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その十二 四年生 七月(1)
教育実習は案外拍子抜けするほど滞りなく終わった。美咲が少し危惧していた陸と元カノの復活も、もちろん全くなかったようだ。実習途中、ちょうど半ばの頃に、陸は一回だけ東京に戻ってきた(詳しくは、番外編「陸の帰京」をご覧ください)。ほぼ毎日、他愛もないことをLINEや電話でやり取りをしていたので、実際に会った時にしたことは触れ合うことだけだった。でも、会えずに交わした膨大な量の言葉でのやり取りは、美咲と陸の関係をより強いものにしたことは確かだった。
そんな七月のある日、久しぶりに璃子から美咲に連絡があった。
日曜の昼だった。陸は塾講師のバイトがあって会う予定はなく、美咲はSpotifyでお気に入りのBGMをかけながら、部屋の片づけをしていた。
璃子からのLINEは『今から会えない?』というもので、片付けも終わりそうだったから、『だったら来ない? 部屋掃除したばっかだし』と返した。
璃子とは同じところに住んでいるのだから、たまにばったり出会うことはあった。しかし、きちんと話をするのは、あの連休の夜以来だった。
「わぁ! きれいになってる。いいなぁ、わたしもちゃんと片づけなきゃ」
お菓子の袋を持って入ってきた璃子は、さっそく部屋を見渡して言った。
「お茶でいい? コーヒー? 確かアイスコーヒーがあったと思う」
「あぁ。何でもいいよ。お構いなく」
璃子は出しておいた座布団の上にちょこんと座った。
「実習どうだった? 帰ったんだよね、宮崎?」
「うん。楽しかった。卒業してから三年しかたってないのに、高校生ってこんなに子供なのかってビックリしたよ。逆に先生たちが、ぐっと身近になったっていうか。美咲ちゃんはどうだった?」
「わたしは都立高校だったから、ジェネレーションギャップ以上に、地域間ギャップ? っていうのかな、東京の高校生ってやっぱり進んでるっていうか…ちょっと驚いたかな」
「そっかー。そういうのあるかもねぇ。なんかさ、ようやく慣れてきたけど、こっちに初めて出てきたとき、やっぱ東京出身者にはなんだか壁みたいの感じなかった?」
「あるある。思いっきり壁にはじかれた感あるよ」と言って、美咲はクラスメートの女子たちを思い浮かべた。
「だよね。でもっていまだにちょっとある。結局、仲良くなるのは地方出身者同士みたいのあるもん。東京出身の自宅生、特に中高一貫の女子高出身者ってなんか独特な空気感あるよね。入って行けない。あぁ、一人一人だといいんだけどね。案外みんないい子だし、お嬢様で、桜子とかさ」
「英文は女の子多いから、そこまで分析できるんだね。こっちは分析できるほど人数いないからよくわからないけど。でも確かに、男の子も、東京の子と地方の子と、いまだに微妙にわかれているようなとこ、あるかもしれない」
「そうなんだね。同じか」と言って、璃子は笑った。
「でさ、今日来たのは、特に用事がってわけじゃないんだけど…その、陸とは相変わらずうまく行ってるの?」
「うん」
美咲はなるべく感情をのせないように答えた。
「そっかー、そうなんだ。ちょっとね、由香ちゃんに頼まれちゃって。まだ続いてるのかどうかってね」
あの夜から五人のグループLINEが動くことはなかった。陸ももちろんわかったのだろう、二人の間で由香のことを話題にすることはなく、グループでの飲み会はもう開かれないであろうことを、なんとなく感じ取っていた。
「由香さんとまだ結構話してるんだ?」
「うん。たまにね。LINEが多いけどね。彼女、陸のこと、まだあきらめきれないみたいなんだよね」
「それ、わたしに言われてもねえ。で、璃子ちゃん、今日は偵察にきたんだ」
美咲は角が立たないように冗談めかして言い、わざとにっこりと笑ってから立ち上がり、棚に入っていたお菓子の袋を取り出して、テーブルの上に広げた。
璃子は「ありがとう」と言って、その中からひとつ、ビスケットの小袋を手に取った。
「悪いけど、わたしは陸と別れるつもりはないよ。そりゃ将来はわからないけど。結婚の約束してるわけじゃないし」
美咲はちょっと強い口調で言った。璃子はいったい何を言いに来たのだろう。
「わかってるよ。でも、由香ちゃんね。最近なんかちょっと思い詰めてるっていうか、陸のことどんどん理想化してる感じもして、きっと陸は数学科とかにはいないタイプなんだろうね。でさ、由香ちゃん、危ない感じがするんだよ」
すると璃子は少し背筋を伸ばして、「美咲ちゃん、気を付けてね」と、真剣な声をだして言った。
「気を付けるって、なに? わたし、なんかされそうなの? わたしは別に何も悪いことしてないよ」
「あのね、美咲ちゃん、確かに美咲ちゃんは何も悪くない。陸もね。お互い好き合ってて、付き合って、他人には全然関係ないこと。だけどね、前にも言ったことあるけど、美咲ちゃんみたいにモテる人にはわからない感情があるのよ。振り向いてもらえない人にはさ、案外付き合ってる当人たちより強い思いがあったりするわけよ」
「なんだかわたしの気持ちは軽いみたいじゃない。だいたい、わたしがモテるって、わたしそんなにモテてないし」
「謙遜しなくていいよ。美咲ちゃんはモテモテだって、桜子から聞いたよ」
「えっ? 桜子ちゃん? どうして桜子ちゃんがでてくるの?」
璃子はコップに入ったアイスコーヒーを一口飲んだ。
「桜子、母校のM女学園に教育実習に行ったでしょ。世田谷にある。そこで美咲ちゃんのクラスの子と一緒だったって。その子とは同級生だったんだけど、桜子は文系クラスでその子は理系だったから、高校の時はほとんど話したことなかったらしいんだけど…」
美咲は頭の中でぐるぐるとクラスの女の子たちを一人ずつ思い出そうとしていた。女子で教職課程を取っている子は二人いたはずだ。ただ、美咲はあまり交流がなかったので、どっちの子が世田谷の女子高出身なのかわからなかった。
璃子はまたコーヒーを一口飲んでから、いつもより少し低い声で言った。
「その子が、美咲ちゃんがクラスの男の子と次々と付き合ってるって」
美咲はあまりに思ってもみない話にまず驚いた。が、次第に怒りで顔が火照るのがわかった。
「わたし、クラスで付き合ったことがあるのは、璃子ちゃんにも前話したじゃん、一人だけだよ。それももう二年も前の話」
「例のマザコンの人だよね。でも、ほんとうにそれだけ? 桜子からの話だと、一年生の最初の飲み会から男とできて二人で消えたとか、その後、クラスの子を二股にかけてたとか、二年生の時にはクラスの男の子の家に泊まったとか…それから、クラスの男の子の取り合いで他学科の女子が授業中乱入してきたとかって話も聞いたよ」
美咲は頭がくらくらしてきた。璃子は何を言っているんだ。最初の飲み会、直樹との件はいいとしても、いやよくない、別に直樹とはそういう関係ではないのだから、二股なんてない。クラスの男の子の家って、あれか、いつもの三人と飲んでて帰れなくなって、雄太郎と一緒に大学近くの荒武信二のアパートに泊まったことがある。でも、あいつらは単に男友だちであって。そりゃ、荒武信二が自分に気があることには気づいてるけど。それから乱入って何? あの直樹をひっぱたいた女のこと? あれ全然わたし関係ないし!
「うそうそ、嘘よ、そんな話。面白おかしく誰かが尾ひれつけてるだけじゃない。璃子ちゃん信じたの?」
美咲は璃子の目をまっすぐにみつめた。
「ごめん。そうだよね。美咲ちゃんはそんな人じゃないよね。ごめん。ただ、桜子は信じちゃってるかな。もう美咲ちゃんとは会えないとかって言ってるし。なんだかんだ、母校の同級生のほうが信じられるんだろうしね。で、あと…」
璃子が言いよどむのを美咲は見逃さなかった。
「もしかして、由香さんにも言ったの?」
「うん」
「桜子ちゃんが? それとも…」
「ごめん。わたしが教えた。なんだか隠しておけなかったんだよ。由香ちゃん、たびたび連絡してきて、美咲ちゃんにはかなわないみたいなこと、しんみり言うからさ。思わず励まそうと思って、陸は美咲ちゃんにうまいこと落とされたんだって…ごめん」
璃子は本当に申し訳ないというように、しどろもどろに説明した。
美咲は黙っていったん目を閉じ、一息大きく呼吸した。怒りを通り越して、悲しい気持ちも湧いてきたが、それよりもだんだんと、何だか馬鹿らしいような気がしてきた。
「ふふふ…」
美咲の口からちょっと笑い声が漏れた。
「もういいよ。璃子ちゃん、もういい。どうでも。ごめん、今日はもう帰ってくれる? ちょっと疲れた」
璃子は何も言わずに立ち上がると、自分が使ったコップを流しに運んだ。
「そのまま置いといて」
「うん。じゃ」
バタンとドアが閉まる音がした。
美咲はベッドに倒れ込んで横になった。しばらくすると涙がこぼれてきた。わたし泣いてるんだ。なんで、なんで、あんなろくに話したこともないクラスの子にあれこれ言われなきゃならないんだろう。目をつぶって懸命に思い出そうとしても、桜子の同級生というクラスメートの顔が美咲にはよく思い出せなかった。美咲は四年生にもなったのに、たった八人しかいない女子グループの顔をきちんと把握していなかったのだ。
そしておそらくこういうところが、美咲に女友だちがいない最大の理由でもあるのだが、美咲自身にその自覚は全くなかった。
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