その五 いきなりの求婚?

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その五 いきなりの求婚?

朝から頭の中で、「今日も渋谷で五時♪」(※「渋谷で五時」鈴木雅之&菊池桃子)というかなり古いデュエット曲がぐるぐるしていた。そこのパートしかわからなかったから、そのフレーズのみ千回くらいは繰り返している。 美穂は朝から何度も航大からのLINEを開いてニンマリしていた。 『お店は六時半で予約しているけど、ちょっと付き合ってほしいところがあるので、渋谷のTSUTAYAに五時でどうですか?』 もちろん、その後には速攻で返した美穂自身のメッセージもある。 『わかりました。楽しみにしています』とともに、当たり障りのない可愛いスタンプをつけた。 すると直後に、航大からは流行りのイラスト屋のヤッタゼ! と書いてある動物スタンプが届いていた。 水曜日にこれが来てからというもの、何度このやり取りを確認したことだろうか。画面を見るたびに、美穂はドキドキが止まらなかった。 もちろん、航大に誘われたことにドキドキしていたのだが、それだけではない。実は美穂はこれまで、女友達とでさえ渋谷で待ち合わせをしたことがなかった。しかも今回は一応デートだ。なんだかドラマの主人公になったような気がした。 渋谷という街は若者の街だ。そんなことは日本人なら、東京に行ったことがないド田舎の人間でも知っている。でも、そこで実際に青春を謳歌できるのは東京周辺の一部の若者だけだ。六本木とか赤坂とか、もちろん銀座とか、なんとなく大人の街で渋谷より高級そうだし、三十過ぎの自分もすでにそっちの街のほうが似合う年頃だとも思うのだが、特にこれらの街に思い入れはなかった。 中学生の時に栃木の田舎で見ていた同年代アイドルのドラマの舞台の多くは渋谷だったから、自分でもミーハーだとは思うのだが、美穂はずっと渋谷で遊ぶことに憧れて育った。 だから、上京して営業車で回っていた頃も、時間を見つけては高い駐車場代を払ってランチのために寄ったりしていた。しかしこれまで、誰かと待ち合わせをするチャンスはなかった。職場も住居も下町にある美穂にとって、憧れの渋谷はけっこう遠かったのだ。 渋谷駅前の有名なスクランブル交差点に面したTSUTAYAと言われたとき、ほんとはちょっとだけ、ベタな待ち合わせ場所のハチ公前を提案したかった。ただ、屋外で待ち合わせするには、九月の日射しはまだまだ強すぎると思ってあきらめた。           * 美穂は約束の五時より二十分ほど早くTSUTAYAに着いたので、文庫本のコーナーに向かった。最近本屋に来ることがなかったから、待っている間に何か一冊買ってもいいかなと思ったのだ。 するとそこには、すでに立ち読みをしている航大がいた。 「古市さん」 後から考えると、遠目からちょっと観察してみてもよかったのだが、気づいたとたん、美穂は声をかけた。 「あっ、美穂さん早かったですね」 「古市さんこそ」 美穂は、航大が慌てて閉じた本の表紙に気づいた。 「あっ東野圭吾ですね。わたしそれ読みましたよ。とってもお薦めです」 「東野圭吾とか読むんですね。僕も好きでよく読むんですが、これは新刊のとき、読みそこねちゃって、そうしたら今ここで見つけたから」 航大は嬉そうに微笑んだ。小さなえくぼができる笑顔がチャーミングだと美穂は思った。 「確かそれ、うちにあると思いますよ。お貸ししましょうか?」 「ほんとですか。じゃあそうしようかな」と言うと、一瞬迷うような素振りをみせたが、持っていた本を棚に戻した。 「そっか、美穂さん国語の先生だったんでしたね。ある意味専門家だ」 「いえいえ、専門家ではないですけど、小説とかはけっこう読んでるほうかもしれませんね」 「じゃあ、文学とかは知ったかぶりできないなぁ。気を付けなきゃ」と言うと、航大は笑いながら軽く頭を掻いた。 「で、今日、美穂さんに早めに来てもらったのは、ちょっとお願いがあって」 「はい。何でしょう?」 「実は明後日、姪っ子、姉の子なんだけど、その子の十歳の誕生日なんです。で、毎年プレゼントを贈ってるんだけど、だんだん贈るものが難しくなってきちゃって。それで、美穂さんにアドバイスというか、選ぶのを手伝ってもらえないかと」 「えっ? わたしなんかでいいんですか?」 「もちろん。てか、心強いですよ」 全く思ってもみない頼み事だった。 その後二人は、まず今いるTSUTAYAの絵本や児童書のコーナーに向かった。これがいいとか、あっちがいいとか、いろいろ見てみたが、小三の女の子だと、けっこうその子の興味によって、全然合わなかったりすることもあると美穂がアドバイスした結果、本はやめて、文房具を見に、LOFTとハンズをはしごすることにした。 航大とのショッピングデートは予想以上に楽しく、会話がはずんだ。その姪っ子がけっこうマセてて、彼女のお祖母ちゃん、すなわち航大の母親の「早く結婚しろ」という口癖を真似て言ってくるのだと、笑いながら説明した。 結局、お絵描きが好きということで、ハンズで、コピックという何百色も色が揃っているマーカーペンの基本セットと、小さめのスケッチブックを選んだ。 航大はカウンターでそれをプレゼント仕様に包んでもらい、宅配で送るように手配した。 「ありがとう。助かったよ。とても自分じゃ選べなかった」 「お役に立ててよかったです。わたしも久々に文房具とかいろいろ見れて、とても楽しかったです」 「では、お店に行きましょうか。時間的にも丁度いい」 文化村通りを登りきると、あたりは閑静な住宅街になってきた。渋谷といっても歩いて来られる範囲で、こんな静かな地域があるのかと思っていると、目的のポルトガル料理店が住宅街の中にポツンと建っていた。 「可愛い、素敵なお店」 美穂は航大のセンスの良さに、ますます好感度が上がるのを感じていた。 「ほんとうに今日はありがとう。では、乾杯しましょう。再会を祝して、乾杯!」 二人は食前のシェリー酒の小さなグラスを合わせた。 「こちらこそ、渋谷に誘っていただいて、ありがとうございます。わたし、上京して以来、下町のほうにいるから、あまりこっちのほうに来ることなくて。だから、中学生の時からの憧れの渋谷に五時に待ち合わせってだけでウキウキでした。とても楽しかったです」 「それはよかった。だったら、ハチ公で待ち合わせすればよかったかな」 なんと、航大は美穂が考えていたことを言った。 「えぇ。暑くなかったら、ぜひそうしたかったです」 美穂は笑顔で答えた。 「じゃあ次回、もう少し涼しくなったら、ハチ公前で待ち合わせしましょう」 航大は美穂の目をまっすぐに見ながら言った。 次回を考えてくれるんだ、と嬉しかったが、あまりにストレートにみつめられて、美穂はなんだか恥ずかしくなって、思わず下を向いてモジモジしてしまった。 ポルトガル料理は、スペイン料理とも少し違い、特にそのワインは独特の香りがして美味しかった。二人は二時間半ほどのコース料理の間に、白と赤のワインを一本ずつ空けていた。 普段あまりワインを飲まない美穂は、完全に酔っているのを自覚していた。また、はた目にみても航大も酔っているのがわかり、ますます能弁になって、面白おかしくいろいろな話をしてくれた。ただの世間話でも、航大の話はとても興味深い。 食事もデザートの焼き菓子とコーヒーになったとき、航大は突然居ずまいを正した。 「僕、今日美穂さんと再会して確信しました」 美穂も大事なことを言われるんじゃないかと思って、背筋を少し伸ばした。 「今回、なかなか連絡できなくて、申し訳ありませんでした。もっと早くお誘いしたかったんですけど…」 いったん言葉が途切れた。航大は意を決したかのような顔をした。 「実は、前回から連絡が空いたのには理由があるんです…引かないで聞いて欲しいんだけど、僕、付き合ってた彼女と別れてきました」 「はっ?」 美穂はあまりに予想外の話に驚いて、思わず声を出してしまった。これは間接的にコクられてる、ということだろうか。 「それって?」 「美穂さんに、結婚を前提に正式にお付き合いしてほしいってことです」 結婚という言葉に美穂は絶句してしまった。結婚? そこまではまだ全然考えてない。 しばらく沈黙があり、航大が話し出した。 「ごめん。驚かせちゃったみたいだね。僕としては、実はこないだ初めて話したときから考えてたことなんだ。もちろん、今プロポーズしてるんじゃないよ。そういうことを前提に、交際を始めませんかってことだよ」 「少し、考えさせていただけませんか」 ゆっくりとではあったが、美穂は即答した。考えるより早く言葉がついてでた。 航大はちょっとだけ意外といった顔をした。自分をフル女なんていないはずだ、といった傲慢さをチラッとだが垣間見た気がした。 「そうだよね。まだ会ったのも二回目だし。ちょっと僕、焦っちゃったかな…わかった。じゃ、あと三回、お試しでこうやってデートとかして考えてもらうっていうのはどうかな? その後、答えをもらえればいいから」といって、航大は三本指を美穂の前に出した。 「わかりました。そこまでわたしのことを考えてくれるなんて、とても嬉しいです」 「よかったあ」 航大は心底ほっとしたような声をだした。 「じゃさっそく、来週はどうでしょう? どこか行きませんか?」 美穂は少し考えてから、先週封切られ映画を観たいというと、航大はすぐにスマホで映画のスケジュールをチェックし、その場でネット予約した。二人は翌週の日曜の昼に、新宿で映画を観ることになった。
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