その十一 四年生 梅雨

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その十一 四年生 梅雨

まだ五月末なのに、例年になく豪雨から始まった梅雨はすでに一週間を過ぎていた。六月は、美咲たちのように教員免許を取る学生にとって、最後の必修科目となる教育実習という大きなイベントが控えていた。すでに一年前に予約した中学や高校で実習生として教壇に立つのだ。 美咲は他の多くの学生と同じように、当初は実家の福岡に帰って母校にお世話になろうと考えていたのだが、学科の大学院生で教職課程を取っていた先輩に聞いたところ、美咲たちのような理系の実験系だと、三週間も研究室から完全に離れてしまうと、後でとんでもなく大変になると言われた。なので、大学から紹介された近隣の都立高校で行うことになっていた。 それとは違って文系の陸は、現在、大学に行かなければならない日がほとんどない。当たり前というように山梨県の大月にある実家近くの母校で四週間の実習を予定していた。 「一ヵ月も会えないなんて、ちょっとだけ遠距離恋愛みたい」 陸の部屋で、テレビでやってたピクサーの映画を見ながら、美咲は隣にいる陸の肩にもたれかかった。 「大丈夫。俺、週末には帰ってくるよ。大月、近いんだぜ。美咲に会いに戻ってくる」 陸はそういうと美咲に軽くキスをした。 「でも四週間なんて、陸、中学の免許も取るんだ。わたしは高校だけだから三週間だけど、長いよね四週間」 「まあでも、担当してもらう歴史の先生、ハゲタカって呼んでたんだけど、高山ってのが本名で、頭つるつるで…高校のとき、受験で悩んでいる時にすごくよくしてもらったんだよ。俺、その先生の影響で史学科選んだんだ」 「いいなぁ。わたし、この間挨拶に行ったじゃん、実習校。理科の先生たち、なんかあまりいい感じじゃなかったんだよね。あんなもんなのかな。それに福岡の高校と違って、そこの都立高校、制服がなくて、女の子も可愛いカッコしてるんだけど、男の子たちもアイドルみたいな髪型の子がいたりして、やっていけるかなって、ちょっと不安なんだ。やっぱり福岡に帰ればよかったかなって思ったり…親も楽しみにしてたんだよね、帰省して母校に実習行くのを」 「まあ、母校での実習は一種同窓会みたいだっていうしな。聞いたら、地元の国立大学にいった連中とかがいっぱい来るみたいなんだよなぁ…」 ここまで言うと陸は、ちょっと言いよどんだ。美咲はちょっと思いついて冗談で、 「もしかして、昔の彼女とかも一緒だったりするんでしょ」と、笑いながら聞いてみた。 すると驚いたことに、陸はちょっと表情を硬くした。 「まあ、もう昔のことだから。今さら会ってどうのこうのってことはないし」 「えっ! マジで元カノも実習くるんだ。元カノは何の科目? もしかして一緒? 社会?」 「彼女は音楽。東京の音大に行ってるんだよ」 陸が昔の彼女と四週間同じところで実習する。これまでにも、母校で実習する人たちはプチ同窓会みたいになると聞いたことがある。まさか陸とその彼女が、いまさらどうかなるとも思えないが、楽しい話ではなかった。 しかし美咲は、その気持ちが悟られるのもしゃくだと思ったし、純粋にどんな彼女なのか興味がでてきたので、「名前なんていうの?」と聞いてみた。 「えっ? いいよ。言わないよ」 「いいじゃん。もう昔のことなら、ただの同級生ってことでしょ。教えてよ」 「もりかわ、りょうこ」 陸はしょうがないな、っていうように言った。 美咲は床の上に無造作においてあった自分のスマホを手に取り、すぐにFacebookを検索しだした。音楽をやっている子なら、きっと何か発信しているはずだ。 陸はすぐに写真を拾おうとする姿にちょっとびっくりしていたが、焼きもちを焼いてくれてるんだと思うと、美咲がかわいく思えた。 「ちなみにりょうこは、涼しい子」 「あったこれだ! 森川涼子、T音大ピアノ科四年、山梨県出身」 プロフ写真には楽譜しか写っていなかったが、いくつかのコンサートの告知といっしょに本人の写真が上がっていた。 エメラルドグリーンのコンサート用のドレスをまとってピアノの前に立つ涼子をみて、美咲はちょっと複雑な心境になった。舞台化粧だから、素顔とは違うのはわかっているが、まるでタレントのように綺麗な顔立ちの涼子は、なんとなく如月由香に似ていた。 「これ、俺初めて見た。Facebookとかけっこう上げてんだ。見せて」と言って、陸は美咲からスマホを取り上げた。 「げっ! これ厚化粧だろ。百倍盛ってんな」と言いながら、下の方にスクロールさせて何枚も写真を見ている。 「でも綺麗な人だね。で、なんで別れちゃったの? 一緒に東京に出てきたんでしょ。T音大って都心の方だよね」 「まあそれはその。大学生になるといろいろ環境変わるからさ。いつまでも純朴な田舎の高校生ではいられないってことだよ。わかるだろ? 美咲だって地方出身者なんだから。こっちきて、ゴールデンウィークには一緒に帰省したりしたんだけど、でもたしか、夏休みには別れてたよ。あっちに同じ学校の新しい彼氏ができて、俺はフラれたんだよ」 「どのぐらい付き合ってたの?」 「高二の夏からだから二年ってとこかな」というと、陸はちょっと遠い目をした。当時を思い出しているのだろう。 「ねぇ美咲ちゃん、ずるいよ。俺にばっか話させて。じゃあ今度は美咲の番。昔の彼氏の名前言ってみ」 「えっ、だってわたしは元彼と会う予定なんかないもん。陸は来週から毎日この子と会うんでしょ。状況が違うよ」 「いいじゃん。ちょっと興味があるだけだよ」今度は陸が自分のスマホを手にした。「で、名前は? 福岡の県立S高校だったよね」 美咲は翔太のことを聞かれたのかと思って、とっさに会う予定がないと嘘をついてしまったが(実際は研究室でほぼ毎日顔を合わせていた)、そんな必要はなかった。高校時代のことだ。 実は美咲は、陸に翔太のことを全く話していなかった。大学生になってちょっとだけ付き合った人がいたという話はしたことがあるが、陸のほうにも言いたくないことがあるのか(璃子が言っていた国文科の子とか)、具体的には聞いてこなかったし、美咲も聞かなかった。学部が違うとはいえ、同じ大学構内にまだいる可能性が高いから、どこかで顔を合わせないとは限らない。 美咲は高校時代の話ならしてもいいかなと思った。九州大学に進んだ彼とはすでに個人的な交流は全くないが、LINEやFacebookの同窓会グループで一緒になっているのは知っていた。 美咲は陸に検索されるよりは、自ら見せたほうがいいかなと思い、Facebookを開き、同窓会のメンバーから、彼のページを探し出した。美咲にとっても久々に見るだいぶ大人になった大学生の元カレがそこにいた。そういえば、この人が初めての人だったことを思い出した。 「この人」美咲は写真を指差した。 「高校一年からかな、付き合ってたの。一緒に自転車通学とかしてたよ。田舎の高校生らしいでしょ。三年になる時に勉強に専念したいから別れようって言われたの」 陸はじっと画面を見つめたが、「へぇえ」としか言わなかった。 「それよかさ。Facebookって、検索とかかけちゃうと、お友だちじゃないですかとか、相手に通知されちゃうんじゃなかったっけ?」 「はは、そうだったね。まあいいや、もう昔の人だし、わざわざ連絡もないでしょ」 「いや案外、向こうも同じことしてるのかもよ。だとすると、今後もいつ誰に検索されてもいいように、やっぱ写真は選んで上げるべきだな。美咲のページ、大学の入学式で停まってるじゃん。更新したら?」と言いながら、陸は美咲のページを開いて見せてきた。 「いいの。わたしは読みアカで十分。いつまでも変わらない過去の人でいいよ」 美咲の周りにも、璃子のようにSNSでの交流が生活の中心になっている子たちがけっこういるが、美咲はもともとあまり興味がなかった。昔からアイドルや芸能人にもそれほど興味がなかったし、会ったこともない画面の向こうの人たちとの交流というのがどうも苦手だった。 ただおそらく、そういうのにはまっている人たちには、美咲みたいな人間はいわゆるリア充(リアルな世界が充実している)だからと思われているのだろう。 美咲は昔から、たとえどんなにイケメンでも、手も触れられないようなアイドルやスポーツ選手などより、クラスメートなどの身近な生身の男の子のほうが興味の対象だった。前から思っていることではあるが、男女のハードルが低い美咲からしてみると、おそらくそのハードルが高い人たちは、生身の人間の肌の触れあいをそれほど重視していないように思えるのだ。 「陸ぅ、ひと月近くも会えないんだよ」 美咲は甘えるように陸の手を取ると、自分の胸にそっと当てた。心臓の鼓動が陸の手に伝わっていくのがわかる。美咲が軽く目をつぶると、陸の唇が頬に触れた。「美咲」と呼ぶ声が低く響く。あらためていい声だなと思いながら、美咲は心が高ぶっていくのを楽しんでいた。
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