その十三 四年生 七月(2)

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その十三 四年生 七月(2)

ここのところ美咲は、平日の週の半分は夕方六時頃に研究室をでると、そのまま最寄り駅から家とは反対方向に一駅乗り、歩いて五分ほどの陸の部屋で一緒に夕食をとることが多かった。すでに陸からは合い鍵をもらっており、当初は近くのスーパーで総菜を買っていくことが多かったが、最近はちょっと頑張って料理に挑戦することもある。ただ、陸は思いのほか料理男子だったので、陸が作って待っていることの方が多かった。 美咲も陸も進路としては大学院を目指していた。しかし理系の美咲がほぼ毎日九時五時で学校に行くのに対して、歴史資料を読み込んで論文を仕上げるという形の文系の陸は、卒論以外の単位はすでに取得済みなので、学校へは週に一回のゼミと、調べものに図書館に行くぐらいだった。 ただ、陸は平日夜に週二回と日曜日に塾講師のバイトを入れていた。一方、美咲のバイト事情はというと、研究室に所属してから忙しくて、三年までやっていたファミレスのバイトはほぼできなくなったので五月の連休で辞め、現在は学科の先輩から引き継いだ女子中学生の数学の家庭教師に週一回行くだけだった。 その夜は実験が少々長引いてしまって、学校を出た時はもう八時だった。きちんと決めているわけではないが、なんとなく八時を過ぎた時は、陸のところには寄らずに自宅に帰るようにしていた。次の朝も早いのだ。陸のところで長居はできない。ただ、昨日はバイトで会えなかったから、やっぱり会いたい気持ちが勝ってしまった。 『やっぱ行くね』 美咲がバスの中でLINEを入れると、すぐに『り』というレスが帰ってきた。 すでに実験中に、遅くなるから行けないかもというLINEを入れていたので、陸は状況をわかっていた。 電車に乗り、そろそろ駅に着くというとき、着信で震えるスマホを開いた。そこには、焼きそばと蒸し鶏のサラダがテーブルに並んでいる写真があった。 『おいしそう! 先に食べてて』 『適当にやってる。待ってるよ♡』 ♡マークを見て、美咲はなんだか恥ずかしくなり、見られてないか、かなり混んでいる車内で思わず周りを確認した。 今のところ卒業研究も順調だし、恋も順調だ。この間璃子に言われたことがまだかすかに頭に残ってはいたが、美咲のリアルライフは充実していると言い切っても過言ではなかった。 駅から五分ほどの道を弾んだ気持ちで急ぎ足で歩いて、陸の部屋のドアを開けた。いつもなら陸は、ドアのところまですぐに出て来て、美咲を抱きしめてキスしてくれる。しかしこの夜、陸は出てこなかった。 靴を脱ぎ、「陸、きたよ」と言って中に入ったが、玄関からは見えない造りになっている六畳と四畳半の二間に陸はいなかった。小さなローテーブルの上には、さっき見た写真と同じ料理が二人分向かい合わせに並べてあり、いつも陸が座るほうには缶の口が開けられたビールがそのまま置かれていた。 美咲はただならぬ気配を感じ取った。陸に何かあったのだ。スマホを取り出すと、陸にLINEした。 『どこ?』 しかし、さっきは即答だったのに、今度は既読が付かなかった。 美咲は不安になった。陸は何か犯罪のようなものに巻き込まれたんじゃないだろうか。どうしたらいいんだろう。警察に行こうかとも一瞬思ったが、子供でもない成人男性だ。相手にしてくれないだろう。などと逡巡しているうちに、少し冷静になってきて、たぶん何か買い足りないものを思いついて、コンビニでも行ったのだろうと考えた。 五分ほど何もしないで座っていたと思う。すると、音量を上げておいたスマホの着信音が響いた。 『すぐに帰るから。先に食べてていいよ』とあった。 まずはよかったと美咲は安堵した。事件に巻き込まれたわけではなさそうだ。美咲はいつも使っている了解を示すシンプルなキャラクタースタンプを返した。今度はすぐに既読がついた。 着たままでいた夏用のカーディガンを脱いで、壁のハンガーにかけ、美咲はテーブルに並んでいた料理をレンジで温め始めた。すでに焼きそばは少し冷めてしまっていた。 ガチャっとドアが開く音がして、「ただいま」という声がした。いつもの低音がもっと低い声になっていて、ひどく疲れているのが感じられた。 「何かあったの?」 陸はすぐには答えなかった。テーブルの上にあったはずのビールがなくなっていることに気づいて、冷蔵庫を開けて、飲みかけのビールを出してゴクゴクと一気に飲んだ。 「由香さんが来た」 陸はぼそっと言った。 美咲は嫌な予感がした。陸に何かを言いに来たに違いない。 「それで? 由香さん、何の用だったの?」 「なんかいろいろ言われた。美咲のこと…さっき、突然来たんだ。鍵開けてたはずだったから、呼び鈴が鳴って、えって思ったんだけど、美咲かなって開けたら、由香さんが立ってた。で、話があるから部屋に入れてって言われて…断って、外で話そうってことになった」 美咲は暗澹たる思いで聞いていた。綺麗なガラス細工が音を立てて壊れていくような映像が頭に浮かんだ。陸はきっとあの話を聞いたんだ。 「でさ、裏の公園で話してたんだけど…美咲のこと、一方的にすごく悪く言うんだ。なんだか彼女、ひどく興奮してて、途中で泣き出しちゃってさ。俺、どうしていいのかわからなかったよ。夜の公園で女と二人だぜ。通りを歩いている人もちらほらいて、なんかで揉めてて俺が泣かせてるみたいでさ。ほんと、まいったよ」 「由香さん、何て言ってたの?」 美咲は聞きたくないとも思ったが、陸がどこまで何を聞いたのかを知りたかった。 陸はふと黙ってから、言葉を選ぶように、いつもよりもゆっくりと話し出した。 「なぁ美咲、俺、美咲のこと、本当に好きだから。大事に思ってるよ」 質問に答える代わりに、陸はそう言うと、美咲に近づき、その手を取った。 「まずはそれを言っておきたい。俺の気持ちは変わらないから」 予想していた悪い方向には進まないように感じたが、美咲はまだ半信半疑だった。 「由香さんが何て言ってたか、どうしても気になるの」 「わかったよ…美咲が同じクラスの男たちを手玉にとって何股もかけてるって」 おそらくこの手の噂話によくあるように、こないだ璃子に聞いた時よりもさらに尾ひれがついているのだろう。陸は美咲の手をずっと握っていた。 「でも俺、言ったんだ。美咲がモテるのはわかってるって。もしクラスの男と何かあったとしても、今現在、美咲に選ばれてる一番の男は俺だって自信があるから関係ないって。それに、俺自身が美咲がいいと思ってるんだからって」 「由香さん、何て?」 「騙されてるってさ。美咲は魔性の女だって言われたよ」 「魔性って…」なんだそれ? どっちかって言ったら、見た目では由香さんのほうがよっぽどぴったりくるイメージだろ、と頭の片隅で美咲は思った。 「わたしね。言ってなかったけど、クラスの男の子、それも今、研究室一緒なんだけど、一年生の時に少しだけ付き合ってた人がいるの。でもその人だけだよ。何股とかって、二股もしたことないから」 陸は、研究室が一緒というところで、ちょっとえって思ったのか、握られた手がピクッとしたのを感じた。 「わかってるよ。美咲はさ、モテるだろ? 自分じゃあまり意識してないんだろうけど、何ていうのかな、男心をそそるっていうか、ごめん、悪い言い方だった…でもさ、うまく言えないんだけど、そんなところがあるんだよ」 陸は一息ついてから、さらに続けた。 「だから、美咲に彼氏がいないって知ったとき、ほんとにラッキーって思ったんだ。男がいないはずはないと思ってたから。だから、過去は全然気にしてない。てか、俺にとってモテる美咲は自慢になることはあっても、嫌なことじゃない。かりに魔性の女に騙されててもいいんだよ」 「由香さんにそう言ったの?」 「言った。憐れんでるみたいな顔された。笑っちゃうよな」 「でも由香さん、陸のことが好きなんだよ。そこはわかってるの?」 「それはわかってるよ。俺だってそんなに鈍くない。だから忠告しに来たんだろうし…陸君のためとかって何度も言われたしさ。だからきっぱり言わなきゃいけないと思って、最後に、今後もし美咲と別れるようなことがあっても、由香さんとどうこうなるとか絶対ないからって言った。そうしたら、駅の方に走って帰って行ったよ」 美咲は由香の気持ちをおもんばかると少し可哀想に思った。陸もそこまで言わなくてもいいのにと思う反面、そこまで言わなきゃ引き下がらなかっただろうとも思う。 「もう、やめよ。食べようぜ。今日の焼きそば、ちょっとだけいい肉買って入れたんだ」 陸は話題を変えようとして、ちょっと無理に微笑んだ。美咲はうんとうなずいたが、なんだかまだ漠然とした不安を感じていた。 明日はまた朝から研究室に行かなければならないから、当初美咲は家に帰るつもりでいた。だが、由香がまだ近くにいるんじゃないかと思うと、部屋を出るのが怖かった。食事の後、陸に何度も泊まっていけと言われて、その晩美咲は陸の腕の中で眠った。由香には悪いが、今回のことで陸との仲がいっそう深まった気がした。 翌朝、小さな音量の目覚ましで六時に起きた美咲は、冷蔵庫にあった缶コーヒーを飲んで、まだ半分寝ている陸におはようのキスをすると、早々に身支度をして、すでに通勤客で満員となっている中央線に乗って一旦自分の部屋に帰った。           * マンションのエントランスから階段を上がろうとしたとき、西棟の降り口から声が聞こえてきた。美咲は早く部屋に戻りたかったから最初は気にも留めていなかった。 「じゃ、璃子ちゃんいろいろありがとう。いいよ、ここで」 「元気だしてね。わたしはいつでも話聞くから」 聞こえてきたのは、なんと璃子の声だった。そして、階段の二階の踊り場からそっと見下ろすと、そこにいたのは紛れもなく如月由香だった。 美咲は自分が悪いことをしているわけでもないのに、できるだけ音を立てないようにそっと階段を上り、三階の自分の部屋にたどりついた。 夕べ、あれから由香は璃子の部屋に来たんだ。美咲の心臓は全力疾走したかのように脈打っていた。あと少しずれていれば、下で二人にはち合わせするところだった。 キッチンでコップに水道水を注ぎ、そのまま飲み干して、しばらく突っ立っていた。 璃子とは仲良くなれると思ったのに、美咲は決定的に璃子を失ったような気がしてひどく悲しかった。
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