その七 三年生 二月

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その七 三年生 二月

試験期間が終わると、大学は入試のため一般学生を完全に締め出す。しかし今年美咲は、この間も登校しなければならないことがあった。実は美咲は、生物工学科の中で教職課程を取っている数少ない学生の一人だった。美咲の学科では高校の理科教員の免許が取得できる。ただし、教職課程に共通する教育学系の多数の科目や、理科といっても生物だけではなく化学や物理、それから地学についても基礎科目を履修しなければならないので、ただでさえ忙しい学科なのにそれに科目を足してまで教職課程を取る学生は少なかった。いや、一年生の当初はけっこうな人数が挑戦していたように思う。結局、途中で脱落してしまうのだ。 美咲は脱落せずにここまで順調に履修できたことを誇らしく思っていた。知っているだけでも、クラスで続けているのは男子が一名と女子が二名だけだ。だいたい教職科目は欠席や遅刻について極めて厳しい。教員を志すなら皆勤賞が当たり前という感じがあるのだろう。 さらに、教職関連の実習科目として、昔からある四年生前期の教育実習だけではなく、三年生までに福祉関連の実習単位として、児童養護施設や障害者施設、または高齢者介護施設といった場所での四日間にわたる体験学習も履修しなければならなかった。 美咲は、体験学習の実習先として、三鷹市にあるグループホームとよばれる高齢者介護施設が割り当てられていた。その実習が二月の最終週にあるため、その前に参加者の顔合わせが入試日と重ならない日に学校で行われることになっていた。 顔合わせ当日、入学以来、初めて入った経営学部の校舎一階の大教室には、美咲を含めて四名の女子と一名の男子が集められていた。 そこに教職課程担当の職員が入ってきた。 「ごめんなさいね。こんな広い教室しかなくて。入試で使える校舎が限られているから、ここしかなくて」 入ってくる早々に中年の女性職員は謝った。 美咲たちはいきなり謝られたので、皆なんとなく「いえいえ」という感じに軽く頭を下げた。 「では、さっそく始めましょうか。今日は本当に顔合わせだけですが、できたら皆さんぜひ、お互いをきちんと知って帰ってほしいんです。というのも、この体験実習は、うちの大学にご協力いただいている近隣の福祉施設で行われますが、皆さんがいろいろと問題を起こしたりすると、来年度からご協力いただけなくなる可能性があるんです。残念ながら過去にはそういうこともあって、リストから外れてしまった施設もあります。このような形態の実習が教職課程に組み込まれてからそう長く、当初はいろいろな問題行動が報告されました。どこの施設でも日常の業務がありますから、そこに数日でもよそ者が入り込むのは、受け入れ側にしたら面倒なこと以外の何物でもありません。そこで、参加する皆さん同士でお互いをよく知り合ってもらって、何か問題が生じた場合は、ぜひ助け合ってもらいたいんです。これがどれだけ大事かということを、数年間かけてようやく私たち担当職員も気づきました。そこで三年前から、同じ施設に行く人同士で、このような顔合わせ会を設けています。では、簡単な自己紹介から始めましょうか。遅れましたが、私は体験実習担当職員の田村といいます」 田村に促されて、一番窓側に座っていた女の子から自己紹介が始まった。 「岸桜子(きしさくらこ)です。文学部英語英文学科です。教職は、両親ともに教員なもので、絶対に免許を取れと言われて…本当はあまり向いてないと思うんですけどぉ」と少しおどけたように言い、「でも、頑張ります!」と、小さくガッツポーズをしながら締めくくった。 一番バッターとしてはいい感じの入り方である。初めて会う者同士で緊張していた空気が少し和んだのがわかった。 続いて、ちょっとボーイッシュなショートヘアの女の子が立ち上がった。 「同じく英語英文学科の十和田璃子(とわだりこ)です。将来は地元の宮崎に帰って英語教師になることが夢です。よろしくお願いします!」と、ひときわ元気な明るい声が響いた。 そして唯一の男子が立ち上がり、大人びた低い声で話し始めた。 「菅原陸(すがわらりく)です。文学部史学科東洋史専攻です。よろしくお願いします」 その背の高いひょろっとした男子学生は、男子一人で女子に囲まれていることを特に意識していないように見えた。次は美咲だった。 「遠藤美咲です。理工学部生物工学科です。これまで文系の人と交流する機会があまりなかったので、なんとなく嬉しいです。よろしくお願いします」 そして最後に、モデルのような顔立ちのエキゾチックな美人が立ち上がった。美咲は教室に入った時から一目で綺麗な人だなと思っていた。こんな綺麗な人が学校にいたなんて知らなかった。もしかして、うちの大学のミスキャンとかだろうか。 「同じく理工学部、数学科の如月由香(きさらぎゆか)です。よろしくお願いします」 意外にも由香と名乗った美人は、美咲と同じ理工学部の所属だった。 事務連絡を終えて解散する時に、職員の田村から、「ぜひこの後、飲みに行くとか親睦会をしてほしい」と言われ、驚いたことに親睦会費と書かれた封筒が渡された。封を開けると、一人二千円、計一万円が入っていた。ただその日は、如月由香と岸桜子に予定があるとのことで、日程をあらため、その週の土曜の夜に、学校の最寄り駅近くにある大学御用達と呼ばれている居酒屋で親睦会を開くことが決まった。           * 「カンパーイ!」 親睦会で威勢のいい掛け声で最初の一声を発したのは十和田璃子だった。自己紹介で感じたように、璃子はとにかく元気で明るい。おそらく周りを楽しませることが、自分の楽しみでもあるのだろう。 新しいメンバーでの飲み会は久々でもあったので、美咲はもちろんその場を楽しんでいたが、なんとなく不安も感じていた。男が一人で女が四人、大学に入学してから何回も飲み会に参加してきたが、美咲は女友だちができなかったので、いわゆる女子会というものをしたことがない。だから、こんなに女子が多い飲み会は初めてだった。みんなの話に入っていけるかどうか、家を出る時からちょっと不安を感じていた。 店の前での待ち合わせには全員が遅刻せずにぴったし定刻に来た。皆、さすが教員志望と内心思ったに違いない。五人で店内に入るとき、美咲はなんとなく唯一の男子である菅原陸の隣に座った。両側を女子で固められることに抵抗があったのだ。 親睦会は予想以上ににぎやかに楽しく進んだ。大学も三年生になると、全員が成人なので、下戸の岸桜子は飲まなかったが、他の者は皆けっこう酒を飲んだ。美咲もそうであるが、三年生もそろそろ終わる今頃になると、大学生活もある程度煮詰まってきており、すでに本格化している就職活動や、これまでの人間関係についてなど、皆それぞれがいつものメンバー以外の人間と話してみたくなる時期でもあった。 当初美咲が感じたように、菅原陸は女子に囲まれていることを全く気にしていないようだった。文学部の女子の比率は八割近い。おそらくこのような状況は文学部男子にとっては普通のことなのだろう。逆に美咲がいつも男子に囲まれているのと同じである。 陸はいかにも文学青年といった感じの色白男子だった。一見、美咲のクラスにいる理系オタク男子と似たふうでもあったが、何より違うのは、あらゆることに博識で、身近な学内サークルの噂話といった下世話なものから、自分の専門の中国の歴史まで、とにかくしゃべりだすと止まらなかった。しかしその話は、どれもオチが付いてたりして、この上もなく面白いと思った。 さらにそれに輪をかけておしゃべりだったのが十和田璃子である。陸と璃子の話は漫才のようなテンポを生み出し、皆笑い転げた。こんなに楽しい飲み会は入学してから初めてだと美咲は思った。この二人は特別に話し上手なのだろう。しかし美咲は、やっぱり文系の人たちは違うなあと感じていた。 同じく英文科の岸桜子は、見た目は大人しいお嬢様風ではあったが、やっぱりおしゃべりらしく、元々同じ学科で友人であった璃子ばかりがしゃべるのを突然遮って、自分の話をしようとしたが、それをまた璃子に遮られたりしていた。 美咲は自分ではそこそこ話に加わっているつもりであった。がしかし、いきなり璃子に「もっとしゃべって! わたしたち、学校から無理にでも親睦しろって、お金までもらっているんだからさ!」と注意され、皆その物言いに大爆笑となった。 そんな中、一番無口だったのが如月由香である。由香は皆の話をじいっと聞いているだけだった。もちろん璃子が由香にも話すように求めたのだが、由香はとてもゆっくりしたテンポで数学科の教授だかの話をしだした。が、それが終わらないうちに、結局さらに酔いが進んだ璃子が遮って話は横取りされてしまった。 夕方の六時から始まった一次会はすでに三時間をすぎ、皆すっかりでき上がっていた。璃子が「二次会、二次会!」と言いながら店を出た時には、楽しんでいるのかがはた目にはわからなかった由香も含めて、全員が次の店に行くことに同意した。 二次会はチェーンの居酒屋だった。ここでも璃子と陸の漫才は続き、皆しこたま飲んで笑った。ほんの三日ほど前に出会ったばかりなのに、一年生の頃からの友だちであるかのように、打ち解けた空気感ができていた。 閉店の午前0時になったとき、陸が「この後うち来て飲まない?」と、皆を誘った。男子が女子四人を部屋に誘ったのだ。しかし皆よほど酔っぱらっていたのだろう。あまり変とは思わなかった。 「菅原君ちって近くなの?」璃子が聞いた。 「俺んち、隣の駅。ここから歩いても三十分ぐらいだよ。でも狭いから、全員入れるかな」 「ははは…やば! てか、わたしは帰るわ。明日、バイトあったの思い出したぁ」 そんな会話が続き、結局は皆駅まで来て、解散することになった。 「では、来週の実習、皆さんよろしくね!」 最後も璃子が大きな声を出してしめた。 陸と桜子と由香は八王子方面、美咲は璃子と一緒に東京方面のホームに分かれた。 「遠藤さんってどこの駅? えぇーっ、同じじゃん」 なんと美咲と璃子は同じ駅どころか、同じ女子学生限定マンションに住んでいたのだ。 二棟あるマンションの東棟三階に美咲が、西棟の三階に璃子は住んでいた。 「こんな近くにいたんだね。だからかぁ、なんか見たことあるような気がしてたんだよね。まあでもあのマンション、うちの大学の子けっこういるみたいだよ。わたし経営学部の三年で東棟の二階に住んでる子知ってるし」 璃子はハイテンションだった。そして美咲も今日はいい感じで酔いが回り、テンションが上がっていた。女子と盛り上がるのも案外いいもんだ。 二人は同じエントランスから入り、左右にわかれる階段のところで「バイバイ」と言い別れた。最後に璃子は、「いつか部屋に遊びに来て!」と言った。 その言葉に美咲は、予想外にとても大きな幸福感に包まれた。女の子の友だちができるかもしれないと期待したのだ。 十和田璃子は宮崎出身だった。美咲と璃子が住む杉並区にある女子学生限定マンションは、駅から徒歩十分で、都心に出るにも便利な中央線沿線にあるため、学生には人気の物件だった。築十年程の東西にわかれた各三階建てのレンガ造りのマンションは、女子学生限定という決まりで、一階には管理人が常駐し、例え父親でも男性は館内に入れない決まりになっていた。ただし、門限などがある厳しい女子学生寮とは違い、男性立ち入り禁止ということ以外は、ほぼ普通のマンションと同じである。また、入居時に学生であることが条件であるが、卒業後もそのまま住み続けることができるので、いかにもOLといった感じの長く住んでいる人もいた。 ただ、常時管理人を置いて男子禁制にしているだけあって、このあたりの相場より一割ほど家賃は高かった。部屋はミニキッチン付きの六畳ほどのワンルームで決して広くはなく、また男子禁制は親にはすこぶる受けがよかったが、耐えられない学生もいるのだろう、二年の契約が切れ、東京の不動産事情に明るくなってくる三年への進級時に出ていく者も多かった。 美咲が大学進学で上京することが決まったとき、家族は東京のいろいろな生活状況に疎かった。今時、地方の人間で東京に親戚や縁者が全くいないという者は少ないが、地元でけっこう手広く運送業を営む美咲の一族はそういう少数派だった。だから、大学の入学パンフレットに折り込まれていた学生寮や賃貸アパートなどのチラシ物件の高い家賃を初めて目にした時は、まず家族全員がひとしきり驚いた。美咲の住んでいる町の相場の三倍以上した。さらに朝晩食事が付く女子学生寮ともなると、ますます賃料は高かった。 それでも一人娘が心配でたまらない父親は、女子学生寮にすべきだと主張した。しかし美咲は、まず東京に行きたいと言い出した時から、いやもっと、そのずっと前から、ドラマや映画にでてくるような東京での自由な一人暮らしに憧れていた。少々古くてもいいから一人暮らしができるところに住みたかった。門限がある女子学生寮なんてまっぴらだ。結局二人の意見の中間として、この女子学生限定マンションが選ばれたのだ。 駅にもっと近ければいいのにとか、もう少し部屋が広ければいいのにと思わなくもないが、入居してみると、周囲は武蔵野の雑木林が所々に残る閑静な住宅街で、スーパーや商店街も近く、住み心地は極めてよかった。だから三年に進級するとき、あまり迷わずに契約を更新して今に至っている。 ただ少し迷ったのは、今でも翔太と顔を合わせ辛いことだった。同じ駅を使って、同じ教室に向かうのだから、たまに駅付近でばったり出会ってしまうことがあった。そんな時は互いに気づかないふりをした。しかし三年生の夏休み頃、美咲はふと、そういえば前期に翔太に会わなかったことに気づいた。どうも翔太のほうが別の町に越したようだった。
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