その三 一年生 秋

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その三 一年生 秋

十月初めの一年生の後期、そんな実験班のひとつで、美咲は初めて岩城翔太(いわきしょうた)と話をした。もちろん三十人しかいないクラスであったから名前ぐらいは知っていた。 その一回目の基礎物理学実習のとき、美咲たちの班は実験が予定通りに上手くできなかった。渡された指示書通りに設定して、オシロスコープで波形の記録を取るのだが、全十班のうち、夜の七時を過ぎても残っていたのは、美咲と翔太、そして金橋杏里で組まされた実験班だけだった。 時々物理科の助手が様子を見に来るが、基本的には自分たちで課題を解決しなければならない。翔太は、当初この班に決まったときから、女二人に挟まれてとても居心地が悪そうにみえた。しかし後期の間、週一回、計十五回ある物理実習をこの班で進めていかなければならなかった。ただ同じように、三人組の中に男一人であるとか、逆に女の子が一人(比率的にこちらのほうが多い)となった班は多かったので、誰も班分けに文句を言うことはできなかった。 「遠藤さんって東京の人だったよね?」 オシロスコープの配線をいじりながら、翔太は美咲に尋ねた。 「ううん、九州だよ、福岡」 「そうなんだ。てっきり俺、東京の人かと思ってたよ」 「なんで?」 翔太は、どう言っていいものかと考えあぐねているふうで、言葉が止まった。 「ううーん。なんて言うか…」 「遠藤さんって世慣れてるって感じがするもんね」 代わりに答えたのは金橋杏里だった。 「世慣れてるって何?」 美咲はちょっとムッとした表情で杏里に尋ねた。 「ただ東京に慣れてるっていう意味」 杏里は、美咲がちょっと大げさに反応したのでひるみそうになったが、すかさずきっぱりと答えた。 翔太は、自分が始めた会話で女二人が微妙に険悪なムードになったので、あわてたような顔を見せた。 「いや遠藤さんって、いつも須藤と一緒にいるだろ。須藤は東京だから、てっきり遠藤さんもそうなのかと思っただけだよ。前からの知り合いとかさ」と言いながら、「よし、できた」とつぶやき、測定器のコンセントをつなげた。 「全然。知り合いでも何でもないよ」美咲は答えた。 すると杏里は、少し躊躇するような顔をみせたが、このところクラスの女の子たちが知りたがっていたことを、今こそ聞くチャンスだと思ったようだ。 「遠藤さんって須藤君と付き合ってるの?」と、いきなり直球で美咲に尋ねた。 「えっ? 付き合ってなんかないよ。もしかしてそう思ってるの?」 「うん。思ってた。てか、女子はみんなそう思ってるよ。それに、男子なんかもっとすごいこと言ってる人もいるぐらい。ね? 岩城君」 杏里は翔太に同意を求めたが、翔太はあいまいな表情しか見せなかった。 「すごいことって何?」 美咲は強い口調で杏里をにらんだ。 「遠藤さんは須藤にもうやられちゃったのかなって」 美咲はその下品な内容に言葉を失い、顔がカッと火照ったのを感じた。とっさに何か言い返そうとも思ったが、いったん目をつぶり、ちょっと一呼吸置いてからゆっくりと杏里に聞き返した。 「何をどう、やられちゃうの?」 「何をって…よくわからないけど…」 美咲は杏里がしどろもどろになるのをじっと見ていた。 「もうやめろよ。金橋さんもそんな噂話、本人に言うことないだろ。ほら、配線これでいいと思う。もう一回記録取ってくれる」 二人を実験に引き戻すことで、翔太は懸命に険悪な空気を追い払おうとした。 翔太が配線を直したことで、今度の実験は上手くいった。渡されていた指示書にある通りに反応が記録できた。すでに時刻は八時半になっていた。 「九時には門が閉まるから、それまでには片付けて校舎をでるように!」 確認をしにきた助手にせかされて、美咲たちは慌てて帰り支度をして帰路についた。 バスはすでに本数が少なくなっていたので、駅まで十五分ほどの夜道を三人で歩くことになった。杏里は押し黙ったままで、翔太も最初こそ気まずそうに黙っていたが、駅前の繁華街にさしかかった頃から、美咲と話しだした。 「そうなんだ。岩城君、仙台出身なんだね。仙台、一回行ったことあるよ。小さいとき、家族で東北の祭りをレンタカーで巡る旅をしたことある」 「七夕かな。旧暦でするから八月の頭だね」 「そうそう。夏休みだった」 杏里は相変わらず一言もしゃべらずに駅に着いた。すると、杏里は八王子方面、美咲と翔太は東京方面と反対のホームに分かれることがわかった。 「じゃ、わたしはこっちだから」 杏里が重い口をようやく開いた。美咲はちょっと間を置いてから、 「バイバイ、金橋さん。これからも実習よろしくね」と、わざとゆっくり、ちょっと笑みを浮かべながら言った。 杏里は少しバツの悪そうな顔をして軽く手を振り、反対側のホームに向かった。 翔太はそのやり取りを見て、女って怖いなと少し思いながら、「金橋さん、さよなら」と、できるだけ平坦な声で言った。 大学の最寄り駅から各駅で五つ目、二人は同じ駅で降りた。なんと翔太は、美咲が住む女子学生限定マンションから歩いて十分ほどのアパートに住んでいた。 そしてこの時から、美咲と翔太の関係がぐっと縮まるのに時間はそうかからなかった。 美咲は、二回目の実習の後に一緒に帰る頃には、自分がいつも翔太の動きを目で追っていることに気づいていた。 そして三回目、実験が遅くなり、夜道を二人で歩いているとき、これは恋だろうかと意識した。背は高いが決してカッコいいとは思えない。いや、よく見れば端正な顔立ちとも言えなくないが、それにしても地味すぎる。だったら中身に惹かれるのかと思っても、特に気が合うとかでもない。それどころか気が合うかどうかはちょっと微妙だ。おそらくその点だけなら直樹のほうがよっぽど気が合うようにも思えたし、見た目だって直樹のほうがわかりやすいイケメンだと思う。 でも美咲は、素直に翔太とずっと一緒にいたいと感じたし、もっと話をしたかったから、翔太と歩くこの帰り道がもっともっと長ければいいのにと思った。こんな気持ちは初めてだった。 だからその日の帰り道、自分たちの最寄り駅に着いたとき、美咲は思い切って、「ごはんはどうしてるの?」と聞いた。 「できるだけ自炊しなきゃとは思うんだけど、コンビニ飯が多くなっちゃうかな」と翔太は答えた。 実はこのとき翔太のほうも、ここは食事に誘うチャンスだと思っていたと、後に美咲は聞くことになる。しかし翔太には、そこに一歩踏み出す勇気がなかった。男子校出身の翔太はそれまで女の子と付き合ったことがなかったから、男女間のやり取りに慣れていなかったのだ。 だから美咲のほうから、「じゃ、何か食べてかない?」と誘われたとき、翔太はドキドキしながら、内心「マジかよ。やった!」と思った。だがしかし、それを悟られないように、「いいよ」と答えるのが精一杯だった。 その夜はすでに遅い時間だったので、大学生が気軽に入れそうな開いている飲食店は、ファストフード店か、駅前のチェーンの居酒屋だけだった。 美咲は、ファストフードでは高校生みたいだと思って、「ねえ。居酒屋とか入ってみない?」と翔太を誘った。 未成年の二人は、飲み会で出されれば酒に口をつけることもあったが、自ら酒類を頼むこともなく、出された水を飲みながら、それぞれホッケの塩焼きと刺身の盛り合わせ、それと白ご飯セットを頼んだ。 もしこれがテーブル席で差し向かいだったら、なんだかこっ恥ずかしかったかもしれない。しかし店員に通されたのはカウンター席だった。二人は顔を見ずに並んで座ったおかげもあって話がはずんだ。クラスの誰それの話(特に相変わらず美咲に嫌味なことしか言わない金橋杏里のこと)、変な帽子をいつもかぶっている化学の先生のこと、春に入会したが夏にはやめてしまったサークルのこと、そして互いの高校時代のことなど、話はつきることがなかった。 いつまで話をしていても会話が途切れなかったので、結局その日は、店が閉まる午前0時まで、追加した少しのつまみだけで三時間近く二人は話し続けた。           * 翔太は、実験で初めて一緒に帰った日、同じ駅で降りたあたりから美咲を意識し始めていた。いや、そうじゃないかもしれない、とも思う。四月、初めてクラスで自己紹介をしている美咲を見たときから、翔太は美咲を可愛いと思い、なんとなく惹かれていた。ただ、そんな思いも束の間、親睦会帰りに美咲は須藤直樹と消えてしまい、早々に二人はクラスの公認カップルみたいになっていた。 だから翔太は、四回目の実習の帰り道、意を決して美咲に告白しようと計画したとき、あらためてそのことを問いただそうと思った。 二人の家路の分岐点になる静かな住宅街の分かれ道で、翔太はいつになくさよならをなかなか言わずに、一旦立ち止まって、言いにくそうに切り出した。 「そのぉ、遠藤さんは、ほんとうに須藤とは付き合ってないの?」 美咲はまたそのことかと、ちょっとうんざりしたような声で返した。 「付き合ってないよ。付き合ったこともないし」 美咲がそう言うのを聞いて、翔太が次の言葉を言おうとしたまさにそのとき、美咲は翔太の目をまっすぐにみつめて言った。 「それにわたしは…」 そう言うと美咲は、周りに誰もいないことを確認するようなそぶりを見せ、いきなり翔太に優しく抱き着いてきた。 「わたし、岩城君のことが好きだよ」 そう、翔太は告白しようとしたのだが、美咲に先を越されてしまったのだ。 翔太は、嬉し過ぎて叫びそうになるのを懸命にこらえて、震える声で「僕も好きだよ」と美咲に告白し、勇気を出して自らの手に力をこめて美咲を抱き返した。 体が離れて、目を合わせた二人は、思わず吹き出して笑った。好きになった人が自分を好きになってくれた。二人とも、しあわせが過ぎると自然に笑いがこぼれてくることを初めて知った。 翔太は美咲の手を取って、黙って美咲のマンションに向かう道を進んだ。その夜は美咲のマンションの前まで送ろうと思ったのだ。 マンションに着き、翔太の目をみつめて手を振りながらエントランスに入っていく美咲を見ながら、翔太は自分の恋が実ったんだと感じた。
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