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その二 一年生 春
美咲の周りには、物心ついた頃から女友だちより男友だちのほうが多かった。歳が少し離れた兄が二人いることが影響しているのか、運動が得意でいつも男の子たちと活発に外で遊んでいたせいなのか、気がつくと周りは男の子ばかりだった。
ただ、美咲自身そのことを苦にしたことはあまりない。明るく、いわゆる優等生であった美咲は、女子たちに妬まれることはあっても、あからさまなイジメや仲間外れにあったことはなかった。いや、なかったと思いたかっただけなのかもしれない。修学旅行の部屋割りや、更衣室でのやり取りなど、女だけになる場面はたくさんあったが、その時はその時で、みんなに話を合わせることはできていたはずだ。ただ、男性アイドルや芸能人の話、それと女の子同士、言葉の裏を読み取っていくような独特な会話術は、美咲にとって決して楽しいものではなかった。だから必然的に、男子がいる環境では、気がつくと美咲の周りはいつも男ばかりであった。それは地元福岡の公立中学や、県で一番の進学校であった高校でも同じだった。
また、美咲はいわゆる見た目がちょっと可愛い子でもあった。美人というほどではないが、意思が感じられる表情豊かな大きな瞳に、心を奪われる男子は多かった。特に女子が少ない理工学部では、入学当初、信じられないほど美咲はモテた。入学して夏までの間に、学科の先輩たちとの飲み会やサークルの新入生歓迎会などで、実際に言い寄ってきた男だけでも両手に余るほどもいた。
そのうちの一人がクラスメートの須藤直樹である。
東京育ちの直樹は、地方の進学校からの地味な入学者も多いこの大学で、最初からあか抜けた感じで、見た目はいわゆるチャラいヤンキーふうのイケメンだった。福岡の田舎からでてきた美咲にとって、こんな男子は初めてだった。いや、見た目だけなら地元にだってヤンキーぽいのはたくさんいる。案外、東京より多いようにも思う。美咲の出た公立中学の同級生の中にも、美容師の専門学校に行って髪を金髪に染め上げ、ピアスをジャラジャラ付けているような子がいることにはいた。ただ、そんな恰好の子が、全国的にも有名なこの東京の大学でクラスメートになるとは思わなかった。ある意味直樹の存在は、東京ってすごいと思ったことのひとつだった。
直樹は、東大進学者ランキングの常連でありながら、制服がなく校則も緩いことで有名な中高一貫校の出身だった。あまりにも東京の子だったので、最初は美咲も圧倒されて、遠くから見ているだけだった。それが三年生の今、一番のクラスメートと思えるほどになったきっかけは、直樹のほうから近づいてきたからである。
一年生の四月半ばに行われた初めてのクラス親睦会の二次会で、少々お酒も入って席がぐちゃぐちゃになり、皆代わる代わる入り乱れて話すうち、直樹は狙いを定めたかのように美咲の横に座った。
女の子との会話にいかにも慣れたふうの直樹は、「遠藤さん、可愛いね。そう言われない?」と、耳元でささやくように聞いてきた。
美咲はすでに高校の時に同級生の彼氏がいた。高校生らしく自転車で一緒に通学したり、放課後図書館で一緒に勉強したり、十代らしい交際だったと思う。サッカー部の主将を務めていた色黒のいかにも九州男児といった顔立ちの彼とは、高二の初めには公認の間柄になっていた。しかし高三になる時に、九州大学を受験するという彼のほうから、勉強に専念したいからもう会わないと、一方的に宣言されて別れた。
しかし美咲は、それほどその別れを悲しいとは思わなかった。高一の秋に、向こうから告白されて一年以上続いた仲ではあったが、美咲にとって彼は、周囲の同級生たちよりも気が合うことに嘘はなかったが、だからといって彼じゃなきゃダメという感覚もなかった。
もちろん年頃の男女なので、それなりに好奇心もあり、休日に誰もいない彼の家に呼ばれて、互いの体を確かめ合ったりしたこともあった。しかし、これが恋なのかと問われたら、ちょっとその真似事をしているにすぎない、という感覚が美咲には常にあった。
そしてもちろん、そんな気持ちは相手にも伝わっていたのだろう。受験勉強のためというわかりやすい理由で別れを切り出してはいたが、相手もすでにそろそろ潮時かなと感じていたように思えた。
そんな大人な体験もあったので、美咲は男子に対して構えるといったところがなかった。二次会がお開きになって帰ろうとしたとき、直樹から「二人でもう一軒行かない?」と誘われたときも、美咲はすごく気軽く「いいよ」と答えた。しかしそれは、そこから男女の関係が始まると思ったからではなく、都会っ子と地方出身者、男と女という違いはあるが、なんとなく直樹からは自分と同類の臭いがするように思えたからだった。
親睦会の二次会の後、ほとんどの学生が最寄りのJRの駅まで帰る中、二人がいつの間にか消えていることはすぐに皆に気づかれた。まず女子たちが、おそらくそれとなく注目していた直樹がいなくなったことに大騒ぎした。さらに遠藤美咲が一緒らしいということがわかると、ますます声は大きくなった。その中心にいたのが、女子の中で美咲を除いてただ一人の地方出身者であった金橋杏里である。
「遠藤さん大丈夫かな? 須藤君ってちょっとヤバい感じじゃない?」
「ヤバいって何? なんかしちゃうとか?」
すでにクラスの中で、直樹とよくつるんでいた牧雄太郎が反応した。
「大丈夫、大丈夫。それにどうかなっちゃったとしても、俺たちもう大学生なんだから、他人がとやかく言うことじゃないだろぉ…なぁ、そうだろう荒武」
雄太郎は酔い過ぎたのか、少しロレツが回らなくなっていた。
返答を求められた荒武信二が答えた。
「まぁ、いいんじゃないか。俺たちこれから四年間ずっと同じクラスでやっていくんだし。須藤だってバカじゃないんだから、その辺はわかってるだろ」
信二もかなり飲んでいたはずだが、比較的冷静だった。
しかし杏里は心配そうな顔で返した。
「須藤君は大丈夫だと思う。そうじゃなくて、なんか遠藤さんって、九州だっけ? そもそも地方から出てきたばっかだし、彼女のほうこそ大丈夫かなってわたしは思ってるのよ」
「遠藤さんが須藤を襲っちゃうとか?」
笑いながら雄太郎が言った。
「だいたい地方から出てきたばっかりってさ、地方出身者をバカにするなぁ!」
雄太郎が大声で叫んだので、その場にいた全員がちょっとひるんだ。
岡山の片田舎から出てきていた雄太郎は杏里に少し近づいて睨んだ。
「そうじゃなくて!」杏里は語気を強めた。
「遠藤さんが、なんだか慣れない東京生活で浮足立っているように見えたから…」
長い黒髪を後ろでひとつに束ねた金橋杏里は、学級委員長のような面持ちだった。クラスに女子は八名いるが、そのうち六名は東京及びその近郊から通う自宅生である。杏里は新潟から出て来ており、その声は「地方出身者には地方出身者にしかわからないことがあるの」と、言わんばかりだった。
あまりの勢いに押されて、雄太郎は仕方なくスマホを取り出した。
「わかったよ。じゃ、ちょっと電話してみよっか。クラスのグループLINEより、直接須藤に聞いてみるほうが早いだろ」
かすかにコール音が七回ほど聞こえて、直樹が電話にでたのがわかった。周りのみんなは聞き取ろうとして黙っていた。
「うん。だろ…じゃ、伝えとくわ」短いやり取りの後、電話を切ると雄太郎は、
「駅の反対側のバーで飲んでるそうです。こんなにみんなに監視されちゃったら、悪いことも何もできないって言ってます」と、全員に聞こえるように言った。
杏里は少々納得いかないような顔をしたが、他の女子グループの面々は「どうでもいい」と言いたげに、再び駅に向かって歩みだした。それを追いかけるように他の男子たちも駅に向かった。
このことがあったため、美咲はクラスの女子グループからはじかれたといっても過言ではない。一年生の四月、この最初のクラス飲み会から、美咲は女子たちと打ち解ける機会が全くないまま、やらかし女子として認識されてしまったのだ。
さらに次の週の授業から、美咲と直樹は一番後ろに並んで座るようになった。といっても、いつも直樹の向こう隣りには雄太郎が座っていたし、クラスのまとめ役の荒武信二も近くに座ることが多かったから、美咲はクラスの他の者たちから自分たちがカップルとして認識されているとは全く思っていなかった。
美咲は早めに教室に入っても、なんとなく女子グループとは離れて座った。それも女子たちがいつも一番前の席を陣取るので、後ろの席が好きだから、そんなに前に行きたくないのだと、自分に言い聞かせていた。だから美咲自身には、女子たちからハブられているという認識は全くなかった。
金橋杏里を除いてほぼ東京出身者の集まりである女子グループには独特の香りのようなものがあった。化粧っ気のない素朴で地味な雰囲気は、一見垢ぬけない地方出身者のようにも見えるが、それとなく持っているカバンや履いている靴などが、派手ではないが洗練されたもので、いわゆるお嬢様的雰囲気をまとっている子が多かった。本当にどこかの令嬢か何かなんだろうか、美咲は各人の背景を聞く機会を失っているので知る由もなかったし、特に知ろうとも思わなかった。
そのかわり、直樹や雄太郎、そして荒武信二といった面々については、徐々にその人となりがわかってきた。
須藤直樹は、外見や言動こそ軽いように装ってはいるが、案外それは一種の照れ隠しであることがわかってきた。実は人見知りであることを隠すため、努力してキャラクターを作っているようなところがあった。ただその努力はちゃんと実っていて、あらゆる意味で男女分け隔てなく仲良くできる才能があった。直樹はどんな女の子にも、一切照れずに「今日の服可愛いね」とか軽口をたたくが、それは女子に対してだけでなく、男子にも「その帽子、かっけぇ」などの誉め言葉をよく使った。だから直樹はいかにも軽そうなチャラ男であっても、男子から特に疎まれることはなかった。男女どちらにもきわめてフレンドリーなのだ。
ただ、美咲がなんとなく同類と感じていたことは、男女間のハードルが低いということだ。
美咲と二人きりになった初めての飲み会の夜、直樹はそうするのが礼儀だとでも言わんばかりにバーを出た横道の暗がりでいきなり美咲にキスしてきた。それもけっこうハードなものだった。そして耳元で、「今日はみんなに見張られているからここまでね…」とささやいたのだ。
おそらく初心な田舎娘であったら、これで恋に落ちてしまうか、又は怖がって近寄らなくなるかのどちらかであろう。しかし美咲はそのどちらでもなかった。直樹のキスをそれなりに受け止めてから、その目をまっすぐにみつめて、「簡単にできると思わないほうがいいよ」と忠告し、頬に軽くキスを返した。
この瞬間、美咲は直樹より立場が上になったと思ったし、また今後は、男女の垣根を越えて友だちとして付き合えるような気がした。直樹はその後、へへっと笑ってうつむき、それ以降、一切美咲に迫ることはなかった。
そう、二人は交際しているわけではないのだ。
入学早々に直樹とすぐに仲良くなった牧雄太郎は、背が低いことを除けばちょっと芸能人でもなれそうなイケメンの男の子だった。直樹と同様に、わざとチャラい感じを出しながら明るく振る舞っていたが、直樹と違うのは、雄太郎のほうが根っからの陽キャであることだ。クラスの誰に対しても、くったくなく近づいて話しかけ、いろいろ接した結果、直樹と一番気が合うと判断して一緒にいるようだった。岡山の県立高校の出身で、自らよく田舎者と言っているが、案外すごいお坊ちゃまかもしれないと思わせる雰囲気があった。
直樹も雄太郎も、最初こそクラスの真面目そうな女子たちからは敬遠されていたが、いつのまにか軽い会話を交わすようになっていた。直樹が何気なく言う「その服似合ってるね」とか、「髪切ったでしょ」という言葉は、特に男の子に免疫のない女子高出身者の四名に魔法をかけるかのようだった。梅雨が近づく頃には、女子の半数が直樹に恋心を抱いているようだった。また、雄太郎は雄太郎で、ちょっと中性的雰囲気もあったので、流行のケーキ屋の話などで女子たちと興じることもあった。おそらくこの二人は、美咲よりもクラスの女子たちと交流があった。
この二人とは対照的なのが荒武信二である。信二は女子に自ら話しかけることは少なかった。実家は千葉の海沿いの町なので、東京も東側の大学なら通えないこともなかったらしいが、西側ということで大学の近所の安アパートで一人暮らしをしていた。別の文系の大学に一年通ってから中退し、さらに予備校に一年通って入ってきたので二歳年上だった。年齢が上のため敬遠されるのを回避するために、クラスのまとめ役を自ら買って出たと説明した。
信二が直樹や雄太郎と一緒にいるのは、気が合うというよりも、この二人が一番フレンドリーで付き合いやすかったためだろう。年上かどうかについて、彼らがあまりこだわらないからだ。
クラスの大半を占めるのは、眼鏡をかけたオタク系のいかにも理系男子だ。その中には、他人との距離の取り方がわからないのか、いくら信二からフランクに話しかけても、年上というだけで妙な敬語を使うものもいた。それはまた女子たちの一部にも言えることだった。
共学の県立高校出身の信二にとって、女子は緊張して話せないほどの相手でもないが(一部のオタク系男子たちは、いかにも緊張しているのがわかった)、だからといって直樹や雄太郎のように、得意というほどでもなかった。
学校で美咲は、そんな男子三人と一緒にいることが多かった。ランチを一緒に取ったり、空き時間にカフェで暇をつぶしたりする仲間である。
しかし、理工系学科では実習と呼ばれるいろいろな実験科目が組まれていた。そしてその場合、大抵三、四人の班に分かれることが多かった。班分けは機械的に名簿順の場合もあれば、まずは選択履修の語学クラスで分けられてから班分けされることもあったので、普段ほとんど話すことがない間柄でも、クラスの大抵のメンバーと交流せざるを得なくなる。いつも固まっている女子たちやオタク系男子たちも、それぞれバラバラになり各班で協力して実験を行わなければならなかった。
また、基礎実験とはいっても、時には失敗することもある。その場合は時間割の時限を超えて、夜の九時近くまで居残ってやり直すこともあった。さらに提出するレポートについても、データを班で協力してまとめなければならないので、実習が終わった後も、班ごとに個別に連絡をとり合い、集まったりすることも多かった。いわゆる文系の大学生たちより、実験系の学生たちは学校に縛られている時間が長く、同じ専攻内で密な関係が築かれやすかった。
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