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その一 浅草橋のOL
海老原美穂は、大昔は社食だったらしいが、今は壁に数台自販機が設置されているだけの休憩室で、今日もいつもの女四人、いつものテーブルを囲んで、さっき買ってきたしゃけ弁当を食べていた。
ここ、東京下町の浅草橋駅近くにあるフクシン理化学機器株式会社は、ビーカーやフラスコ、各種測定機械といった理化学機器を、大学をはじめとする学校や、官民の研究所などに納入する、業界ではそこそこ知られた創業七十年をこえる中堅企業だった。といっても、社員は五十名にも満たない小さな会社で、江戸通り沿いにある八階建ての自社ビルの一階は、裏は搬入搬出も兼ねた倉庫となっているが、表はテナントとして飲食店に貸し出されていた。
「ここんとこ毎日雨でイヤ! 秋雨前線ってこんなに停滞するもんだっけ? 髪がぼさぼさ」
茶色の髪を今風に緩くアップにした白石洋子が、ハンバーグ弁当をつつきながらため息をついた。
「今年は例年より降ってる感じしますよね。まだ八月だっていうのに、ちょっと肌寒いし」
一番若い今田京香が微炭酸のぶどうの飲料を飲みながら答えた。京香は今日も、どれだけ時間をかけたのかと思うほど気合の入った化粧をし、美容院に行って来たばかりのような綺麗な巻髪を肩の上で揺らしていた。
「海老原さんは今週末の行ける?」
洋子が美穂に聞いてきた。
「もちろん行きますよ。できるだけ出会いのチャンスはつぶしたくないですからね」
美穂は今日の弁当の鮭はいまいちハズレだなと思いながら、きっぱりと答えた。
「えー、なんですか? もしかして合コンとか? 私も誘ってくださいよ」
袋井香奈枝が巨体を揺らしながら、興味津々といった感じで聞いてきた。
「ダメダメ。今回は三十代以上限定だから。袋井さんはまだ二十五でしょ」
「えー残念。歳なんてわかんないじゃないですか。白石さんなんて二十代前半にしか見えないですよ」
香奈枝は、自身は意識していないようだが、何かと上の者にあからさまなおべっかを使う。洋子はそれなりに嬉しそうな顔をみせたが、京香が、また言ってるというふうに、横目で冷ややかに香奈枝を見てから口を開いた。
「合コンって、ほんとに出会いとかあるんですか?」
「あると言えばある。ないと言えばない。まあでも、あるって期待しなきゃ何も起こらないんじゃない」
洋子の答えは禅問答のようだ。
「そうそう。三十過ぎるとそういう境地になってくるのよ。今田さんもいつまでも若いと思ってると、あっという間にそういう日が来るわよ」
美穂が洋子の言葉に付け足した。
「そういうもんですかねぇ。わたしはもっと自然な出会いにひかれます。これが運命! って思えるみたいな」
京香は瞳をキラキラさせて立ち上がり、「お先に」と言うと、洗面所のほうに向かった。いつも食後の歯磨きと化粧直しに五分以上はかかっている。いったい誰に見せるというのだろう。
「ああー、もう一個お握り買っとけばよかったぁ。もうお腹空いてきたぁ」と、香奈枝がわめいた。
洋子と美穂は声を合わせて、「今二個食べたばっかでしょ」と笑いながら返した。
「さ、時間、時間。袋井さんももう終わり。お仕事の時間ですよ」と言って、洋子は香奈枝の肩をたたいて立ち上がった。
美穂はこの会社に入って五年目のOLである。この七月で三十一歳になった。四年制の大学を卒業して、一時地元の栃木で高校の国語教員をしていたが、三年で辞めて、この会社に事務職として中途入社していた。
席に戻ると、隣の席の藤本友里がまだお弁当を広げて何かを頬ばっていた。友里は既婚の二十九歳で、三歳の男の子がいるため残業は一分たりとも一切しない。だから、昼休みも自前の弁当を広げながら、割り当てられている在庫管理の帳票をせわしなく整理してパソコンに打ち込んでいた。
美穂の仕事は、友里と同じ帳票の整理もあったが、十名ほどいる外回りの営業担当者のスケジュール管理が主だった。
しかし入社当初は、事務職という名目のはずだったのに、小さな会社のため、運転免許を持っているという理由だけで美穂は外回りの営業・納品に出された。三年程それが続き、都内を車で回る仕事にようやく慣れ、さまざまな大学の研究室や国の研究所に馴染みの先生方ができてきた頃、ここ営業管理部に長く勤めていた女性が急遽退職したことで、配置転換されたのだ。早いもので、それからすでに二年が経過していた。
一人での外回りの頃は昼も自由に時間が取れ、行く先々で外食ができたから、ランチは楽しいひとときだった。もちろん最初の頃は若い女一人ということもあって、ちょっと入りにくい食堂などもあったが、段々と慣れるにつれ、グルメサイトのアプリを駆使し、東京中の美味しいランチを食べ尽くすような生活をしていた。
それが突然事務職となり、六人がデスクを並べたそう広くはない部屋で、出社から退社までずっと一緒に作業し、さらにお昼もほぼ一緒という生活に激変した。そうなって最初のうちは、頑張ってお弁当を作り持参したこともあったが、結局三日坊主となり、同じ部屋の面々と、周辺の弁当屋やコンビニでお昼を調達し、休憩室のいつもの席で食べる日々となっていた。
ただ美穂にとって会社は居心地の悪いところではなかった。営業管理部長の高岡由加里をはじめ、同室の五人は全員気のいい女たちだったからだ。美穂は昔から、女性に囲まれていると安心するタイプだった。
白石洋子は美穂と同い歳であるが、短大を卒業して新卒で入社したため、すでに勤続十一年で、美穂にとっては大先輩となる。が、下町育ちで人懐っこい性格のため、配置転換してきて以来すぐに仲良くなった。
次に歳の近い藤本友里は、洋子と同期入社であるが商業高校卒で、長く経理部にいた後、育休開けを機に昨年からこちらの部署に異動となった。
老舗の中小企業にありがちな古い体質が残る会社ではあるが、さすがに昨今は結婚して即退職するいわゆる寿退職は少なくなっている。がしかし、出産して育児休暇をフルに取り、復職した女子社員は藤本友里が初めてだった。
二十五歳の袋井香奈枝は短大卒の五年目で、一番若い二十二歳の今田京香は高卒三年目だ。
そして部長の高岡由加里が何歳なのか、美穂は正確には知らない。おそらく四十代半ばと思える。というのも、一緒にお昼を取ることはまれで、年数回、部長のおごりで近くのレストランに一緒に繰り出す時や、忘年会などの飲み会で話す機会がある以外、これまでプライベートな情報をなかなか収集できずにいた。
洋子の話によると、由加里は超有名な私大卒で、若い時はどこか大手の商社で働いていたらしいが、何かの縁で中途採用でこの会社に入ったという。またバツイチで、高校生の娘がいるらしいのだが、子持ちとは思えない、全く生活感のないキャリア然としたかっこいい美人だった。
*
午後三時、社内にはのんびりとした空気が漂っていた。夕方四時を過ぎると外回りの営業職が帰社し始め、さまざまな伝票が渡され、その日のうちに処理しなければならないものもあるので忙しくなる。今はそれまでの束の間のひとときだ。
美穂は、部屋の隅にあるコーヒーメーカーでコーヒーをいれ、自分の席でしばし休憩をとっていた。時間外の休憩も全然許される緩い職場である。
スマホを出して、営業に出ている横山大輔にLINEした。
『今どこ?』
すぐに既読がついた。
『もう会社の近く、昼飯取れなかったら、今アキバの昇龍軒』
美穂は、あぁ隣町の秋葉原にあるあの町中華の店かと思い、いつものように大盛の唐揚げ定食を食べている大輔を想像した。
『だったら今夜は魚がいいかな?』
『全然肉でもOK』
美穂は、ほぼ同期入社の横山大輔と現在親密な交際をしている。互いの部屋を行き来し、半同棲のような生活をしてすでに四年近くになる。
大輔は新卒で入社して六年目の現在二十八歳だった。大輔が入社した年、九月という中途半端な時期に美穂は入社した。その研修を誰が担当するかという話になって、自身もまだ一年目の大輔が、まだ担当の顧客が少ないという理由だけで研修担当に抜擢された。
大輔は初めて美穂に会った時のことを克明に覚えている。すでに履歴を聞いていたから、自分より三つ年上であることは分かっていたので、ちょっと身構えて待っていた。だが、現れた美穂は、まだ学生みたいに幼く見えて、拍子抜けするとともに好感を抱いた。
その当時、二十六になったばかりの美穂は、あまり化粧っ気もなく髪色も地の黒のままで、いかにも真面目な女子学生の雰囲気を残していた。地元の宇都宮大学を卒業し、そのまま自宅から通える県立高校に勤めていたので、東京に出てくるまでほとんど化粧をしたことがなかった。もちろん、いい歳してすっぴんだったわけではない。社会人としての最低限の身だしなみの範囲で、ファンデーションを塗り、淡いルージュはしていた。その後、東京下町の浅草橋に通勤するようになり、ここ数年で徐々に東京のOL風に化粧することを覚えた。
大輔との一ヵ月にわたる研修も無事に終了し、一人での車営業にもだいぶ慣れてきた翌年の春、いったん外回りから帰社して管理部に伝票をまわし、いざ退勤するという時に、たまたまエントランスで大輔と一緒になった。
「お久しぶりです。仕事慣れましたか?」と、元気に挨拶してきた大輔の笑顔につられて、すでに六時もまわっていたこともあり、美穂のほうから気軽く「何か食べて帰りませんか」と誘ってみたところ、大輔は快諾した。研修中もお昼は一緒に食べていたので、誘うのにあまり抵抗はなかった。
なかなか気のきいた店が見つからず、結局、JRのガード下にあるホルモン焼き屋で軽くビールを飲みながら、社内の噂話や悪口で意外とその夜は遅くまで盛り上がった。
それから何度か、そのような退勤時の偶然が重なり、ある金曜の夜に会社から少し離れた上野にある居酒屋でしこたま飲んだ後、美穂はさりげなく肩を抱かれた。そして、まあいっかっと思ったとこまでは覚えているが、気がつけば湯島にあるその手のホテルで朝を迎えていた。
美穂ももちろん大輔を嫌いではなかったからホテルまでついて来たのだが、美穂にとってショックだったのは、それが初体験だったということだった。だから朝、ただならぬ雰囲気でペラペラした寝間着で目覚めた自分に気づいた時は、自然と涙がこぼれてきた。
湯島のラブホなんて、初体験の場所としては最悪だ。ありえない!
ただ大輔は、その晩あまりにも飲み過ぎていて、実際は何もできなかった。だから美穂が泣き出して、うだうだと言いだしたとき、「僕は何もしてません!」と高らかに宣言したのだ。その様子がなんだかとても滑稽で、美穂は声を上げて笑い出した。そして大輔もつられて、結局二人は笑い崩れた。
そんな感じで始まった二人の関係ではあるが、その後きちんとデートの計画を立て、それから二週間後の休日に、九十九里にある海辺のホテルで二人は初めて結ばれた。
後から聞くと、偶然だと思っていた退勤時の出会いは、大輔がそれとなく時間を合わせて待っていたらしかった。
その後二人の交際は、大輔が案外女慣れしていたこともあり(大輔の自己申告によると、中学三年から彼女を切らしたことはほとんどないらしい)、順調に進んでいった。
一年後、大学入学以来、東京も西の方に住んでいた大輔は、部屋の契約更新もあって、会社のある浅草橋から二駅の美穂が住んでいる錦糸町に引っ越してきた。
ただし、世間一般の常識として社内恋愛はもちろん秘密だった。婚約でもしない限り伏せておくのが世の常である。もちろん当人達は隠していても、気づかれていることは多いのだが、いまや二人は部署が違うこともあり、おそらく気づいている人はいないと、美穂は思っていた。
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