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明確な違和感が生まれたのは、気絶から回復したそのすぐあとだった。気絶して、そのまま病院に搬送され、骨が折れただとかそういった異常は見当たらないということで、すぐ退院になった。
まったく、知らない人に知らない約束を突き付けられて怪我までするなんて、なんて不幸だ。僕はぼやきながら病院の自動ドアをくぐろうとして、けれど、くぐれなかった。
袖を掴まれていた。
「あの……井上さん」
「ええと、ナースの土井さん……でしたっけ」
「あの日の約束、覚えていてくれていたんですね」
「昨日が初対面じゃないですか」
「……ひどい」
「え」
「あの約束を忘れるなんて、井上さんは人でなしです!」
ぱんっ……と。
はたかれた。
しかもナースに。
「もう知りません!」
「ええ……」
約束現象。
この現象は僕が家に帰っても――というか、家に帰る途中も続いた。コンビニの店員、犬の散歩をしている小学生、縁側のおばあちゃん。いずれもが僕が約束を守って会いに来たと言い張り、僕がそんな約束はした覚えがないと言うと泣きながら僕をはたくのだ。
ビンタである。
「顔がどこぞのパンヒーローみたいだぞ」
「うるへえ、ビンタのはれすひでほっぺははほっひもはれへるんはほ」
「ビンタしか聞き取れねえ」
相談相手は精神科医の矢田だった。医者の知り合いはこいつだけだったし、なによりこの症状、少なくとも皮膚科や歯科ではないだろう。
「つってもそんな症状、本当なら少なくともお前の症状ではなくて相手の女性の話だろう? 似た症状なら強迫性障害とかがあるけど、これについては思い込みによるところが多いし、このケースだと実際にビンタされているわけだしな。」
「はにはほはのほうほうははいほは?」
「まあそうだな――女性側に問題があるとすれば、ダンシングマニアとかかな――踊りが感染するというか、ある種の行動がそのまま人間間で伝播していく、いわば社会現象だ。これの約束版……ってところかな」
「はふほほはん?」
「キーポイントはそうだな、お前を見たことによって、何か約束をした気になるわけだから、お前の顔に問題があるんだろうな。それに、俺にその現象が現れないということは、この現象は女性に限定されるというわけだ。ここが一番奇妙……これ、本当に女性だけなのか? 今の時代、LGBTにも配慮がなされているわけだし、女性に見えて男性ってこともあるだろう?」
「へへほ、はんへんにほへいはっはほ」
「そう。――うーん、一番というか、突破口になりそうなのは……一度、その約束を覚えているというふりをしてみるというのはどうだ?」
「ほんほうにほれへひひほは?」
「日本語でおk」
ということで、部屋の奥から現れたのは矢田の助手の久井さんだった。
「はあ……あなたが井上さんですか、奇病にかかっているとかいう」
腫れを引かせる薬を塗ってもらった僕は、その不愛想な態度に若干圧されながらうなずく。
「ところで井上さん、あの約束は覚えていますか?」
「!」
矢田と僕との間に緊張が走る。
約束現象だ。
僕は深くうなずく。
「ああ。約束を果たそう」
「そうですか。それじゃあエジプトに行きましょう」
……なんで?
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