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宴もたけなわ、有志で先生方がヘビメタ風のバンドマンに扮している。
私は舞台袖でその様子に笑みを忍ばせていた。
『青春してるかぁい!!!』
音頭を取るヴォーカルは、普段の控えめな姿からはまったく想像できない古典の先生だった。
『『Oh,Yeah!!!』』
生徒たちは三年生を中心にノリノリだ。
更には圧巻の歌唱力に度肝を抜かれ、思わず声を上げてしまう。
「うわぁあ、いったい何者なんですか?」
他の先生方も、ベースやギターを軽く弾きこなせるなんて……いや、よく見ればエアバンドだ。弾いているようでまるで弾いていない。
それでも先生方のこの日にかけた意気込みは十分に伝わった。
「ふふっ、先生たちが一番青春の只中だ」
楽しくて堪らない。
私たち三年生はこれで見収めになる。
例年こんな調子で、『人生とは最高だぞ』と、先生方は生徒に餞を贈ってくれるのだ。
今、この時を名残惜しむ愛おしい気持ちで満たされる。
夏までは気にせずにいられた。
けれどこの時期は何か行事を収める度に、いよいよ心は卒業を意識し始めてくる。
私は舞台袖で独り、もの寂しさと充足感の双方を味わっていた。
私の手には文化祭の台本が握り締められていた。
この演目の最後に幕を閉じるのが、生徒会長である私――泉透子の務めであった。
「最後を飾るに相応しい華々しい舞台だな」
仄かにメントールの香りがして、誰が隣に立ったのかは、目を向けなくとも分かった。
この馴染みのある香りは、担任の新倉先生だ。
新倉直人は、二年生の途中から産休に入った先生の代理でこの学校に赴任してきた。
そして、進路に携わる三年生を受け持つのはこの度が初めてだという、ぺいぺいの駆け出し先生である。
その割に年齢は二十八だというから、途中採用なのだろう。
「先生、また煙草を吹かして来たんですか?」
またしても香りで誤魔化しているに違いないと、私は目を眇める。
煙草を吹かした後は、エチケットスプレーをしていると誰もが知っていた。
「吹かしてねぇよ。お前がやめろやめろって、煩いから」
スンスンと鼻を鳴らしてみるも、確かにニコチン臭は無い。
純粋に清涼感のある香りしかしなかった。
「口寂しいから、お陰様でガムばっかを噛んでるんだよ」
お前の所為だと睨まれても、私は笑みを浮かべてしまう。
「それは失礼いたしました。禁煙は続いているみたいで安心しました」
ストレスの多い仕事だとは察するが、それで身体を壊して欲しくはない。
「なぁ、そっち、ちょっといいか?」
「はい」
先生からの改まった話に、私は少し暗幕の裏に寄った。
メタルな音響が煩くて、暗幕の防音壁に身を寄せねば声が聞き取りにくい。
「なんで――」
『しょうか』と、続ける筈が途切れてしまう。
先生が私の手を握って来たからだ。
――えっ……?
「原田先生な、若かりし頃は本気でシンガーを目指していたらしい。意外な一面だよな」
原田先生とは、舞台に立つ古典の先生のことで間違いない。
それは確かに意外な経歴だ。
けれど、私はそれよりも最優先事項で知りたい。
この手の意味――手を繋いで捕獲されているのは何故なのか?
答えを求めて見上げるも、先生からの返答はなかった。
先生は舞台ばかりに視線を向けたままだ。
こちらを見もしないくせに、しっかりと握る手は力強かった。
これはうっかり繋いでしまったというのではない模様。
ならば意図は一つしかない。
理解が追い付くや、ドクンと心音が大きく跳ね上がった。
轟くような爆音も、この心臓の音には敵わない。
――だ、駄目だ。
駄目な筈なのに、嬉しいが先に勝ってしまった。
悦びにわななく唇を少し噛んで、私は浮き立つ己を諫めた。
「せ、先生は、出なくて良かったんですか?」
先生があまりに平然としているから、ここで狼狽えるのは違う気がして、私もナチュラルに努める。
けれど、しっかりとその手を握り返して応じていた。
「俺はスポーツの類ならそこそこしてきたけど、音楽方面は空っきしなの」
「ふぅん、リズム音痴?」
「そ。酷いもんだよ」
いつも通りに軽口を叩いて、私たちは笑みを零し合う。
先生には目を掛けて貰っている方だと自負はあった。
だけどそれは、私が少々厄介な生徒であるからだと思っていた。
「いつか聞かせてくれますか?」
「いつか泉がピアノで伴奏してくれるならね」
それはできない相談だろう。
私の指は、不慮の事故で思うように動かなくなってしまったのだ。
飛び出した子供に急ハンドルを切った車が私の前に突っ込んで来たのだ。
幸いにして誰も命に別状は無かったものの、飛んできた破片で私は手の神経を切ってしまったのだ。
利き手で無いから日常生活になら支障はないが、繊細なタッチだと高く評価されていた指は完全に失われてしまった。
最初は諦め切れずにリハビリに専念していたけれど、医師からそれ以上は戻らないと宣告され、私はピアノを封印してしまった。
「自分のピアノに泉が失望しなくなるまで待つよ」
少し前の私なら、軽く言ってくれるなと、泣き喚いて罵っていたことだろう。
けれど今ならば、いつかはそんな風に心穏やかにピアノと向き合える日も来るのではないだろうかと、そう思うのだから不思議だった。
「先生」
「ん?」
「私、生徒会長をさせて貰えて良かったです」
私を生徒会長に推したのは先生だった。
先生は別の遣り甲斐を私に与えようとしてくれたのだろう。
自分のピアノを失い、失意のあまりに何もかもやる気を失って、すっかり不登校になっていた私に、先生は根気強く、それはもうねちっこく、昏々と言って聞かせたのだ。
最後には『甘ったれて悲劇のヒロインぶるのはいい加減やめろ』と、盛大に叱られた。
そして、毎日通い詰めて見舞に来てくれていた先生は、その日を最後にパタリと来なくなった。
いよいよ失望させてしまったかと、不意に焦りが湧いた。
今思えばそれが先生の手口だったのだろう。
押して駄目なら引いてみな作戦。
私はまんまと引っ掛かり、もう昼を過ぎたというのに久しぶりに制服に袖を通していた。
それでも真っ直ぐに学校へ足を向けられず、のらりくらりと学校の辺りで躊躇いを覚えて近くの公園に立ち寄ったのだ。
そして、偶然にもベンチで一服する先生とばったり遭遇してしまう。
学校の敷地内は全面禁煙だ。
いつも何処で吸っているのだろうと訝しんでいたけれど、こんなところまで足を運んでいたとはと、呆れてしまった。
けれど呆れた心は先生の吞気な姿を見て、身勝手にも憤りに代わる。
――私に散々、偉そうなことを言っておいて……っ!!!
『自分だって、禁煙も出来ない弱い人間じゃあないかっ!!!』
感情に任せた咄嗟の行動だった。
先生が吹かしていた火の点いた煙草を奪い取るや、私は思うように動かなくなった手で握り潰してやった。
物心つくよりも前からピアノと共に在った手だ。
ずっと大事にしてきた。
遊びはおろか、球技の日の体育は、申請して休むほどだった。
こんな風にぞんざいにしてしまえたことで、私は清々した気分だった。
でも、焦ったのは先生だった。
『ば、馬鹿か、お前はっ!!!』
火傷した私の手を、すぐさま水場で処置してくれた。
『この手はピアノをする為だけにあるわけじゃあない。そんな風に他の全部を切り捨てるなよ。そんなのは――なんかさ、なんか……くそムカつくんだよ』
私の手を注視しながらの、先生らしくないそんな言葉が何故か私の胸に響いた。
この人も、新倉先生も、かつて大きな挫折を味わったのかもしれないと、哀しみに歪んだ横顔を見ていて思ったのだ。
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