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 三日ぶりにまともなシャワーを浴びた。大体は公園の水道で軽く洗う程度で済ませるのだが、その時は支援団体が貸している事務所のシャワーを使わせてもらったのだ。  出ると、洗濯機の操作盤の上にパンツとシャツが置かれてあった。どちらも黒で、コンビニに売っているようなものだ。体をタオルで拭き、それに着替えた。  シャツとトランクスの姿で居間に行くと、まずテーブルの上の紙とペンに目がいった。三村の距離からではその紙に書かれた文字を読むことはできなかったが、離婚届であることはすぐに認知できた。  一恵は何をするでもなく、離婚届が置かれたテーブルの前に座っていた。一年ぶりに会ったが、前より痩せたように見える。だが三十八歳で三村より十歳若く、まだ彼の目には美しく見えた。そんな妻は夫の存在に気づいているはずだが、彼を見ようとはしなかった。 「買ってきてくれたのか」  それでようやく目だけをこちらに向けた。 「うん。あなたの下着、臭くてもう捨てたわよ」 「ああ、うん。ありがとう。」一恵に向き合う形でテーブルの前に座る。 「どういうつもり?」 「え?」  鳩のように顔を突き出し聞き返した。離婚のことを切り出されると思っていたのだ。 「あれよ」一恵は部屋の隅を指した。そこに三村が届けた袋が置いてある。 「あー、頼まれたんだ」 「頼まれた? 誰に」  サンタクロース、と出かかった言葉を飲み込んだ。あんな非現実的な出来事を、離婚を切り出す目前の妻が真に受けるとは思えなかった。それに、その話を信じさせるだけの証拠も持っていない。 「通りすがりの人だよ。足を怪我しちゃったみたいでさ。それで俺に頼んできたんだ」 「ふーん」不審に思っている様子はなかった。 「俺もびっくりしたさ。届け先に三村小雪って書いてあって――」 「その人、サンタの恰好してなかった?」  そんな話はどうでもいいと言わんばかりに、一恵は彼の言葉を遮った。 「え、どうして?」  露骨に動揺した。まさか一恵の口からその単語が出てくるとは思っていなかった。 「ネットで見つけたのよ。注文したプレゼントをクリスマスの夜に、サンタさんが届けに来てくれるサービスがあるって」 「へー、別に普通の恰好だったけどな」 「そう」  ここで嘘をつく必要はなかったが、何となく彼は誤魔化していた。いつの間にか、動揺したら嘘をつく癖が身についていたのかもしれない。  少しの沈黙が流れた後、やがて妻が切り出した。 「それで話は変わるんだけど」  きたな、と三村は思った。無意識に彼は背筋を伸ばした。 「ここにサインしてほしいの。別に異論はないよね」  紙とペンを三村の方に滑らせてきた。 「う、うん。別にないけど、でも俺、ハンコ持ってないぞ」 「言ったでしょ。サインしてほしいって。ハンコはいらないの」  妻の署名欄のところには、既に『三村一恵』と書かれていた。とりあえず、三村はペンを握る。だが、その状態から手を動かそうとはしなかった。 「どうしたの。早く書いて」 「ああ、うん。分かってる」  それでも書こうとしない。ペンを握る手に汗が滲んでいた。 「え、なに、嫌なの? あなたさっき異論はないって言ったじゃない」詰問するような口調だった。 「いや、そうじゃない。ただ覚悟を決めてただけで」  すると、彼女の顔つきが変わった。 「何が覚悟よ。今まで死ぬほど時間あったくせに。半年は私実家で待ったのよ? でもあなたは電話の一つも寄こさなかった。だからそろそろ終わりにしようとこっちから電話したのに、何故か一向に繋がらない」  呆れたように一恵は溜息をついた。 「すまん。携帯もう持ってないんだ」 「見れば分かるわよ」吐き捨てるように彼女は言う。 「俺だって仕事が見つかったら連絡するつもりだった。でも無理だった。どう頑張っても、俺を採用してくれるところなんてなかったんだよ」  今年で四十八歳。倒産で失業した五十間近を正社員で雇ってくれるところなんてなかった。それを探すのは、彼にとって困難極まりないことだった。 「ほんとに努力したの?」 「え?」 「ほんとはまた、ギャンブルに溺れてただけじゃない?」  言い返そうとして口を開いた。しかし、そこから反撃の言葉は出てこなかった。つまり、図星だったのだ。妻と娘が出って行ってから三村が応募した企業はたかが四つで、それで挫けた彼はパチンコに現実逃避した。 「やっぱり」一恵は鼻で笑った。  重苦しい空気が三村を俯かせた。カーペットのシミを見て、小雪がジュースでも零したのだろうかと場にそぐわない想像をした。 「小雪ね、学校でいじめられてるの」  思わず顔を上げたが、三村はすぐに自分の影に目を落とした。心臓のあたりが何かに蝕まれていくような感覚に陥った。一恵の口から初めて娘の名前が出たと思ったら、それが思いもよらない形で彼を苦しめた。 「なんでかわかる?」  三村はそれに答えようとしなかった。 「幼稚園から一緒の子が、たまたま外であなたを見かけたらしいの。今の子供って何でそれ知ってるの? みたいな知識持ってたりするのよね」  一恵が言いたいことはわかっている。ホームレスになってからの彼が目撃されたということだ。まだ同居していた時に、参観日などは行っていたので、そこで顔を覚えられていてもおかしくなかった。  三村は意味もなく何度も頷き、ペンを握った。自分に父親の資格がないことにようやく気づかされた。父親として彼が存在しているだけで、娘に迷惑がかかっているのだ。それだけはどうしても耐えられない。最後に父親としてできることは、せめてその縁を切ることくらいだと、三村は署名欄にペン先を置いた。 「ママ、サンタさんは?」  三村は反射的に振り向いていた。小雪が目を擦って立っていた。  胸に込みあがるものがあった。だが彼は懸命に堪えた。泣く資格などない、と自分に言い聞かせた。それと同時に、元々大きい小雪の目が更に開いていった。 「パパっ!」  三村の胸に飛び込んできた。彼も力強く抱きしめた。 「久しぶりだな、小雪。元気だったか?」 「うんっ。パパも元気だった?」 「もちろんだよ」  小雪を体から離し、娘の顔をまじまじと眺めた。一年で、顔つきも少し変わったようだ。どう変わったのかははっきり言い表せないが、一歩大人に近づいたのは間違いない。 「やっぱりパパがサンタさんだったの?」 「え?」 「学校の男の子が言ってた。サンタさんの正体はパパだって。それにお髭も」  小雪が彼のでたらめに伸びた髭を撫でた。頬を緩ませながら、三村はかぶりを振る。 「パパはサンタさんに頼まれたんだ。あれを小雪に届けてくれって」  袋を指さす。三村が言ったことは事実だったが、一恵は娘の純粋な心に従ってくれたと思っているに違いなかった。  小雪は自分くらい大きな袋からクマのぬいぐるみを取り出す。そして、たまらないといった様子で抱きついた。 「めちゃくちゃ可愛い。でも、やっぱりお人形さんにしとくんだった」 「どうして?」小首を傾げて三村は訊いた。 「だって、パパが帰ってきたもん」  瞬きを繰り返し、三村は一恵の方を向いた。 「この子、その大きなクマのぬいぐるみがパパと似てるからって、プレゼントに選んだの」一恵が紙を引き出しにしまいながら言った。  三村は小雪の方に向き直った。そしてしゃがみ、娘の頭を撫でた。 「そうか、それで選んでくれたんたな。パパがいなくて寂しかったか?」 「当たり前でしょ」どこか一恵にも似ている強い口調で言った。 「ごめんな」 「でも、これからはもうずっと一緒なんだよね?」  真っ直ぐな瞳を向けられ、三村はそれを受け止めることができなかった。助けを求めるように彼は一恵の方を向こうとした。  だがその時、頭の中で誰かの声が響いた。「また逃げるのか」その声の主は紛れもなく、心の中に住むもう一人の自分だった。今度こそ這い上がろうとしている自分がいたのだ。そいつと向き合わなければ、これから先二度と娘とは会えない気がした。それでもいいのかと三村は自問自答する。  やがて彼は、小雪の顔に視線を戻した。今度こそ娘の真っ直ぐな目を受け止めて、彼は口を開いた。 「うん。ずっと一緒だ」
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