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その十 四年生 五月
五月の連休最終日の前日午後六時、大学最寄り駅のいつもの居酒屋に五人は集まった。
美咲は、前日も会っていた陸から一緒に行こうと言われたが、バイト上がりに直接行きたいこともあり、あえて陸と一緒には行かなかった。また、もし早目に行って、由香と二人きりになるのが嫌だったから、バイトで少しだけ遅れるとグループLINEに入れておいた。
美咲が店の扉を開けると、いつもの奥まった席から、まっさきに気づいた陸が手を振ったのが見えた。美咲も応えるように手を振りながら、半分ほどテーブルが埋まっていた店内を進み、「ごめん。遅くなった」と言って、どこに座ろうかと席を探した。すると、それまで陸の横に座っていた璃子が立ち上がって、「ここでいい?」と、自分が座っていたところを空けた。璃子は最初から考えていたのだろう。すごく自然に立ち上がり、「ちょっとトレイ行ってくる」と言ってから、美咲を自分の席に座らせ、戻ってきたときにはテーブルの反対側の別の席にさり気なく座った。
そういう一連の動作を、陸の反対隣りに座っていた由香がちょっと不思議そうな顔をして見ていた。
「ではでは」と言って、当然といったふうに璃子がビールのコップを持ってちょっと立ち上がった。
「久々ですね。三月の五日だっけか前回は。ほぼ二ヵ月ぶりです。初めて会った極寒の二月から、季節も進んでビールが美味しい時期がやってきました…」
「もういいんじゃない挨拶は」
桜子が茶々を入れた。
皆が笑って「カンパーイ!」と声を合わせた。
しばらく近況報告が続いた。桜子はデザイン系の出版社から内定が出そうだという話をし、由香さんは卒論が大変で就職活動どころではないから、やっぱり本気で先生を目指そうかなと言った。
続いて璃子が、ゼミの担当教授のカツラがよくずれるという話でひとしきり笑わせてくれた後、美咲か陸かという番になった。
陸がちょっとエヘンっと咳払いをした。
「実は皆さんにご報告があります」
美咲はちょっと下を向いて、これから陸が言わんとすることに身構えたが、他は皆陸の方に向いた。
「僕、菅原陸は、ここにいる遠藤美咲さんとお付き合いをさせていただいてます」
陸のはっきりとした低い声が響いた。美咲はイケボだなとあらためて思う。この声でささやかれると、全身の力が抜けて溶ろけそうになることを、美咲は夕べも体験していた。
美咲がそんなことを考えていた間、一瞬沈黙があったが、それを破ったのはもちろん璃子だった。
「えぇーー! うっそぉー。全然知らなかったあ!」
あまりに大きな声をだしたので、他所のテーブルにいる人たちが「何?」といって、振り向いたほどだった。桜子もすぐに続いた。
「まじ? ほんと? えっ、そうなの? えっ?」と、何度も繰り返していた。
美咲は黙ったまま、斜め前にいる如月由香をそれとなく観察した。由香は大きな目をさらに大きく見開いた。端から見ていても、悲しみと驚きが入り混じっているのがわかった。
「ねぇ、いつからなの?」桜子が美咲に聞いてきた。
「うん。三月の半ば頃からかな」
「え? そんな前から、っていうことは、二人とも実習中から好き同士だったってこと?」
「まあな」と、自信ありげに陸が答えたので、美咲は「わたしは実習中はそうでもなかったんだけどね」と、やんわりと訂正した。
「にしても、嫌いじゃなかったんだよね」と、璃子が美咲を覗き込むように言った。
「もちろん、嫌いじゃないよ」
美咲が答えると、陸の顔がちょっとニヤけたのがわかった。
夕べ、美咲は陸に身体をまさぐられながら、「これどう?」と聞かれて、素直に肯定するのが恥ずかしかったので、「嫌いじゃないよ」と消え入りそうな声で答えたことが思い出された。
「なにニヤけてんのよ!」
璃子がすかさず二人のただならぬ雰囲気に気づいて、陸に咎めるような声で注意した。
そのとき、ガタっと音がして、由香が立ち上がった。
「ごめん。わたし…今日用事があるんだった。先に帰る」
由香の端正で大きな目が赤くなっているは誰の目にも明らかだった。由香は千円札を一枚テーブルに置くと、あっという間に店を出て行ってしまった。
「ちょっと待って!」
すぐに璃子がその後を追った。
「どうしたんだろう。由香さん、なんか泣きそうだったね」
桜子が不思議そうな顔で美咲と陸に言ったが、そう言いながら、何となく事態に気づいているようだった。
おそらくいちばん驚いているのは陸だった。がしかし、陸は何も言わなかった。
五分ほどすると璃子が一人で帰ってきた。
「大丈夫。なんか家に誰か来るのを忘れてたみたいよ」
璃子はわざと軽い感じでいかにも嘘っぽいことを言ったが、誰もそれ以上追求する者はいなかった。
その夜は、いつものように璃子が一所懸命に明るく話題を提供してはいたが、いつもしゃべり倒している陸の話があまり弾まないこともあり、午後九時、一次会で解散することになった。店を出ると桜子は、「この時間ならまだ自宅に帰れる、お先に!」と言いながら、駅まで全速で走っていた。
陸はさりげなく一緒に来いよ、というふうに美咲の腕に手をまわそうとしたが、美咲は優しくそれを振り払って、璃子と一緒に帰ることにした。
*
「由香さん、大丈夫だった?」
帰りのすいた電車の中で、美咲はさっそく璃子に尋ねた。
「大丈夫だと思う。でもかなりショックだったみたい。由香ちゃん、今日は陸に二ヵ月ぶりに会えると思って、新しい服わざわざ買ったんだって」
美咲は由香が来ていた淡いパステルカラーのシャツを思い出したが、何も言えなかった。ただ、もしこの話が自分と関係なかったとしたら、由香に同情しただろうとは思う。
「陸ってさ、由香ちゃんのこと全然気づいてなかったのかな。わたしたちだって早々に気づいてたのに。なんか言ってなかった?」
「気づいてなかったと思う」
実は美咲は陸にそれとなく聞いたことがあった。四人の女の子のうち、わたし以外の三人をどう思うかといったことだ。その中で陸は、「由香さんってちょっと苦手だな。ああゆうモデルみたいな子が好きっていう男がいるのはわかるけど、なんかお人形さんみたいっていうか、無表情でちょっと怖いんだよね」と言ったのだ。
美咲は陰口のように思われそうで、璃子にどこまで言っていいのかわからなかった。だから、「なんかちょっと怖いとは言ってたよ」とだけ答えた。
「怖い? まあ、由香ちゃん、ちょっと迫力のある美人だからね。あんな美人でもフラれちゃうっていうか、恋は実らないことがあるんだね。あぁ、考えれば考えるほど、わたしなんか相手にされそうもないなぁ」
美咲は、璃子が当たり障りなく自分のことに話をもっていって、由香の話を終わらせようとしているのを感じたので、それ以上この話を続けることはできなかった。
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