲しい、一度対面で打ち合わせをしたいので空いている日を教えてほしい。並んでいたのはビジネスライクな文面だった。翔太郎は二度、三度とメッセージを読み返すと、自分でもよく分からないため息をついた。 「どうしたの? 仕事?」  ため息を聞きつけたのか、妻の銘が声をかけてきた。翔太郎はスマートフォンをリビングテーブルに置いて、肩にかけていたネクタイをあらためて首に巻いた。 「大学の友達。近々集まるかも。同期の高井田って奴が結婚するかもって」 「そうなんだ。そういえば今日から週末まで天気悪いみたい」 「最近、変な天気が続くな」 「ほんとに」  翔太郎は時計を手にしながら、慌ただしく朝の支度をする銘を横目に見た。仕事用のツーピースに身を包みながら、朝食で使った皿を手早く食洗機に入れている。皿を持つ左薬指にはめられた、三ヶ月前に買ったばかりの結婚指輪が彼女の指の細さを際立たせている。三歳年下の銘はどこか小動物を思わせる愛らしさがあった。人生で一度もモテたことのない翔太郎にとって、彼女に好かれ、その上結婚出来たことは、字義通りの奇跡であった。 ーーそうだ、あの約束は。  翔太郎は二次会で飲んだカンパリソーダの味を思い出す。 ーー大学の四年間、結局彼女が出来なかった自分に向けての最大限の自虐だった。  自虐的な約束を笑って受けてくれた彩芽も、決してモテるタイプの女子ではなかった。サークル内でのあだ名は「お母さん」。あだ名通りの世話焼きキャラとして、サークルメンバーを叱咤激励し、日に影に支えていた。どこかぼんやりとしたところのある翔太郎は、彩芽によく世話を焼かれたものだった。単位を落とさず卒業できたのも、彼女のおかげだったところがある。複雑な単位の計算方法も、洗濯用漂白剤の使い方も彼女に教えてもらった。同期のなかで一番大柄だった翔太郎と一番小柄な彩芽が並ぶと親子のようであったが、二人の関係性はしっかり者の姉とボンクラな弟とでもいったところだった。翔太郎が把握している限り、彼女にも四年間恋人はいなかった。 ーー約束には99パーセントの道化と1パーセントの保身があった。  時計を身につけ、ジャケットを羽織る。再びスマートフォンを手にして、メッセージアプリを開く。  動画作成了解。いいよ、会おう。  同意の言葉を送る。ビジネスバックにスマホをしまう。再び新妻の銘を見る。視線に気づいたのか、銘も顔をあげる。 「水筒、コーヒー淹れたよ」 「ありがとう」  二人は短く笑顔を交わす。  翔太郎は水筒を受け取ると家を出た。
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