夏の夜空の、楽しきこと。

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オルレアンの街中。人々は度重なる戦争に疲れていた。敗戦に次ぐ敗戦。フランスはその度に税金を集め、庶民は「また負けるのだから」と諦観に達していた。パンは齧られた。雲は重かった。黒い病が蔓延していた。彼の国の人にとって世界はとても暗く厚い雲に隠れてしまっていた。 石畳の広場に一人の東洋人が居た。彼は遠くから無理やり連れて来られたのであろう。人売りにでもあったに違いない。身に纏う服はボロであり、髪も髭も伸びきってしまい、垢がきつくて顔も灰色に見えた。脚を投げ出して、背もたれに建物を使い、虚空を見つめて、物乞いをするでもなく、生きるを諦めて居たのだろうか。彼は何も喋らなかった。人々も彼に興味を持たなかった。人々も疲れきっていたのだから。無音の顔が、この街の人々を見つめもしないのは、この街が持ち合わせた漂う空気感を見ていたのかもしれない。 ある日レオンは、この東洋人の前でつい立ち止まってしまった。来る日も来る日も同じ格好をしている彼を見て、ふと、ほっておくと街の害になると思っていたのだが、何故こんなところに居ることになったのかと、その彼の運命に想いを馳せてしまったのだ。人の情はその人の生き方や生き道に寄る。レオンは先日妻と娘を病で失った。この時代だ。彼は哀しみにふけったが、かと言って不幸とは思えなかった。幸せになるなんてのはそんな事ではないからだ。神の御加護があり、天に向かって旅だったのではと思えた。では、彼はどうだ。信仰も無い。きっと空腹で意識も朦朧としている。家族や友人にはもう二度と会えないだろう。そうだとしたら、この東洋人はなんとも物哀しい最後をここで迎えるのであろうなと思ってしまったのだ。 「おい。お前。大丈夫か?」 レオンは話しかけた。東洋人は話しかけられてびっくりしてるようで、レオンを見ずに周りを見回して、声をかけられた相手であるか確認をしているようだった。そうして、存外元気そうにニッコリと笑った。その笑顔が最近つとと笑えなかったレオンに何かを与えたように思えてしまったのだ。乾いた砂場に、子供が持ってきたバケツの水を自分で作った溝に入れて、川を作ろうとして染み込んでいった黒い砂のように。そんな風に。 「お前、腹は減ってるか?食べれてるのか?これはパンだ。知っているか?」 レオンはカバンにしまっていたパンを出した。今週末までレオンにはこれしか無かったが、それでも、カバンから出してしまった。東洋人は、それを見て口を開けて激しく頷いていた。そうしてレオンは、パンを割った。思いがけず、二つのかけらのサイズは大分歪になってしまった。迷ったが、大きい方をこの東洋人に渡した。東洋人は、一度頭を垂れて、手に取った。レオンは、恭しいその姿に少し見惚れた。パンを丁寧に口に含み咀嚼して彼はとても美味しそうに食べた。食べ終えると、手を合わせて、目を閉じて、何かを言っていた。それは食事の時のお祈りのようにも見え、もしかすると彼らは何かに感謝をしているのかもしれない。我々の神への感謝の形とは違ったが似ているものなのかもしれなかった。レオンは彼が食べている間、一緒に横に座って待っていた。そこから見上げる空は晴れ間が少し見えて、言うほど曇っていなくも見えた。この東洋人の目は本当はこの空を捉えていたのではないか。 食べ終えた彼はひたすら頭を地面にくっつけて何かを言っていた。言葉は分からないが、きっと感謝しているのだと思う。レオンの心はゆったりと、温かい飲み物を注がれたカップのようになった。そう、ぷかぷかと満たされた水面になったのだ、レオンは。 「お前名前はあるのか?いや、分からないか。オレはレオンという。」 自分を指差して、レオンは自己紹介をした。そうすれば、自然と彼が名前を名乗ると思った。 「タ、ダ、ンルぅ」 そう言ってタダンルは満面の笑みを浮かべた。良い顔だった。そのあと色々考えたがレオンは自分の妻の部屋が空いているので タダンルを住まわすことにした。タダンルにまず身体を洗わせ、清潔にした。綺麗なシャツを着せ、パンツを履かせた。年齢は同じくらいかもしれない。色々話して見たがやはり言葉は通じない。それでも作業を手伝ったりするのは意欲的で、仕事をいくつか教えるのは簡単であった。農作業を特に手伝ってもらい、タダンルは非常に手慣れたように作業をしてくれた。物覚えもよく、言葉よりはこちらの方が案外楽であった。 夜に二人でワインをあけて飲んだ。最初恐る恐る口に運んでいたが、一口飲むとタダンルはとても喜んだ。シャーケン、シャーケンと笑顔で言っていたが、何を言っているかは分からなかった。たた、こうやってワインを飲む相手がいるのは久々であったので、レオンはタダンルと飲むのも良いなとしみじみ感じた。そしてタダンルに、最近妻と娘を亡くしたことを伝えた。 「妻と娘は流行りの病にかかってしまった。二人のことを心から愛していた。二人の笑顔が戻る事を神に何度も祈った。だが日に日に二人の苦しみは増した。看病をしているうちに早く死んだ方が良いとさえ思ったよ。先に娘から、そのあと妻が亡くなった。」 そう話すと、レオンの頬には涙がつたった。だが、何故かタダンルも泣いていた。話がわかったわけではあるまい。それでも伝わるものがあったのだろう。 そのあと、タダンルは席を立ち、急に何かを歌いだした。レオンが今まで聞いたことの無い音楽であったし、それに変なダンスもつけた。ダンスといっても相手のいないものだし、部族の舞いのようでもあった。両手を互い違いに上にあげたり前に出したり、足も前へ出したりくるりと回ったりと、とても軽妙であった。 「なんのダンスなのだ?上から?戻る?何が?心?」 タダンルは必死に説明してくれた。何かわからなかったが、妻と娘を亡くしたレオンの為のダンスであった。 「ははっ、ありがとう。タダンル。」 レオンもその変なダンスに参加した。タダンルは大変喜んだ。そして、レオンは一つ一つの動作を教わった。案外簡単ですぐに覚えられたので、レオンも楽しくなった。夜な夜なレオンの家からタダンルの歌う変な歌と、二人の変なダンスは軽妙なリズムで影絵になり、外の方へと流れ出ていった。この厚い雲の下で、どこまでもどこまでも。 タダンルに働いてもらい、一ヶ月ほどたったころ、遂に教会の人間がやって来た。タダンルの調査であろう。レオンには分かっていたし、ある程度のことは覚悟せざるを得なかった。 「レオンさん、彼を審査したい。彼は正統な神を信じているとは思えない。」 「神官、その通りだ。だが、そもそも彼は人売りの身だ。私はある方から譲り受けた、それ故に異端であることは仕方ない。また、言葉が通じず、神の教えを請うことがまだできない。私は丹念に彼に言葉を教え、いずれ司教のところへ行くつもりであった。」 レオンは用意していた言い訳を神官たちに話した。神官たちは前例の無いことはその場で判断できない事が多い。案の定、神官たちはその場でヒソヒソと相談をして、一度審問会にて相談をしてから来ると言い帰っていった。 「タダンル、もう、一緒にはいれない。お前のことを教会が受け入れてくれるとは思えない。だから、早くこの村を抜けて、教会の目から離れなければならい。あの東の森を抜けて川沿いに歩けば別の村に行ける。そこでなら、また暫く生きられるはずだ。」 もちろん、タダンルに意味は通じない。短い言葉ならなんとかわかるようになったが、この国の文化や信仰までは伝わらない。ただ、レオンの必死さは伝わった。 「お前は、いいやつだ。出来れば生きて欲しい。だから、な。」 そう言ったあと、厳しい顔をレオンは作り。 「出ていけ!要らない!家から、出ていけ!」 そう言って、タダンルを無理矢理外に出した。とつぜんのことでタダンルは暫く扉を叩いて、謝っていた。何度も謝ってお礼を言っていた。ひと段落したところで、レオンは奥にある鉈を持って、ドアを開けた。タダンルは目を見開いて、レオンを見た。レオンは鉈をタダンルの近くに振りおろした。びっくりしたタダンルはそのまま後ろに逃げて行った。大きな声でレオンは叫び、タダンルを脅しながら、遠ざけた。それを見てタダンルはさらに逃げた。そのまま、タダンルが居なくなるのをレオンは見届けた。 「すまない、タダンル。」 タダンルのいない部屋は物音が減り、人の温もりが消え、ほんの数日の間にあった出来事が無くなってしまったと気づいた。どうせ、神官たちはレオンの事も査問会にかけるであろう。嘘をついたわけでは無いがタダンルをおとなしく引き渡さなかったことで忠誠心を疑われてしまうであろう。レオンはどうとでもなれば良いと思うしかなかった。日が暮れて夜になり、戸締りをしに外へ出かけたら、珍しく綺麗な空で星々が瞬いていた。レオンは追い出したばかりのタダンルの事を思い、タダンルの無事を祈った。夏の星座がレオンとタダンルを見守っていると信じたかった。しかし、耳を疑うことに、タダンルのあの変な歌が夏の風に乗って届いてきた。 「何をしてるんだ、アイツは。」 多分村の広場の方である。変な歌は、忽ち周りの人たちを呼び寄せてしまった。タダンルは噴水を中心に、あの変なダンスをしている。変な歌と変なダンスに、あの笑顔。なんて事だ。タダンルには何一つ伝わってない。村人達は訝しがり、タダンルを畏怖の目で見ていた。レオンは人垣を掻き分けて、タダンルの前に出た。 「止めろ、タダンル。」 怒鳴ったが、タダンルはどこ吹く風である。それどころか、一層声を張り上げ、にこやかにダンスをするではないか。 そうこうしてる間に、後ろの方で、神官達を引っ張ってきた、村人の声が聞こえてきた。 「タダンル、もうやめて、逃げてくれ」 タダンルはそれでもやめずに、ダンスをし続けた。笑顔のままで、噴水を周り、両手を歌に合わせて、互い違いに出しながら、足は前に伸ばしたり、後ろへ伸ばしたり。こんな雰囲気でも、気にせずに軽妙に。村人達は一層怖がり、レオンは下を向いた。そうして神官の命令で、村人達にタダンルは捕まえられてしまった。 「バカなやつだ…」 なぜこんなことをするのだ。タダンルはこの事態を起こしただけで、多分、生きることは無理であろう。タダンルには、分からないのだ、異端である事がどれほどの恐怖を与えるかを。 無理矢理、連行されるタダンルはレオンに向かって、かなり不自然であったが、叫んだ。 「…戻る。人。死んだ、人。レオン。おもしろい。レオン。戻る。おもしろい。しろ。」 タダンルは笑顔のまま、レオンに言った。 「レオン。ありがとう。」 そう言ったタダンルの笑顔がレオンの心に張り付いた。あの、初めて話しかけた時の笑顔よりも強烈に。 「耳を塞ぎなさい。何も見てはいけません。この異端のモノのそれらは、我々を汚し、我々の神を冒涜しております。皆、家に帰り、祈りを捧げ、自らを清浄化しなさい。」 神官は高らかに宣言した。 レオンは下を向いたまま、歯を見せて笑顔を作った。 耳に残ってたのは、神官の声ではなく、あの変な歌だったのだから。
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