その十四 四年生 八月

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その十四 四年生 八月

八月に入ると、通常の学生は夏休みに入っていたが、研究室所属の美咲は相変わらずほぼ毎日登校していた。基本的に美咲の研究室は、生き物の飼育や細胞の培養などがあるため、全員が一斉に休みを取ることはない。お盆も正月も、誰かしらは当番として研究室に来なければならなかった。だから夏休みは各々ずらして一週間ぐらい取るようになっていた。美咲は飛行機が混むため、毎年帰省は八月の最終週にしていたので、助手の先生に相談して、そのように日程を組んでもらっていた。 研究室の壁には主催する准教授を筆頭に、助手が一名、文科省から給料が出ているという研究員が一名、大学院生が二名、そして美咲たち学部生四名の名前が入ったスケジュール表があり、誰がいつ休みを取るのかがすぐにわかるようになっていた。 美咲は翔太が十日から二十日まで休みを取っていることをさりげなくチェックした。きっと実家に帰省するのだろう。 一方陸は、今年の夏は帰らないと言っていた。教育実習で六月にひと月近く実家にいたのだから、もう十分だそうだ。美咲が一週間帰省すると言うと、あまりにガッカリした顔を見せたので、一瞬やめようかとも思ったのだが、今回の帰省は、大学院への進学をきちんと援助してもらうため、親と話し合う大事な機会でもあるからと理解してもらった。 夜に格安航空の最終便で福岡に帰るため、実験を切りよくまとめて戻った時にすぐに再開できるように、スケジュールを助手の先生に報告することになっていた日の朝、美咲はいつもより早めに部屋をでた。マンションのエントランスホールに降りて行くと、たまたま前を女子学生が歩いていた。ホール脇の壁に設置された掲示板の前で、彼女は一瞬立ち止まり、何かを見ているようだったが、すぐに外に出ていった。 掲示板には、ゴミの出し方や騒音に関する注意書きが常時貼られており、さらに時々、町内で行われる祭や各大学の文化祭のポスターなどが貼られることはあったが、ほとんどの時期は使われていなかった。 美咲も普段は全く気に留めることがなかったが、通り過ぎる時にちらっと横目で見てみた。すると、掲示板のど真ん中にA3用紙が横向きに貼られており、そこに赤いマジックペンで驚くべきことが書かれていた。 『302号室の遠藤美咲はインラン女』 その場にどれくらいいたのか美咲はよく覚えていない。たしか、速攻で画ビョウで留めてあった紙を無造作に破りとり、丸めてポストの下に置いてあるゴミ箱に投げ入れたはずだ。しかし、すぐに思い直して、今捨てたばかりの紙をゴミ箱から拾い出すと、それを持って、西棟三階の璃子の部屋に向かった。 美咲は璃子の部屋の呼び鈴を激しく何回も押した。 「はーい」 間延びしたような璃子の声が聞こえ、ドアが開いた。璃子はまだ寝ていたのか、ピンクのパジャマを着ていた。 「あれ? 美咲ちゃん、どうしたの? こんな朝早く」 「ひどい。こんなこと、ひどすぎる!」 美咲はいきなり持ってきた丸めた紙を璃子の顔に叩きつけた。 璃子は「痛ッ!」と声を上げて驚いたが、寝ぼけたような声を出して、「なに?」といいながら落ちた紙を拾って広げた。璃子の顔がみるみる青ざめていくのがわかった。 「これ、どこにあったの?」 「下の掲示板」 美咲は璃子を睨みつけていた。璃子はようやく事態が飲み込めてきたのか、 「違う。わたしじゃないよ。わたしじゃない。信じて」と、懇願するような顔で言った。 「他に誰がいるのよ。璃子ちゃん以外、わたしの部屋、知ってる人なんていないんだから」 強い口調で糾弾している途中で、美咲はふと、もう一人の顔を思い出した。そして同時に璃子も、目を見開き、はっとするような表情をみせた。 すると、ガチャという音とともに隣室のドアが半開きに開き、「静かにして」とだけ低い声がして、バタンと閉まった。           * 「入って」 璃子が部屋に招きいれ、美咲は後ろ手でドアを閉めた。 初めて入った璃子の部屋は、間取りは全く美咲の部屋と同じであったが、物が多いため、シンプルな美咲の部屋と同じとは思えないほど狭く感じられた。ボーイッシュな璃子からは想像できない、ピンクのカーテンにピンクの寝具、勉強机の本棚にはよく知られるキャラクターもののクマのぬいぐるみが三体飾ってあった。 入るなり美咲は、あの日以来、疑問に思っていたことを口にした。 「由香さんに陸の住所教えたの、璃子ちゃんでしょ」 璃子はどうしたものかというふうに黙ったが、 「どうしても陸に直接会って言いたいことがあるからって…」と、しどろもどろに答えた。 「で、わたしの部屋も教えたんだ」 璃子は観念したように、ウンとうなずいた。だが、何か言いたそうな顔をして黙ったまま美咲の目を見た。そして、フウッと一息はくと、「でもさ」と少々強い口調で続けた。 「由香ちゃんがやったって決まったわけじゃないでしょ…あのさ、美咲ちゃんは知らないかも知れないけど、美咲ちゃん、いろんな人にいろいろ言われてるみたいだから、他の人の可能性もあるんじゃないの…だいたい、由香ちゃんはそんなことする人じゃないよ」 「いろんな人?」 美咲は璃子が何を言っているのかよくわからなかった。 はっきりわかるのは、璃子は由香をかばっているということだ。これ以上璃子と話していても、璃子は由香について何も言わないだろう。 美咲は証拠の品を渡してしまってはならないと思い、璃子の手から紙を奪い取り、睨みつけると、何も言わずに部屋を出た。 璃子も黙ったままで、追いかけてくることもなかった。 美咲はとりあえず自分の部屋に戻った。ほんの十分ぐらいの出来事のはずだか、これは本当に起きたことなのだろうか、夢じゃないかと思いたかった。 由香が犯人だと思う。でも璃子だって、あんなにしらばっくれてはいたけど、全然信用できない。昨日の夜遅く帰ってきた時には、あんな貼り紙はなかったはずだ。だとしたら、やはりここの住民しか考えられない。やっぱり璃子なんじゃないか。美咲は疑心暗鬼にかられ、璃子の顔と、あのバービー人形みたいな由香の顔がぐるぐると脳裏に浮かんでは消えた。 他の人の可能性はないのか。他にもこのマンションには同じ大学の学生がいるように璃子は言っていた。それに、いろいろ言われてるって何? 自分の知らない所で、わたしは噂のネタにされているのか。わたし、人に恨まれるようなことをした覚えはない。 美咲は心の中で叫び、気づいたら涙がとめどもなく流れ落ちていた。 いつまでも考えていてもしょうがないと気づいたとき、学校に行かなければならないことを思い出した。時計を見るとすでに八時をかなり回っていた。九時に助手の西さんとミーティングの約束があったが、今からでは間に合わない。それにそもそも、とても登校できそうな気分ではなかった。 美咲は研究室に電話をかけた。夏休みだから人員が少ないし、まだ八時台だと誰も来ていないかもしれない、八回コール音がして、あきらめようとした時に受話器を取る音がした。 「もしもし」 くぐもった聞き覚えのある声がした。よりにもよって、こんな時に翔太だ。 美咲は一呼吸置いてから、「もしもし、四年の遠藤です」と、気づいていないふりをした。 「あっ…みさ…遠藤さん。岩城です」 「岩城君、悪いけど西さんに伝言お願いしたいの。今日九時にミーティング入れてもらってたんだけど、ちょっと体調が悪くなって…またあとで、午後にでも、こっちから連絡するって伝えてくれる」 「わかった。伝えとく」 そう言うと、一瞬、間があいた。 「大丈夫? 体調…」 翔太の声は本当に心配してくれているような声だった。 美咲は、大丈夫と軽く返そうとしたが、声がうまく出なかった。朝からの出来事がフラッシュバックしてきて、いきなり涙が込み上げてきた。 「だい…じょうぶ…」 なんとか声を絞り出したものの、ちゃんと伝わっただろうか。 電話越しでも、翔太が動揺しているのが感じられた。 「今日、福岡に帰るんだろ? ちゃんと休んで、無理だったら延期したほうがいいよ」 翔太は美咲のスケジュールを把握していた。 「うん。そうする。大丈夫だから。心配してくれてありがとう」と言って電話を切った。 どうにか今度は落ち着いて言えたと思う。 美咲は翔太がすごく優しかったことを思い出した。優しいから、母親にも優しいのだろう。 電話を切ってからも、美咲はしばらくベッドの上で天井を見上げていた。 とりあえず今日は学校に行かなくてよくなった。予定では、夕方に陸と待ち合わせて、羽田まで一緒に行ってくれることになっていた。 今朝のことを陸に言うべきだろうか。でも、あんな紙を見せるのは嫌だ。美咲は文面を思い出して、また身体が熱くなり、悲しみと怒りが込み上げてくるのを感じた。 どのぐらいそのままでいただろうか、喉が乾いて起き上がった。時計を見ると、もうお昼近かった。冷蔵庫から自家製の麦茶を出して一口飲むと、一週間留守にすることを思い出して、残りを捨て、容器を洗った。 ベッドに腰かけ、どうするか迷ったが、結局スマホを手に取った。 『今、家? バイト中?』 陸にLINEした。すぐに既読になった。 『さっき終わって 帰りがけの弁当屋で昼飯調達中』 『今から行っていい?』 『いいけど 学校午後までじゃなかったの?』 『すぐに会いたい』 『OK 昼めし食った? 食ってないなら、買ってくよ』 美咲は心がほぐれていくのを感じた。そうだ、まず何か食べよう。 「ありがとう」と「よろしく」のお決まりのキャラクターのスタンプを返した。 『り』と、すぐにレスがあった。 帰省用の小さなスーツケースを転がしながら、美咲は陸の部屋に向かった。 「羽田とは真逆なのに、どうしたの?」 部屋に入るなり、陸は素直に聞いてきた。 「今日学校行かなかったから、時間ができたの」 陸は何かを察知したのか、「ふーん」と言ってから、弁当をテーブルに並べて、冷蔵庫からお茶のペットボトルを出し、ふたつのコップについでから聞いてきた。 「何かあった?」 美咲はもう堪えられなくなって、目から涙が吹き出してくるのがわかり、その場に座りこんだ。 「りくぅ…」 涙が止まらなかった。 びっくりした陸は、とりあえず肩に手をまわして軽く抱き寄せた。 十分ぐらいだろうか、ひとしきり泣くと、美咲はなんだか少しすっきりした気がした。 その間陸は、何も言わずにずっと美咲を優しく抱いていた。陸の胸で陸の匂いに包まれていると、心が和らいでいくのがわかった。陸は、時にうるさいほどおしゃべりな男だ。だが、黙るべきときは黙っている優しさがあった。 美咲が落ち着いたのを見はからって、陸は体を少し離し、美咲の顔を覗き込んで言った。 「大丈夫?」 「うん」 陸は少し微笑むと、「話聞きたいけど、まずは食べない?」と言った。 陸がそう言うやいなや、なんと美咲のお腹がぐぅと鳴った。二人の目が合い、ふふっと笑い声が漏れた。美咲は笑えたことが心から嬉しかった。           * 福岡行きの飛行機の中で、美咲はさっきまで一緒にいた陸のことをずっと考えていた。 唐揚げ弁当を食べている間、美咲は話すべきかどうかを迷っていること自体が馬鹿らしく思えてきた。 陸は食べながらもいつものように、バイト先の塾にいる子の親が変だとか、今まとめてる卒論の資料がいかに手に入りにくいかとか、とめどなく陸目線の面白い話を語ってくれた。一所懸命、美咲の気を紛らわそうとしているのがわかった。 だから美咲は、何も隠しだてせずに、あったことをそのまま話すことができた。もちろん陸は、すごく驚いたし、ひどく怒ったし、警察に届けようかとまで言ってくれた。でも最後に、「大丈夫、俺は美咲を信じてるから、それでいいでしょ」と言われ、あんな貼り紙も、璃子の言葉も、すべてどうでもいいことのように思えてきた。 そう。どうでもいい。璃子と友だちになれなくてもいい。他の女たちが陰でいろいろ言うのも、言わせておけばいい。           * 上空から夜の福岡の町が見えてきた。空港は市街地にあるので、東京ほどではないにしろきらびやかに輝く夜景が見えた。故郷に帰ってきたと思うだけで、美咲は気分が高揚するのがわかった。 無事に着陸し、スマホを機内モードから戻すと、LINEに陸からメッセージが入ってきた。 『愛してる』 文字で見ると一見陳腐な言葉のように思えた。今まで誰に対しても、言ったこともなければ、言われこともなかった。美咲が使ったことがないのは、安易に使うことで、意味が軽くなってしまうような気がしていたからだ。 でも美咲はあらためて気づいた。女同士で、好きと言うことはあったとしても、この言葉を使うことはないだろう。どんなに仲良くなっても、特別な嗜好でもない限り、女同士では決して言うことのない言葉だ。 そうだ、陸さえいればいい。肌と肌を合わせて初めて伝わるものがある。陸が精神的にも肉体的にももたらしてくれる幸福は、女たちとのどんな交わりよりも遥かに勝るものだから。 美咲は何度も陸のメッセージの字を読み、この言葉に表される二人で築いた特別な関係を再確認しながら返信した。 『わたしも愛してる』 事例一 完
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