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その九 四年生 四月
ゴールデンウイークが始まろうという頃、再び璃子が美咲の部屋に飲みに来ていた。
三月、四月と、体験実習で一緒だった五人での飲み会は何度となく企画されたが、この時期は四年生への進級で、それぞれにバタバタと予定が入り、その都度流れてしまっていた。ようやく来週の連休最終日に全員そろって顔を合わせることになっていた。
美咲はその前に璃子だけには、陸とのことを報告しておきたいと思って、今日は美咲から璃子を誘った。美咲と璃子は前回の二人での女子会以来、会うことはなかったが、時折LINEや電話でやり取りをしていた。その内容のほとんどは、例のバイト先の大学生との璃子の恋愛相談で、いつの間にか美咲は、璃子から恋愛の師匠と、ちゃかして呼ばれるようになっていた。
しかし美咲のほうは自分のことを語らずにきていた。特に隠そうと思っていたわけではない。毎回璃子の話が中心になってしまうので、きっかけがなかったのだ。
明日から連休だから今日も二人は六時頃から飲んでいた。いきなり陸のことを話すのもためらわれたので、美咲は所属することになった研究室の話をした。
美咲は第一希望であった若い准教授が主催する研究室に決定した。そんなに人気がある部屋ではなかったので、希望した四名は抽選もなくすんなり決まったそうだ。ただショックだったのは、その四名の中に翔太がいたことだ。翔太と美咲、そして翔太と仲がよい北国から来た男の子、そしてあまり話したことがない自宅生の女の子の四名だった。翔太は以前、著名な柏木先生の研究に興味があるようなことを言っていたから、てっきりそこを選ぶのかと思っていた。でも考えてみれば、それは二年も前の話だ。研究室は六つもあるのに、六分の一の確率で同じになるなんて不運だという話をした。
「そうなんだ。で、で、美咲ちゃん、翔太君とはどのぐらい付き合ってたの」
美咲が不幸話をするように翔太とのことを話し始めたので、璃子は興味津々な表情を隠さずに聞いてきた。
「一年生の頃のことだから、もうよく覚えてないけど、半年も続いてないよ。それに彼、ほとんど実家に帰ってたから、実質三ヵ月もないと思う」
「で、別れてから一度もしゃべってないの? 同じクラスで?」
「うん。全然しゃべってないよ」
「理系の研究室ってよくわからないけど、文学部のゼミとはきっと全然違うんだよね。わたしたちも今年からゼミに分かれてるんだけど、基本週一回、ゼミの時ぐらいしか顔合わせないし」
「そうだね。わたしたちは研究室に所属して、教授の研究を手伝うって感じでテーマが与えられて…助手や研究員や大学院生にまじって、卒論って名目でタダ働きしている感じなんだよね。大学院生と学部生は学費払って研究の一旦を担うっていうか…先生たちにとっては仕事だから、なんか小さな研究所に就職したみたいっていうのかな、ほぼ毎日朝、研究室に行って、結構夜まで皆部屋にいて、一緒に実験してるって感じなんだよね」
「だったら、そのマザコン男と話さないわけにはいかないよね」
璃子は翔太がマザコンだったという話に、面白おかしくつっこんできた。
「だよ。話さないわけにはいかないよねぇ。そう思ったから、研究室の新人顔合わせのとき、勇気を出してこっちからこんにちはって、声かけたのよ。したら…」
「したら?」
「黙って、うんって感じで会釈だけ。男って幼稚だよね。中二病の中学生みたいな顔してたよ」
「若きウェルテルみたいな?」と言い、璃子は大笑いした。
美咲は、ウェルテルと言われても、確か有名な海外の文学作品だよなってぐらいの知識しかなかったので、その例えが適切かどうかわからなかったが、「そうそう」と同意し、璃子につられて一緒にケタケタと笑った。
「まあでも、話しかけることはできたから、もういいかな。わたし的にはとっくに終わった大昔の話だし。だいたい当のわたしたちより、同級生の残りの二人が妙に気を使った感じで接してくるのよね。できたら早いうちに、せめてあの二人には普通に接してもらいたい。きっと金橋杏里とか、あぁクラスの意地悪な女ね、クラスの女たちは、翔太とわたしが同じ研究室になって、裏で面白がってるんだろうなぁ。そう思うと、ちょっと悔しいわ」
「あぁ、それあるかもねぇ。悔しいのわかるわぁ」
璃子は心底同情するような声を出した。
美咲は翔太がマザコンだった話を他人にするのは初めてだった。美咲がクラスでなんとか友だちと呼べるのは、相変わらず直樹をはじめとする男三人であったが、男たちにこんな話をしたことはない。てか、できないことにいまさら気づいた。男なんて大なり小なりみんなマザコンだ。それを笑って共感してもらうことはできない。
美咲は璃子を得て、初めて女友だちの役割がわかったような気がした。そうか、女同士でつるむのは、このような一種身の上話を暴露して、共通の敵である男たちの悪口を言い合って共感しあうのか。この感じ、なんだか悪くない、心地良いかもと思った。璃子と知り合えて本当によかった。もう友だちと呼んでいいのだろうか。幼い時のように、「お友だちになってね」って、素直に言ってみようか。酔いも手伝って、美咲はそんなことを期待するようになっていた。
「でさ。実は今日、璃子ちゃんに報告があるの」
夜も更けてきて、美咲はようやく切り出した。すでにお互い缶チューハイを三缶ずつ開けている。
陸との交際はすでに二ヵ月ほどになる。あの日、公園の池の橋で告白された日から、一緒に食事をしたり、映画を見に行ったり、恋人同士がたどる一連のデートを足早に進んで、美咲が陸の部屋に通うようになるのに時間はかからなかった。
だが、二人の関係を知る者はほとんどいなかった。春休み中に始まったこともあり、また、四月になってからも学部が違うので、キャンパス内の校舎も遠く、二人は学内で会うことは全くなかった。
ただ、陸は美咲と付き合っていることをよほど自慢したかったのか、同じ学科の仲がいいクラスメートの男子と飲んでいる場に美咲を呼び出したことはあった。また、陸のアパートは大学の隣り駅にあったから、駅付近を二人で歩いていると、偶然陸の学科の大学院生の先輩に出会って、「彼女です」と紹介されたこともあった。
*
「えぇー! そうなの? いつから、いつから?」
美咲が「陸と付き合っているんだ」と、わざと軽い感じで言うと、璃子は目を丸くして本気で倒れるんじゃないかと思うほど後ろにのけぞり、テーブルの上にあるお菓子の袋に手をかけてしまい、中身のポテチをぶちまけてしまった。それをティッシュで片付けながら、璃子は、「まじー? うそうそ!」とさらに叫んだ。
「てかさぁ。なんでもっと早く教えてくれなかったの? 三月からって、前にここに来たすぐあとってこと?」
「うん。あのあとすぐ。黙っててごめんね」
璃子は信じられないと言うふうに、ちょっと非難めいた視線を投げかけてきた。
「さすが美咲さまさまだね。やっぱ恋愛の師匠だわ。わたしには到底真似できない」
美咲は何を言われているのかよくわからなかったが、どうもすぐに報告しなかったことをすごく怒っているようだった。
「ふうぅーん。そうなんだぁ。陸がねぇ。そんなに早々と決着つけると思わなかったよ」
璃子はちょっとため息をついた。
「美咲ちゃんはモテていいね。ずっとそうだったんでしょ。モテない人の気持ちなんてわからないよね。ここんとこずっと、わたしの話、聞いてもらってたでしょ。ほんとうは内心笑ってたんじゃないの? 中学生の恋ばなみたいなレベルで」
「そんなことないよ」
美咲は間髪入れずに答えたが、もしかしてそう思っていたかもしれないと気づかされた。二人とも酔っぱらってる。だから、これ以上この話を掘り下げてはいけないだろうとは感じた。それは璃子もそうだったように思う。言い過ぎたと思ったのか、無理して笑顔を作り、美咲に「陸はいいやつだと思う。おめでと」と、ちょっとぶっきらぼうに言った。
その後、ちょっと沈黙があってから、璃子は意を決したように話し始めた。
「でも、由香ちゃん、ちょっとかわいそう」
「えっ、何のこと?」
美咲はほんとうにすっかり忘れていたので、ここで如月由香の話がでてきたことに、なんで突然? と不思議に思った。
「由香ちゃん、陸のこと真剣だって、こないだ来た時も話したじゃん」
如月由香の彫りの深い少し愁いを帯びたような美形の顔が頭に浮かんだ。確かに前回、由香が陸を好きだろうという話をしたのは覚えている。でも、その後会うこともなく、またLINEグループのやり取りでも、由香は最小限の事務的なレスしか返さないので、美咲にとってはすでにかなり遠い人となっていた。
「由香ちゃん、たびたびわたしに相談してくるんだ」
璃子が意外な話を始めた。
「あの日、前回この部屋に来たとき、写真アップしたじゃん。で、由香ちゃんからレスあったの覚えてる?」
「うん」
美咲は言われるまで忘れていたが思い出した。確か、「今度は一緒に」みたいなコメントだった。
「で、翌日、由香ちゃんからDMもらって…」
美咲は何を言い出すのかと、璃子の口元を見ていた。
「由香ちゃん、陸のことが好きだから、どうしたらいいだろうって。わたし、ずっと相談されてたんだよ。一回、会って話したこともあるんだ。今日のこの会みたいにね」
璃子が如月由香と二人で飲みに行っているなんて考えてもみなかった。
由香は誰に言わせても綺麗な美人だろう。だけどなんだか暗くて愛想がない。あまりしゃべらないし、笑顔になることもほとんどない。美咲は、自分も女友だちはいないほうだけど、由香にはきっと全くいないだろうと思っていた。綺麗なその顔だけに惹かれる幼稚な男は寄ってきたとしても、女友だちは絶対にできないと思っていたのだ。
美咲は、なんだが変な方向に話がよじれていくと思いながら、璃子の話を聞いていた。
璃子は続ける。
「でもわたし、とんでもないこと提案しちゃったかも。わたし由香ちゃんに、美咲ちゃんは恋愛の師匠だから、わたしなんかじゃなくて、美咲ちゃんに相談しなよって言ったの。でもさ、わたし意地悪だった。だって、陸が美咲ちゃん好きって、すでにわかってたのに。なのに美咲ちゃんに相談しろって…」
言葉が途切れたから、どうしたのかと思ったら、なんと璃子は目に涙をためていた。
「まさか、美咲ちゃんも陸のこと好きだなんて、考えてもみなかったよ」
璃子は下を向き、こぼれる涙をティッシュでぬぐった。美咲は何て言っていいのかわからなかった。璃子の話に出てくる自分は、自分のようでいて自分でないような気分だった。
「ごめん。もっと早く知らせればよかったね。でもさ。わたし由香さんから連絡とか全然ないよ」
「そうなんだ。由香ちゃん、そういえば美咲ちゃんはちょっと苦手みたいこと言ってたかも。同じ男を好きになるんだから、趣味が合うような気もするのにね」
璃子は言いながら、一瞬顔をくしゃっとさせて笑った。
美咲はお互い様だと思った。美咲だって由香は苦手と思っているのだから。
璃子は涙をふきふき、話し続けた。
「どうしよう。わたし、由香ちゃんに何て言おう。わたしが本当に二人のことを今日まで知らなかったってこと、由香ちゃん信じてくれるかな。なんて言おう。だって、美咲ちゃんが、たびたびわたしの恋ばなの相談に乗ってくれてることは、由香ちゃんによく話してるんだよ。だから、知ってて隠してたって思われるよ、きっと」
美咲は、なぜ陸のことを告白した時に璃子が怒ったのかようやく理解した。連休終わり、つまり十日後に五人は久々に会う予定なのだ。
「わかったよ。璃子ちゃん、今日、わたしと会うことは由香さんに伝えてある?」
「ううん。今日のことは言ってない。これ決まったの一昨日だったじゃん」
「だったら…わたしたち、わたしと陸ね、元々そうするつもりだったんだけど、今度の飲み会でみんなに言うから。付き合ってるって。で、璃子ちゃん。璃子ちゃんもその時初めて聞いたってことにすればいいよ」
璃子はじっと美咲のことをみつめ、力が抜けたような声を出した。
「わかったぁ。そうだね。知らなかったことにすればいいんだね」
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