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それからわずか十と数分後。
ふたりは無法を法とする十四区のなかでも飛び抜けて筋も道理も無い最下層の一角へと足を運んでいた。定住する無法者たちですら自警団を組織するこの街でなお誰にも阿らぬ、ここは本物の底のまた底だ。
饐えた空気。窓ガラスの割れたビル。そこに居る誰も彼もが隙さえあれば襲い掛かって身ぐるみ剥ごうと獣のような目でふたりを見詰めている。
「なあ、マジで行くのかよ」
誰もが目を引く道化のような白黒ツートンカラーの男に隠れるように歩くパンク風の娘の呟きに、前を歩く男、“愚者”は目を細めてそれこそ楽しそうに返す。
「あ、失礼だなー。今までボクが嘘や冗談を言ったことがあったかい?」
「逆に聞きてえンだけどよお。オマエが嘘や冗談言わなかった日なンかあンのか?」
「ないよ?」
しれっと返した“愚者”の笑顔に“正義”が吠える。
「もうさあ! オマエひとりで行けばいいじゃン!?」
「え、やだよー“正義”ちゃん一緒に来てよー!」
「だいたいなンでオレがオマエの世話しなきゃなんねえンだよ! “犬使い”呼ンで来い!」
「え、それは“正義”ちゃんが『なんでこんな下請け仕事ばっかやってんだブッコもにょもにょだぞ!』って言ったからじゃん?」
「ンなこと言って、まあ、言ってねえ……とまでは言わねえが」
「あはは、でしょー? 言い出しっぺの法則だよ。だいたい“犬使い”ちゃん呼んだらボク怒られんじゃん」
「オマ……」
軽口を叩いているあいだにも“愚者”はずんずん進んでいき、眼前の廃ビルの前に立っている男に声を掛けた。
「はろはろお兄さん! ボスは居るかなー?」
男は大陸風のラフな格好で、素人同然の“正義”が一見してもわかるほど鍛え上げられた肉体と修羅場を潜ってきた者特有の空気を醸している。彼は“愚者”の言葉には答えず無表情に懐に手を入れ、そして。
“正義”が不味いと思う間もなくその動きを止めた。
一瞬前まで“愚者”を凝視していた視線はするりと地面に落ちて、口は半開きになっている。
「……?」
「あははは、お返事出来ないんじゃしかたないねえ? それじゃおじゃましまーす」
“愚者”は薄べったい笑い声を上げると、怪訝な表情で首を傾げる“正義”には構わず勝手にビルのなかへと入っていく。
「お、おい。大丈夫なのかよ」
「大丈夫さ、少なくとも」
“愚者”がニタリと嗤う。
「ボクらにとってはね」
「そっか……」
“正義”はそれ以上を言えなかった。彼女は戦闘力が高いわけでもなければ弁が立つわけでもない。身も蓋もないことを言うならば、彼女に現状打破の力はなにひとつ無いのだ。
正直、筋も道理も投げ捨てて付いて来なければよかったとすら思っていた。
ビルのなかでは異常を敏感に察知した破落戸どもが次々と飛び出して来るが、誰ひとりとして引鉄を引くことも拳や刃を振り下ろすことも出来はしない。
誰も彼もがふたりを見ては、いや、“愚者”を見れば、なのだろう、動きを止めて腕を下ろし、その意思を失ったかのように床や宙空を見据えて動かなくなる。
これが“愚者”の超能力なのは間違いないだろうが、なにが起きているのかまでは理解が及ばない。相手の意志を奪う力。洗脳の一種だろうか? “正義”が不安を押し殺しながら考察を巡らせている間にもふたりはビルを五階まで登っていた。
恐らくはここが最上階。階段も通路も手練れであろう者らが待ち受けていた一室まで、ふたりは無人の野を往くかのように素通りしてきていた。
誰ひとり妨げる者のいなくなった最後の扉の前で“愚者”が振り返って“正義”に微笑みかける。
「それじゃあ、“正義”ちゃん、ここからが本番だ。君が付いてきた本当の意味はこの先にある」
“正義”の全身を緊張が支配する。“愚者”がそこまで言うような役割がオレにあるのか? っていうか一体なにをやらされるんだ?
「オレが付いてきた意味? あンのかそんなもン」
精一杯の虚勢を張って応える“正義”に対して“愚者”は拍子抜けするほどさらりと答える。
「ごめんやっぱ無いかも」
「オマエなあ!」
「あははウソウソ。ボクには出来なくて“正義”ちゃんにしか出来ないこと、ちゃんとあるって」
「マジかよ」
「マジマジの大マジさあ」
「ウソくせぇ……」
「あははははは、それじゃおっじゃましまーす!」
今から入りますよとばかりにけたたましく笑った“愚者”が最後のドアを蹴り開ける。
そこは豪奢なテーブルやソファー、調度品に囲まれた部屋だった。一番奥には重厚な書斎机が置かれており、その向こうで大胆なスリットの入った大陸風のタイトなドレスを纏った女が拳銃を握って立っている。
一応成人している“正義”と年の頃は変わらないだろうか。吊り目気味の双眸に小振りな鼻とくちびる、つるりと艶のある肌と総合した美しさは一種昆虫のようでもある。
そして、彼女もまたこちらを見てはいなかった。拳銃もほんの少し前までは扉に向けていたのだろう、それがそのまま下ろされたように書斎机の上に乗っている。
元々視線を合わせたり手を向けたりする様子も無かったとはいえ、“愚者”の能力は扉越しにもかかるのかと驚愕している“正義”を尻目に彼は悠々部屋へ踏み入り部屋の主の横に立った。
「それじゃ紹介しまーす。彼女がボクらの元クライアント、とある大陸系マフィアの下部組織ブラックドッグファミリアのリーダー、お名前は蜂姫ちゃんでーす」
「お、おう……」
にこーっと笑みを浮かべた“愚者”に唖然としつつも頷く“正義”だったが、これから起こる事態の読めなさに胸の内の不安は膨れ上がるばかりだった。
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