0人が本棚に入れています
本棚に追加
事の発端は、僕が空港の清掃のアルバイトをしていたときだった、このときの僕と言えばまったくもって所持金がなく、貧乏苦学生を地で行くような生活を強いられていたわけで、ゆえにその日――具体的な名前を明かせば給料日――を心底楽しみにしていたのである。
だからその日は、お金のことしか頭になかった。お金のことで頭がいっぱいだった。お金しか眼中になかった。
だからそれは、まさしく不意打ちだったと言っていい。
不意打ちで、みぞおちだった。
「がはっ」
「よーう井上! 久しぶり! ずっと待ってたんだぞ」
あなたが人生でもし空港の清掃のアルバイトをしたことがあって、そこで見知らぬ女性にいきなりみぞおちを殴られえぐられる経験をしたことがあるならば、是非ともアドバイスが欲しいところだった――そんな稀有な人材を機内放送で呼び出したいところだった。
金に染めた髪。切れ長の目。細い首。虫のネックレス。日に焼けたのか肌は褐色だ。
「あれ、大丈夫か? もしかして急所入っちゃった?」
「ぐっ……みぞおちという概念を知らんのか……!」
ん?
待て。
「井上って……どうして僕の名前を知っているんだ……ですか?」
いかんいかん。
殴られた衝撃で敬語が崩れていた。スタッフに対してもお客様に対しても、常に敬語を崩すな、と言っていた先輩を思い出す。思い出したところでその忠告自体が敬語ではないことに気付いたが、そんなことよりも敬語だ。職務怠慢は自分の沽券に、もとい給料に関わる。
こんなところで失敗は許されない。
と、顔をあげると。
「……!」
その女性は、泣いていた。
静かに。堪えるように。
「私のこと、忘れちまったのかよ……」
な。
「ええと、お名前は……?」
「もういい! 井上の馬鹿! 死んじゃえ!」
今度はつま先が飛んできた。
みぞおちには当たらずに、顎をかすめる。
そしてそこで、僕は意識を失ってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!