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 そうして、幾日目かの夜に、ついにたどりついた。  眼前一面に広がるのは、淡い光に照らされた暗色の雪原。  風はないが、空気は肌を刺すように冷たい。どうにか現地調達した毛皮と防寒具がなければ、おそらく五分と立ってはいられまい。  寒さに震えながら、ふと夜空を見上げると、吐いた息が白く染まった。  満天の星空。とても数え切れぬほどの大小明暗様々な星々が満ちあふれた空。  揺れる緑光。ゆらめき漂い、消えては現れ、果てなく波打つ光のカーテン。  まさかこんなところまで、北の最果てまで来ることになろうとは。  初めて見た、二度と見られなかもしれない世界を眺めながら、パンツを取り出す。  道中何度か洗いはしたが、それでも最初に比べれば汚れて傷んでいた。無理もない。いったい何度握りしめたことか。もちろん数えてはいない。  ぐっと握ると、現れた光の筋はすぐ真下、すなわち足元の地面に刺さったまま動かない。  それが意味するところは、つまり。 「女神さん」 「お疲れ様でしたぁ!」  虚空へ呼びかけると、(まばゆ)い光とともに女神が目の前へ現れた。服装はいつもと同じで肌の露出も相変わらず激しい。寒くないのだろうか。いや神様にそんなことは関係ないだろう、たぶん。 「よく頑張りましたね貴方! 貴方は数多の障害を乗り越え、無事に試練を乗り越えたのです!」  何かを聞くまでもなく、女神は口早に祝福の意を述べた。予想の通り、どうやらここが終着点らしい。光は地中を指しているのでこれから穴を掘ってくださいと言われなくて本当に良かった。  女神の言葉を聞き終えて、疲労がどっと押し寄せた。両足から力が抜け、雪の地面に腰を下ろす。  終わった。やっと終わった。長かった。実に長かった。  うなだれ、人生で最長のため息を吐く。安堵と達成感に満ちたそれは真っ白の霧となり、空気に溶けて消え去った。  そこで大事なことに気づく。もっとも重要なものがこの場に足りないではないか。 「んで、運命の女性というのはどちらに?」 「そんな人はいませんよ」 「は?」  顔色ひとつ変えずに平然と言いのける女神に、心のままの声が口から飛び出す。  きっとこの上なく間抜けな顔をしているであろう俺に、女神はニコリと微笑みかけた。  「色恋未経験の貴方なら、運命の女性という目標があればきっと頑張ると思って言ってみただけです」  ふざけるんじゃありませんよ女神さんよ。嘘ついたらいけませんって学校で習いませんでしたか。そもそも会いたいと思ってませんよ。こっちは雷とか隕石とかクジラの化物とか脅されたから仕方なしだっただけですよ。なんですか俺は神様に弄ばれたようなものですか。それはちょっとひどくないですか。もう二度と宗教の類を信じませんよ。もともと信じてませんけど。 「ただし!」  怒り悲しみ怨嗟に嘆き、その他諸々が脳内をぐるぐると周回レースをしていると、女神がぱちんと手を叩いた。 「試練を乗り越えた貴方に、ひとつだけ願いを叶えてあげましょう!」  いきなりそんなことを言い出した。 「願いって、なんでもいいんですか?」 「もちろん。神に不可能はありません」  願い、願い、願いか。  冷たき無音の地に座して考えることしばらく。 「……思いつかない」 「え?」  神様もこんな顔をするんだなぁという表情を浮かべる女神。 「ほ、本当にですか? なんでもいいんですよ?」  なんとも不思議で意外な話だが、急に願いなどと言われても思いつかないものらしい。今すぐ大金が欲しいわけでも、許せない誰かがいるわけでもない。 「だから、別にいいや」 「ああ、貴方こそまさに聖人と言えましょう」  再度断ると、よほど琴線に触れたのか、女神は感無量そのものの表情で賞賛してきた。  そのまましばらく恍惚としていたが、ふと何かを思い出したかのようにぽんと手を叩いた。 「あ、忘れるところでした。パンツを返してください」  ――台無しだよ。 「ところで、そのパンツって誰の物で?」 「決まってるじゃないですか。私の物ですよ」  女神が指をぱちりと鳴らす。神様の力なのか、古びたパンツがパッと輝き、汚れひとつない新品同様に生まれ変わる。 「ここまでずっと履いてなかったのでスース―して落ち着かなかったんですよね」  そんなことを言いながら、なんと女神はその場で裾を持ち上げようとした。 「ちょっと待った! すとっぷ!」  思わず叫ぶ。大事なところが見える直前で女神の手が止まる。 「なんです?」 「少しの間そのままで」  回れ右。いきなりの生着替えはやめていただきたい。いや見たくないわけではないんだけど。 「どうぞお履きください」  何を言っているのだろう俺は。  背後でごそごそする気配がして、履きましたという声を待って女神の方を振り返る。 「本当にお疲れ様でした。貴方の行いは神の世界で長く語り継がれるでしょう」  語り継がれて何かいいことがあるのだろうか。少しだけ運が良くなったりするのだろうか。 「それではさようなら。聖人たる貴方に幸せな未来があらんことを」  最後の別れはあっけなかった。女神の姿が光に包まれ、だんだんと薄くなっていく。  そこで気づく。  ん?  待て、さようならって?  ちょっと待った、ここでお別れ?  いやいやいやいやそれはないでしょう。ないでしょうよ。  ここまで頑張って頑張って頑張って、死ぬ気でたどり着いたんだぞ。  だから、だからさ。 「待って! 帰りは? 帰してくれるんじゃないの? まさか置き去り? あ、さっきの願いごとやっぱりお願い俺を日本に帰し――」  矢継ぎ早に放った言葉もむなしく、金色の光とともに女神はその場から消え去った。  あとに残るは白い雪景色のみ。 「あんのクソ女神いぃいいぃ!」  見渡す限りの雪原と、揺れて輝く夜空いっぱいに絶叫が響き渡った。
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