その五 二年生 春

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その五 二年生 春

互いにあんなに大好きだったのに、あれは確かに恋だと思ったのに、美咲と翔太の関係が壊れるのは意外に早かった。 大学の春休みは長い。二月初めに学年末試験が終わると、入試準備のため学校は閉鎖され、研究室所属の四年生や大学院生たちを除き、三月末の成績発表まで、二ヵ月近くもの間、ほとんどの学生は登校することはない。その間、サークル活動やアルバイトに精を出す者も多いが、海外を含めて長い旅にでる者(向上心のある学生は短期の語学留学なんかもある)、また、いっそのこと生活費がかからない実家に帰省してしまうものもいる。そして驚いたことに、翔太はこの最後の選択をしたのだ。 二月初め、すべての試験が無事に終わってほっとした美咲は、翔太の部屋でノートパソコンをこたつの上に広げて、一緒に並んでマーベル映画の配信をみていた。 「配信もいいけど、やっぱりマーベルは大画面で見たいよね。今度の新作は絶対映画館で見ようよ。確か春休み公開だったはず。春休みって、高校生の春休みだから三月二十日頃かな」 美咲は春休み、一年生の夏から続けていたファミレスのバイトを入れていたが、翔太と会える時間を増やしたかったので、それほど密には入れないようにしていた。 「俺、その頃まだ帰ってないと思うな」 「えっ? どっか行く予定あるの?」 とっさに美咲は、旅行の予定でもあるのかと思った。 「いや俺、来週から仙台に帰るから」 美咲は言葉を失った。わたしはこんなに翔太に会いたいと思っているのに、翔太はそうじゃなかったのか。 少し沈黙が流れたが、美咲の気持ちを察知した翔太のほうが先に言葉を発した。 「一緒にいたいのは俺も同じ」 翔太はそう言いながら美咲を抱き寄せた。 「ただ、東京にいると金がかかるだろ。食費とか。こっちでバイト探すつもりだったんだけど…仙台で受験の時に世話になった塾から、三学期の講師に採用するから戻ってこないかって連絡があったんだ。時給聞いたらすっごくいいし…」 「聞いてない。いつ連絡あったの?」 美咲はすねるような声を出した。 「先週」 「どうして相談してくれなかったの」 「先週は試験が忙しくて会えなかっただろ。塾からすぐにシフト組まなきゃって言われてせかされたし。だから次の日にOKしたんだよ。それに…」 「それに?」 「母さんが帰って来いって」 美咲はドキッとした。後ろから誰かにいきなり声をかけられたような気分だった。           * 大学一年生でまだ十代でもあった美咲も翔太も、正月はもちろん実家に帰った。 大学の冬休みの始まりは案外遅く、クリスマスイブの日まで授業が組まれているのにはがっかりであったが、その日二人は一緒に帰り、予約していた吉祥寺のリーゾナブルなイタリアンで乾杯し、そのまま翔太の部屋でクリスマスの朝を迎えた。 翔太は「去年の今頃は勉強しかしてなかったのに、たった一年でこんな日がくるなんて思わなかったよ」と言い、美咲も「わたしも同じだよ」と答えて、何度も何度も甘いキスを交わした。 そして翌日、美咲は予約していた飛行機で福岡に帰省した。 翔太も同じ日に帰省すると言うので、羽田まで送りにきてくれた。美咲を送った後、その足で東京駅に向かい新幹線の自由席で仙台に帰るという。 空港は暮れの喧騒でごった返していた。そんな中、早目に羽田に着いた二人は軽い食事をして、土産物売り場にいた。 「美咲ちゃん、そんなにいっぱいお土産買うの?」 「だって、お正月は大勢親戚が集まるから、東京土産たくさん買ってこいって、お母さんから言われてるの。翔太君もここで買ったらいいんじゃない。東京駅でもあるんだろうけど、東京土産はどこも同じでしょ」 翔太はそう言われて、いくつかクッキー缶を手に取ったりした。 「うちは母親だけだからなぁ。ああでも、これとか好きかも」 翔太が選んだのは、箱に赤いリボンの絵が描いてあるかわいらしいデザインのチョコレートの詰め合わせだった。 翔太の家族が母親だけであることは交際し始めてすぐに知った。翔太が小学一年のとき、四十にもならない歳で父親は癌で亡くなったという。その後母親はシングルマザーとして翔太を育ててきた。これだけ聞くと、経済的に苦労したのかと思うのだが、翔太の母は小学校の教員であった。それも現在は仙台市で校長をしているという。 その話を聞いたとき、美咲は素直に疑問を口にした。 「じゃあ、お母さん忙しかったんだよね。ご飯とかどうしてたの?」 「ばっちゃんちが近かったし、小学校ぐらいまではそこでご飯食べることが多かった」 翔太はちょっと遠い目をして、懐かしむような表情を見せた。 「ばっちゃんが亡くなってからは、けっこう俺自分で作ったよ。だからわりと料理上手いだろ?」 たしかに、もう何回も翔太の家で一緒にご飯を食べているが、冷蔵庫の余り物で作ったチャーハンはあまりに美味しくて、料理が得意とは言えない美咲には衝撃的でもあり、またさらに翔太のことが好きになる要因にもなった。           * 「春休み、母さんが帰って来いって」と、翔太がちょっと言いにくそうに小さな声で言ったとき、美咲は暮れの羽田で翔太が選んだチョコレートの詰め合わせを思い出した。 でも美咲は、この時点では翔太のことが大好きだったから、「やめられないの?」とか、「もっと早く帰れないの?」とか、そういう言葉を飲み込んで、「そうなんだ」というのが精一杯だった。 翔太は「ごめんよ。悲しませちゃったかな。成績発表にはもどるからさ」と言うと、美咲を抱き寄せ、唇を合わせてきた。美咲の心には悲しい気持ちが渦巻き、全く気が乗らなかったので、冷え冷えとしたキスを返した。しかし、それ以上拒むこともできずに押し倒されたので、結局、翔太の手のなすがままに任せた。 痩せた筋肉質の背中に手をまわしながら、美咲は薄目をあけ、翔太の肩越しにあらためて部屋を下から眺めた。男の子の一人暮らしにしてはきちんと揃った家具、戸棚に入っている使い勝手のよい食器類、そして男の子が選んだとは思えないカーテンとそれに合わせたレースカーテン、さらに母親の年代の女性が好みそうな照明器具。 美咲は翔太がもたらす甘い快楽に身を委ねながらも、この部屋にはもう一人の女性がいるんだと感じていた。           * それでも三月末に翔太が仙台から帰ってきた時は、美咲は嬉々として東京駅まで迎えに行った。しかし二人とも二年生に進級し、五月の連休が始まる前には、美咲は翔太と別れた。理由は簡単だ。翔太が連休にまた仙台に帰ると言ったのだ。 別れは突然きた。いつものように学校帰りに駅前の居酒屋で一緒に食事をしていたのだが、少々お酒が入ったこともあって、とうとう美咲は翔太に言ってはいけない言葉を投げつけてしまった。ずーと心の底にくすぶっていた言葉、マザコンと。 三月末に東京に戻ってからというもの、翔太は母親のことを日常的に話題にするようになった。美咲は福岡の家族の話をすることはあまりなかっただけに、翔太が何かにつけて母さんはこういうのが好きとか、この番組をよく見ているとかって言うのがいちいち気に障るようになっていた。そしてそれに比例して、薄紙をはぐように美咲の気持ちは冷めていったのだ。それでもまだ最初のうちは悲しい気持ちが勝っていたのだが、徐々に怒りのようなものに変わっていき、連休も帰省すると言われた時、とうとう気持ちが爆発してしまった。 マザコンと言われた翔太は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして押し黙ってしまった。そしてテーブルの上の伝票を手に取ると、何も言わずに立ち上がってレジに行き、振り返りもせずに美咲を残して店を出て行ってしまったのだ。 このとき、美咲の初めての恋は終わった。           * 五月の連休明け、美咲と翔太が別れたことはすぐにクラスのみんなに知れ渡った。 教室に入っても二人は一緒の席には座らず、美咲は直樹の横に何食わぬ顔をして座り、まるでこの半年何もなかったかのように話しかけた。直樹はすぐに察知したようで、同じく何もなかったように美咲が隣に座るのを受け入れた。 また翔太のほうは、北国から来た男子グループに戻っていった。彼らは真面目で誠実ではあるが、少々コミュ力に欠ける所があるので、きっとずけずけと何があったのかと翔太に聞いたりするのだろうが、美咲にはもう関係のないことだった。 そして女子グループは、杏里を中心にいろいろと憶測しているようだった。しかしまあ、こちらこそ美咲には全く関係ない。 幸運なことに、二年生の前後期のいずれの実習でも、美咲と翔太は同じ班に組まされることはなかったので、三十人ばかりの小さいクラスにいるとはいえ、その後二人が会話することは全くなかった。
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