その一 大学三年 秋

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その一 大学三年 秋

十月になったというのに、今日も空には真夏のようなギラギラした太陽が照っていた。長い長い大学の夏休みが明け、遠藤美咲(えんどうみさき)が学校に来るのは実に二ヵ月ぶりだ。最寄りの中央線の駅から武蔵野台地に構えるキャンパスまでは歩いて十五分ほどであるが、そこを歩くか、それとも十分後に来るはずのバスを待つか、美咲はちょっと悩んだ。しかし、すでに遅刻しそうな時刻なのに、バスが来るのが少しでも遅れたらまずい。暑い中、美咲は日傘を差しながら、足早に歩くことにした。久しぶりに着た白いブラウスの襟が汗で少し張りつくように感じた。 エレベーターを使わずに、校舎の階段を駆け上がったのだが、五号館三階にある合同教室Aのドアの前に着いた時には、すでに五分の遅刻だった。美咲は広い階段教室の後ろのドアをそっと開け、出席確認の機器に学生証をかざすと、三十人ほど集まっている学生たちの一番後ろの席にそそくさと座った。その瞬間、窓際の前方に固まって座っていた五、六人の女の子たちがチラッと振り返り、何やらこそこそと話をしているがわかった。 すでに教壇では、助手の岩村文江(いわむらふみえ)が後期日程のパワーポイントスライドをスクリーンに映して説明を始めていた。今日は後期初日に実施される学科のガイダンスだった。 美咲はいわゆる理系女子、通称リケジョと呼ばれる理工系学部の三年生だ。在籍する生物工学科は近年人気の学科で、バイオテクノロジーを駆使して生物や生命活動を研究する分野である。卒業生は製薬会社や化粧品会社、又は食品系などに進むものもいるが、将来的に企業に就職するとしても、とりあえず大学院修士課程に進学する者が多かった。 昨今、リケジョが流行りといっても、三十名いる同じ学科のクラスメートのうち、女子は八名だけである。それでもひとつ上の学年には四名しかいなく、今年の一年生は十一名だと聞くと、徐々にではあるが理系女子は増えているのだろう。 三十代前半といったところの白衣を着た助手の岩村文江は、いかにもそのリケジョの代表といった感じで、短い言葉で簡潔にテキパキと後期実習のスケジュールを説明していた。 「遅せーよ」 隣りの席の須藤直樹(すどうなおき)が小声で話しかけながら、『後期ガイダンス』と書かれたプリントを渡してきた。 「ありがと。久々だったから電車の時刻間違えちゃった。で、バス乗り損ねちゃって」 美咲は何の気もなしに直樹ににっこりと微笑んだ。 「相変わらずだな。男にそんな笑顔、安易に見せるもんじゃないよ。俺だからいいようなもんだけどよ。勘違い男が寄ってくるぞ」 そう言われて、美咲はさらににっこりとわざと微笑み返し、 「直樹こそ、相変わらずチャラチャラして、カッコいいじゃない」と言いながら、その耳に並んで光る銀のピアスを人差し指で軽く突ついた。 最後に直樹に会ったのは七月の前期試験の最終日だったが、あれから夏が過ぎて、元々明るかった髪の色がさらにブリーチされ、茶髪を通り越して銀髪に近い色になっていた。 「まあな。夏がますます俺をチャラ男にさせたんだよ」 自分で言いながら直樹はくすっと笑い、それに釣られて美咲も少し声を出して笑ってしまった。 「私語は止めてください」 岩村文江の低く通る声が響いた。前列にいる女子たちがまた振り向いて、美咲をとがめるような目でチラッと見たのがわかった。 小一時間ほど、授業ガイダンスはとどこおりなく進んでいき、岩村文江はラストスパートといった感じで少し声を張り上げた。 「後期試験の最終日がこの二月三日となりますが、翌日、各研究室を紹介するガイダンスがあります。皆さんもすでに三年生なので、どのような研究室があるのかは大まかにわかっていると思いますが、このガイダンスの後、来年度から所属する研究室が決まります。それから各研究室で行われる後期実習でも、各部屋の雰囲気は少しわかると思いますので、実習にはそのつもりで参加してほしいです。では、わたしからは以上です。何か質問はありますか?」 質問を求めたものの、次の予定があるのか、文江は腕時計をチラッと確認すると、持参したノートパソコンを早々に閉じ、小脇に抱えて教壇から降りようとした。 「先生、研究室はそのガイダンスの日に決まるんですか?」 何かとクラスのまとめ役を引き受けている荒武信二(あらたけしんじ)が質問した。 「例年通り、最終決定は三月二十五日の成績発表の日です。四年に進級できなければ、研究室配属もなにもないですからね」 文江は、そんなことも知らないのか、といったふうに言い放つと、足早に教室を出て行った。 「岩村さんってなんか感じ悪くね?」 直樹がぼそっと言った。 「俺けっこうタイプだよ」 前の席にいた牧雄太郎(まきゆうたろう)が、おちゃらけたふうにニヤニヤして振り向きながら言った。 「マジかよ。趣味悪いな」 「あら、岩村さんってよく見ると結構美人だと思うよ」 美咲がすかさず反応した。 「やめろよ美咲。よく見るととかさ。そういう物言い。自分の方が可愛いと思ってるやつの上から目線だぜ」 直樹はとがめるような口調でいったが、表情は柔らかだった。 「そんなことないよ。素直に思ったこと言っただけなのに…」 美咲は少し頬を膨らませて、むっとした表情で対応した。 そこに雄太郎が割り込んだ。 「いいから、いいから。にしてもオタクら相変わらず仲良さげだな。夏の間になんかまた進展あったんか?」 「ないない!」 美咲と直樹はぴったり声を合わせて答えた。 「そっか。まあいいや」と言うと、雄太郎は教室の前方に振り返った。 「おーい荒武。今晩のクラス飲み会、場所もう取ってあんの?」 前方に座っていた荒武信二が「おう!」と手を挙げて答え、さらに声のトーンをひとつ上げ、 「今日、五限が終わった後、六時半から駅裏の享楽亭(きょうらくてい)で、いちおう二十五名で席取ってます。まあこれ以上増えても大丈夫。なので、欠席の人だけ言いに来て。まあ、久々のクラス親睦会です。皆さん、よろしく!」と、全員に向かって言った。 前に集まっていた女子たちが、「行く?」とか、「予定あるから行けない」とか、「もう店決まってんだぁ」とか言いながら、「どうする?」「どうしよう」と繰り返していた。 それを見て、信二は付け加えた。 「ちなみに、四年生の澤さんたちも遅くに合流する予定なので、研究室のこととか聞けるかもしれないです」 それを聞いて女子たちは、「澤さん来るんだ。だったら行こうかな。あそこの研究室のこと聞けたらいいしね」とか、「じゃあ行く? みんなが行くなら行こうかな」とかとか、言っているのが漏れ聞こえてきた。 「美咲ちゃんはもちろん行くでしょ?」 雄太郎が聞いてきた。 「うん。行くよ。牧君も行くでしょ?」 「もちろん」 「誘われた飲み会は断らない。それが遠藤美咲だもんな。きっとどこ行っても出世するぞ」 横から直樹がちゃかしながら言った。 美咲は直樹と雄太郎と話しながら、横目で女子たちの動向をうかがっていた。なんであんなにいつも集まってるんだろう。なんで飲み会に行くことぐらい、自分一人で決められないんだろう。 美咲は直樹と雄太郎と一緒に教室を出た。この後、クラスのほとんどが応用化学Bを取っているはずだが、ガイダンスが早く終わったため、次の授業までにはまだ三十分以上時間があった。美咲たち三人は、隣の校舎の一階にあるカフェテラスに向かった。一方、他の女子たちは七人全員で一緒に廊下に出てきて、何やかや話をしていたが、直接次の教室に移動するようであった。 「女ってなんか怖いよな。あいつら、いっつもくっついてて」 カフェテラスの窓辺のテーブル席で、ペットボトルの炭酸飲料を飲みながら、荒武信二が悪気なく軽い調子で言った。 「きっと俺らの悪口とか言ってんだぜ。怖い、怖い」 雄太郎は言ってから女の美咲の前であることに気づいて、少し気まずそうな顔をしたので、信二がすかさず反応した。 「遠藤さんは全然違うよ。群れないし、ちゃんと自分でいろいろ決められるし」 「別にいいよ。まぁ、わたしは群れないっていうか、群れられないっていうか、昔から入れてもらえないんだよね」 美咲は一口缶コーヒーを飲んで、ちょっと沈んだ声を出した。 男三人と美咲、皆一瞬黙り込んで、少し空気が重くなったような気がした。 だから美咲はその空気を払拭するように、「いいの、いいの。全然平気だから」と、今度は思いっきり明るい声を出して笑顔を作った。 「だよな。気にすることねぇよ。第一、男は群れる女はあんま好かんし。美咲ちゃん大好きだよぉ」 雄太郎がおどけて変顔をして返したものだから、全員が飲み物を吹き出しそうになった。
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