紫色の鳥(ししょくのとり)

1/1

0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
マーレ地区 この大都会は海に面した世界有数の都市であった。そしてその街の前には大きな入り込んだ湾がある。そこに人工島があった。この人工島にはモノレールが繋がっており、モノレールの駅が人工島のほぼ中央にあった。この駅と線路を境に南側に行政区画で複合商業地区ができる予定であった。数年前の政府のトップがこの区域に大型のカジノ付き商業地区を作り街全体を活性化させたいということで、そのような区域が決められて開発が進んだ。「インアルトマーレ」=”航海の途中”と名付けられた街になる予定であった。開発が途中まで進んだところで、行政のトップと開発担当者の間に癒着と賄賂があった事が報道されて、この開発は白紙撤回されてしまった。以来この人口島の半分の区域には工事中が万年張り出されてしまって人も寄り付かない場所となっていた。そこを人は、開発時の名前にちなんで「マーレ地区」と呼んでいた。 ●●● 月夜の晩であった。三日月が頼りなさげに街を照らしている中、ビルの屋上階を飛び回る黒い影があった。その身のこなしは人間のようには思えず、夜の街を飛び交うカラスのようにさえ見えた。しりしりと足を前に運び、屋上の手すりを掴むとその勢いで隣のビルに飛びつく。重力なんて関係が無いように、そのまま90度の地面を蹴り上げて、手を使い登り続けていた。影は黒いカラスの羽のファーを身につけて、綺麗なその脚は黒いラメ入りのタイツで覆われていた。隆々とした引き締まった筋肉が、ビルの壁を蹴り続ける。ファーの下には仕立てのいい黒いシャツに、赤いネクタイを締めていたので、走るたびにそのネクタイが揺れた。フードをかぶっているので相貌が見えないが、顎が細く、首も細かった。 笑みを携えた黒い影は、今日のターゲットの住処を見つけ、その屋上にたどり着く。右手をターゲットの住処の屋上の床にあて、お目当のターゲットを見つける。その影は彼の心と電子デバイスとインターネットとに飛び交う言葉を拾う。ターゲットはコメンテイターだ。そいつの言葉に狙いを定めた。その言葉を少しだけ変化させる。 「私は、断じてこのような一方的な暴行を許すことができません。」 〈一方的な方法で投稿をし、晒した輩は、ある意味暴力行為です。私は断じて許す事ができません。〉 シャワーを浴びて出てきたその男は、タオルで自分の体を吹きながら本日の自分の出演番組を確認する。目線、身なり、それから対応する全ての自分の動きをチェックした。どれを見ても完璧に見える。自分は役割としてあるべき姿をしていると思い、自分を見ながら、90年代のエゴンミュラーに口をつけた。冷えたエゴンミュラーが自分を透明にしてくれているようにも思えた。それから、本日の夜のエゴサーチをする。出演番組の中で、ある暴行事件に関するニュースが取り上げられた。その後に憤りを見せたシーンがあった。それは当事者が撮影した映像により出てきた暴力映像であった。衝撃的な映像であったのは作り物ではなかったからというのと、その暴行の被害が目に見えたからだ。ある意味、男からするとそれこそが本当の報道ともいえた。だから、全ての人が思っているであろうことを再度言及しておいた。被害者への意識と、世間の許すまじという気持ちを代弁している。男は自分のイメージ通りであれば、自分を称賛するリプライで覆われているはずであった。こういう後追いの言葉でも自分が発するとそれだけで価値がある。その事がまた、自分に価値をつけると、男は良くわかっていた。スマートフォンを取り上げて、見てみるといつも以上に投稿したSNSの通知数が多い。ニヤリと笑って、男がアプリを開けた。そこは赤い炎で覆われていた。 〈一方的な方法で投稿をし、晒した輩は、ある意味暴力行為です。私は断じて許す事ができません。〉 ーひどいと思います。被害者は泣き寝入りすべきだったという事ですか?ー ーどうしてそんなこと言えるんですか?報道の一旦を担うのがあなたの役回りじゃないですか?ー ーやっぱり、仮面男だったんだ。テレビと言ってる事が違うじゃないか。ー ーあなたには失望しましたー ーテレビの枠の時の顔がww本音漏れてるじゃんwwwー ー世間一般の感情を逆撫でするのうますぎるwwwー ー今回も斜め上を行きましたねwwー ーシンプルに「死ね」ー 「なんだ、これは。」 慌てて自分の書き込みを見直したが、そこには自分が書いた言葉とは意味合いが全然違う言葉になっていた。自分で編集をしていないのに。炎上だ。リプライ、リツイートが伸び続ける。すぐに出演番組のディレクターから電話がかかってきた。男は慌てて電話に出た。 「俺じゃないです。俺がこんなこと書くわけないです。え?明日の出演は体調不良にしてほしい?いや、釈明をさせてくださいよ!!!お願いします!ディレクター!!」 男の反応までを確認して、屋上の黒い影は飛び立った。この場所に来た時とは逆の方向に飛び立つ。この街であれば、どこからでもたどり着けて、どこへでも消えれるかのような自信が垣間見えた。黒い影が翻るとふわりとさす、甘い香りが夜の街を色づけた。 ●●● 遠くでウミネコが海の中の魚を探して飛び回っていた。その白い軌跡を目で追う女がマーレ地区の先の埠頭にちょこんと座っていた。足をぶらぶらさせて、口に挟んだアタリメが、女が噛むごとにひょこひょこと動いていた。マーレ地区は人の出入りがほぼない。さらに人工島の先の埠頭となれば奥深く、ウミネコぐらいしか居ないであろう。そこに一人の女が座っている風景は、写実画とは違い抽象画のような景色ともいえた。夏も中頃だった。太陽の照りつけが厳しく、女の顔からひやりと汗が流れ出ていた。その汗が伝って、顎下にたまり、首筋に消えた。細い首元が顕らになっていた。 女は小さな身体というよりは引き締まって余計なモノがそぎ落とされたと言うべきで、黒髪と黒目の女性であった。服装は貧相で、タンクトップに使い古したジーパンを自前で切りホットパンツにしている。浅黒い肌で日焼けをしてはいるが、綺麗な肌質の女性であった。目は切れ長で、まつげが長く、眉は細いがしっかりと生えており、唇がほんの少し厚い女性であった。化粧をしていないせいで随分と若く見える。 「よお。暑いなカラス。そんなとこにいたら熱中症になっちまうぞ。」 後ろから、ゆっくりと近づいてきた男が女に言った。 男は30代ぐらいに見えた。この暑い真夏に草臥れた灰色のセミフォーマルなジャケットを羽織って、白いパンツに茶色の革靴といったいでたちであった。カンカン帽を被り、口ひげを蓄えている。長い髪の毛を後ろで縛っているせいで若くも見えた。 「おっさん。遅いぞ。てか、ぼくの熱中症のことをきにするんだったら、もっと早く金を持ってこいよ。」 そう言われて男は、頭にかぶった帽子に手を当てた。 「俺たちみたいな下っ端に金が渡るには随分といろんなところを経由しないといけないんだよ。まあ、そう言うな。ほれ、これが前回までの3回分だよ。」 男は茶封筒をカラスと呼んだ女に渡した。中身を確認して、折りたたんでホットパンツの後ろのポケットに捻じりこませた。 「まあ、端金だねぇ。それでも、もらうのって嬉しいね。」 咥えていたあたりめを全て口の中に入れて、カラスは男を見上げて言った。 「あと、これ昨日のコメンテーターのまとめニュースだ。派手に燃えてるぞ。」 「おお、笑えるね。本当に他人ってのはどうしようもないな。」 カラスは嬉しそうに自分の燃やした相手の惨事をみていた。 女はカラスという。年齢は不詳だが、随分と若い。カラスは、文字を操ることができる。すでに書き起こされたものであれば、なんでもである。ただいくつか条件が重ならなければならないこともあり、普段から発揮できるような代物ではない。そんな限定的な能力など日常生活に役立つわけでもなく、親もいないこともあり、このマーレ地区で捨て猫のような生活をしていた。その時、この男がその能力に目をつけて拾ったのだ。以来、男が仕事をもらってきて、カラスが仕事をこなすという関係にまでなった。あるときはインスタ女王の言葉を変えて、あるときは小説の一文を変えて、あるときは政治家の失言を作ったりとカラスはこの街の主人公たちを貶めた。とはいえ、そのあと彼等がどうなったのかや、これがどういう目的で行われているかなどはカラスの知る所以では無い。ただ、カラスは飛び立ち、ついばむだけである。 「あーあっちぃなー。ずっと夜ならいいのにな。」 カラスは伸びをした。タンクトップを着ているが下着をつけていないため、まだ発達が追いついていない乳房が横から見えた。 「おっさん、見たろ?」 「知らん。」 「なあ、また夜に来いよ。」 「仕事がなければ会わない方がいい。それは以前も言っただろう?」 「とはいえ、たまには若い女のカラダを貪りたいだろ?本当は?」 「そんなもん、どうとでもなる。」 「どうとでもって、またお金のかかる店にでも行くのか?勿体無いぞ、ほれ?ほれほれ?」 カラスは男に擦り寄り、足を絡ませた。頬を肩口に乗せて、背中に左手をあて、胸に右手の指を走らせた。口元をあげ、首に鼻先をあて、息が耳にかかるほどの距離で囁いた。「いいじゃん。」そのまま右手は下へ下へと降りていった。股間部の上で指のスピードが遅くなり始めていた。 すると男が翻り、左手を掴んだ。 「悪いな、財布は持たない主義でな。でもこれはこれで渡せないんだ。」 カラスの左手の指先には男のハンカチが掴まれていた。 「汗かきでな。」 そう言って、ハンカチをさっと取った。 「ちぇ、ガードがお堅いこと。どうやって此処まで来たんだよ。いい大人が財布のひとつぐらい持ち合わせてないと急場に困るぞ。」 「そういう、急場が訪れないようにする主義なんだよ。」 「つまんないなー。」 幼い声が響いた。カラスは手を後ろで組んで、埠頭のヘリにたった。背伸びをして、空気を吸い込んだ。潮の匂いのする、そして少しばかり臭い夏の味がした。 「カラスお題を貰ってきた。受けるか?」 肩口まである髪を、耳にかけて、カラス少しだけ顔を男に向けてニヤリとした。男はそのままお題を口にした。 ●●● カラスの住処は、工事現場によくあるプレハブの一時事務所である。そこは工事現場の前線基地のような場所で、計画を進めるために日夜人が寝泊りをしていた。しかし、開発がストップして以降、誰も寄り付かないま放っておかれたので、カラスが利用するようになった。備え付けのソファーに沈み、男からもらった資料を見上げる。資料のなかにはスポーツ新聞の切り抜きもあり、政治家と結婚を発表した女性が写っていた。名前は芦屋・イザベラ・天音(あまね)だ。プロフィールはイタリア人の母と日本人の父とのハーフで、帰国子女、大学時代にミスキャンパス、局の夜のニュースキャスターを経て、フリーアナウンサーに転身。結婚相手は新進気鋭の若手政治家であった。イザベラは少し上向きの鼻、黒く縁取りされた大きな瞳、唇の厚さは程よく上品で、長い髪を綺麗に纏めてアップしている。笑う時に必ず手でさりげなく口元を隠す。姿勢が綺麗なのはアナウンサーとしての賜物かもしれない。何事にも努力を惜しまないタイプであった。 「まあ、こんな風に生きてても、世の理で私なんかの獲物になるわけだ。不公平だな。」 ポテチをかじりながら、カラスは脂と塩のついた指で写真と資料をめくった。近くにあるホワイトボードに横軸を書き、時間を作る。縦書きに曜日をいれて資料を片手に線を書き入れた。カラスはイザベラの行動予定を週間で特定していく。いくつかの番組や、ツイッターの予告などを使ってさらに詳細な内容をホワイトボードの開いた空間に書き記していく。 「ははっ。火曜と日曜は家にいるな。」 赤い丸で、家にいる時間と曜日を特定した。カラスの能力は不思議で、そのターゲットの心情が一番緩やかな時にしか、文字を変えることはできない。文字とは言霊だ。発した人間にしか変える権利はない。しかしまた、言霊に宿るものもある。その二つのチカラの引っ張り合いを使って、カラスは文字を操れる。だから、発言者の魂が一番休まってる時を狙うのだ。 そうして、カラスは日取りを決めた。カラスは仕事日を男には伝えない。これは、カラスと男の間での暗黙のルールである。だが、仕事が完了した翌日にはどこから確認したのか男から必ずアクションがある。どうにかして、カラスの仕事を嗅ぎ分けているのだ。カラスにとっては連絡を取らなくて済むので楽であった。 仕事の日取りを決めて、カラスは外に出た。 カラスの住むマーレ地区に横たわる海は、汚い海である。街の中心地にある海だ。どうしても都会の汚染を受けてしまう。青い色の海などは、遠くの世界にしか無いのである。しかし、カラスはこの海が好きだ。時折茶色に染まってしまうこの海が。 ザバーンと、埠頭の先からカラスは海の中に身を落とした。塩のベタベタと、ヘドロの悪臭が、体にまとわりついた。それでも海は海だ。冷たくて気持ちが良い。カラスはなるべく暇を見つけては海を泳ぐようにしている。夏の間の習慣とも言える。この海を泳ぎ、体力と耐力を鍛えている。クロールで泳ぎ、岸から離れていく。ある程度行くと、自分のいた岸に戻るようにしている。海の波はカラスのクロールをまっすぐには進めさせてくれない。都会の中にあるプールなどと違い、いつも表情が違う。カラスはそれが好きであった。潮の香りと自然の厳しさ。人間が吐き出す汚物と、それに抗う浄化の力。彼女は力を込めて水を掻いた。体が少し前に進み、波が当たった。 ●●● この人工島は二つの大きな地区に別れている。駅を挟んで南側が開発予定地のままのマーレ地区。そして反対サイドの北側は繁華街や、高級マンションの立ち並ぶ「ノーデルポート」と呼ばれていた。カラスは自分の住処に水も電気もひいてはいない。うまくやる方法がないわけでもないが、公共機関と関わりを持つようなことはなるべくしないようにしていた。どうしても質の良い部屋で休眠を取るべきであれば、街で数人を引っかければなんとかホテルには有り付ける。若いという事は、いいものであった。とはいえ、普段の生活でもシャワーを浴びたい。そこで、行きつけのシャワールームとして利用しているところがあった。 駅を出て繁華街に向かい、脇道を入り、少し奥まったところに雑居ビルがある。そのビルには螺旋階段がはみ出している。裏のゴミ置場を乗り越えれば、簡単に螺旋階段を登り始められる。そこの3階にカラスが辿り着くと、海を上がったままのずぶ濡れでドアを叩いた。中から体の大きな男が顔だけを出して、だるそうな顔をしたまま、くいっと顎を動かして、カラスを中に入れた。 「くっせー、早くシャワーいけよ。」 「へへ、助かるね。」 そう言って、カラスは『トントン漫画』という漫画喫茶のシャワー室に入っていった。ここはカラスが行きつけにしている、漫画喫茶だ。いや入り浸っているというべきかもしれない。さっき、カラスを社員通用口から、中に入れてくれた男が店長である。だがバイトでもある。その男をカラスは豚と呼んでいる。見た目通りなのと、その性格を表している。「トントン漫画」はこの周辺の街にしかなく、数店舗しか店舗展開をしていない漫画喫茶である。他の大手チェーン店と違い、清潔感などほとんどない。タバコも吸い放題で、そこらじゅうにタバコの匂いとヤニの黄ばみが染みついている。雑居ビルの外に小さく看板が出ているだけで、どうも営業を広告しているようには思えない。漫画喫茶は今でこそ、一般の人も利用するような設備の整ったものであるが、昔は社会を弾かれた心の弱い人間がこそこそと行く場所であった。漫画喫茶の黎明期からある、この『トントン漫画』は人目を引くことはあまりしたくないのである。それが矜持というものだと、豚がメガネの淵に手をかけて言っていたことがあった。本当にそうなのかというと、怪しいものがある。 「ふー、スッキリした。」 カラスがシャワーを浴びて、バスタオルを巻いて出てきた。 「お前、家じゃないんだから、そういう格好するなよ。」 豚は、置いてあったTシャツをカラスに投げた。数年前に用意した、店のキャンペーン用のTシャツであった。一番サイズの大きいXLが余りに余ってしまったので、ダンボールに積んで置いてあるのだ。カラスはそれを知っているので、いつも着替えを用意せずにくる。その大きいTシャツであれば、すっぽり自分の下半身まで収まるのだ。 「いいじゃん。豚。役得だろ?生肌なんか有り付けないんだから。」 「お前の貧乳じゃ、満足できないんだよ。」 「何だ、本気出したら、すぐに勃起したくせに。」 最初、カラスはここを使わせてもらう代わりに豚と寝た。豚は見た目通り、童貞だったので簡単に陥落できた。シャワーの代わりに一回、やらせてやれば、言うことを聞いてくれるので扱い易く、以後うまく利用できるようになった。それ以後は、なぜか恥じらいを見せるようになった豚は、カラスに手を出すような事はしなくなった。カラスにとっては有難い存在になった。恋でもしてるのかもしれない。かわいそうにと、カラスは思っていた。 「お前さ、なんか仕事したら?そんなその日暮らしじゃ、やってけないだろ?」 「まあ、何とかなるからこうやって生きてるんだよ。」 豚はカラスの仕事を知らない。そこらの家出少女と同じように見ているのかもしれない。 「何なら、うちで働けばいいじゃん。そうしたら、毎日シャワー使えるじゃんか。」 豚がさりげなく自分の願望を差し込んできたが、カラスは無視した。豚との距離感はこれぐらいがいいと感じていた。数時間だけの幸せなど、瑣末な泡である。消えてしまうということが、豚には分からない。もっと凶暴なものがこの世界にはある。社会の構造は小さい頃の自由研究で出てきたペットボトルの濾過装置のようである。いろんな層の人間たちの間を抜けて、泥水がやがて綺麗になっていき、飲めるような綺麗な水になる。それが幸せだ。だから、豚が一瞬でも思うようなこの階層の幸せは、本当はまだ何も濾過されていない泥水だ。 「いつもありがとな。」 そう言って、まだ乾いてない髪のまま、豚の頭を撫でてやった。豚は手を払いながら、早く行けと促した。 ●●● カラスは数日は普通の日のように過ごし、海と『トントン漫画』の間を行き来した。仕事の日の夜、カラスは下着姿のまま倒立をしていた。引き締まった腕の筋肉、体幹の強い腹筋と背筋。自分の調子を確認するためでもあり、ルーチンの一つでもあった。ふっと息を吐き、そのまま飛ぶように体を元に反転させて、地面に足をつけて立ち上がる。カラスは全身鏡の前に立つ。Computer Magicの「Running」が鳴り響いていた。息を吐き、呼吸により酸素が充満する筋肉たち。カラスの体にリズムが生まれる。目の黒目がより黒くなっていく。 カラスは両手に黒いオペラグローブをつけて、タイツをはいた。いつもの黒いシャツに腕を通し、赤いネクタイを締めて、opiumuを振りまいた。イブサンローランの一目惚れした印籠のボトルからでる香りは、オリエンタルで、マンダリンとベルガモットの香りがすぐに鼻腔を刺激した。甘いが芯のある香りがする。身体の中の野性味が、逆撫でされるような、血肉が駆け踊るような感覚になる。これが私のシグネチャーセント。と、カラスは思う。いつものカラス羽のファーを羽織って、カラスは地面を蹴った。 イザベラが住む界隈は都心ではあるが、静かな高級住宅街である。一軒家も多く立ち並び、夜になると窓の灯が消える。先日のコメンテイターが住んでいる地域とは違い、品の良さを感じた。彼女が住むマンションはガーデンフォレストというだけあって、緑が多く茂っていた。街灯は夜道を照すためのもので、寝る時間を阻むような光の強さや配置ではなかったため暗闇が多かった。その暗闇を踏むようにカラスは木から木を飛び交い、彼女の住む18階のマンションのそばににじり寄った。エントランスが見える位置にカラスは陣取り、タクシーの降り口を注視した。 イザベラが帰宅した。ネイビーのドットチュールレースのワンピースに黒いパンプスをはき、プラダのサングラスをかけて、タクシーから降り立った。ふわっと、カラスの鼻腔にスパイシーなアンダーグロースとベチバーが溶け合った香りがした。ゲランのミツコだ。日露戦争を舞台にした物語のヒロインの香りかと、苦笑をするカラスであった。彼女が確実にエレベーターで上層階の自分の家を目指したことを確認し、カラスは彼女の家の近くに行けるようにマンションに飛び移り、まるで地上を歩くように、両手と足をうまく使い壁を登り切っていく。屋上の手すりに手をかけて、ゆっくりと確認をする。人の気配はない。重力が正しい平面に足をつけ、カラスは月光を浴びた。そのまま、包まるように小さくうずくまり、イザベラの魂を探す。思っていた通り、彼女の光はとても強くすぐに見つけられる。依頼されてしまうターゲットはその正悪に関わらず、大体このように力強いものであった。だが、イザベラはその中でもピカイチであった。この魂の揺らぎが大きい時は活発なときで、それが小さくなった時が狙い目である。それを静かにカラスは待った。イザベラが入浴などを済ました。就寝の時間が近くなったのであろう、彼女の魂の揺らぎは小さくなった。見計らって、この瞬間にカラスは彼女の言葉を集める。あらゆる言葉の中で一番変わるべきでない言葉を見つけられる。その言葉こそ、言霊のある言葉だ。これを彼女の魂が弱い時に啄めば、形が変わり、意味を無くすのだ。 「今日は私にとって大切な日になりました。 今まではこの日の為にあったのではないかと思えるほど。 素晴らしい日。 ありがとう。 みんな。 愛しているよ。」 〈大切なのは『今日』のみよ。 今までの全ては『今日』への犠牲だわ。 素晴らしい『今日』。 さようなら。 みんな。〉 啄んだのは彼女のインスタグラムの言葉だった。今日は何か特別なイベントの日だったのかもしれない。彼女は祝われていた。満面の笑みを画面に向けて、感謝を表していた。その言葉が、否定を内包する言葉に変わる。全ての昨日を否定する。 カラスは本来の言葉を抉り、引っ張り、引きちぎる、そして彼女の言葉を変える。カラスの心が震える。この瞬間にくるダイナミックなエネルギー激流の感触がわかるものなどいない。言葉は本来のあるべき姿を失うのだ。カラスはまさに命を毟り取り、喰らったのである。カラスはこれを浴びることが堪らないのだ。いつものように、瞳は悦に入り、自分の全身の肌が粟立ち、身体の芯が熱くなるのを感じていた。妖艶そのものへとカラスは変わるのだ。そのまま、興奮を体に納めてカラスが飛び立とうとした時、ほんの少しだが、イザベラの魂の色が変わった気がした。だが、仕事は終わりである。あまり気にしても詮無いことだ。カラスは夜の街へ羽ばたいた。 ●●● 翌日、喉が乾いて起きた。常温にして保管している箱詰めのミネラルウォーターを取り出して水口にくちをつけた。渇きを潤し、胃に流し込んだ。それから、朝の日課であるストレッチをこなした。首、腕、肩、膝、股の筋とあらゆるところを丹念に伸ばす。昨日の夜の仕事上がりである、入念にしておかなければならない。呼吸を深くとり、身体との会話を進める。どこかに”誤り”がないか。このような仕事をするものは自分の身体が一番大事であるとよくわかっている。メンテナンスを怠り、それが原因でミスがあれば命に関わる。一度限りの仕事になることが多い。失敗をすれば、最悪殺されることもあり得るのだ。 カラスは朝食を適当にとり、外を歩いた。風を感じて、そろそろ夏の終わりの足音を聞く。カラスはどちらかといえば夏の方が好きであった。うだるような暑さは困るが、目の前が海であるという利点はある。しかし、寒さは手の施しようがない。体脂肪率が低く保温効果が望めないのもいただけない。これからくる寒さに、少しだけ憂鬱な思いを馳せた。どうせなら、鎖がないのなら、違う国にでも行ってみたいと、ほんのちょっぴり潮の香りほどカラスは思ったのだった。 カラスはこの能力を手に入れてこの闇の中での仕事が良く分かるようになった。暴力、策略、誹謗中傷。表の仕事は全てが慄然としているが、こちらのサイドの仕事は結果を得ることが重要だった。その仕事を頼む口 は、多種多様であった。だから、カラスのような特殊な能力であろうが、結果さえ手に入るのであればクライアントはどんな手口なのか気にならないのだ。だが、この仕事をするようになってから、カラスは常に比較される対象がいた。それは十数年前に活躍した「ハシブト」という女だ。ハシブトはカラスと違い人のイメージを喰らう。相手を傷つけることなく、イメージだけを啄むのだ。気づけばその人間の社会的な生死が決まっていた。残るのは肉塊のみになるのだ。ハシブトは闇の世界から光の舞台の人間を引きずり下ろすのだ。その姿に憧れてもいた。舞台の上に立てる人間は限られている。だから、舞台の傍に近寄れば、すぐにその闇に飲まれてしまうのだ。その一端を、ハシブトは羽をはためかせ、かっさらっていくのだ。イメージがいかにその舞台の人間に重要なのかが分かる。ハシブトが引きずりおろした人間は表の舞台に立つことは二度となかった。ハシブトの存在を知ってはいても、誰もハシブトの姿を見ることはできなかった。巧妙に姿を隠しながらその悪名を轟かしたのだ。彼女は秘密の存在として君臨した。ただ、お腹のあたりに二枚のカラスの羽が刺青で入っていたそうだ。その刺青をもってして、カラスを連想する為、比較されるようになったのだという。カラスが仕事を始めたころには、ぱったりと名前は聞かなくなり、そうして闇の中に溶けていった。遠くの雨雲の灰色をみながら、カラスはふとそんなことを思い出していた。 あれから、2日たったが、男からの連絡がない。カラスは自分で仕事の状況がどうなっているかを気にすることも、探す方法も特にない。いつも翌日には男が現れて、どうなったかを教えてくれる。それに普段からあまり文字の近くに寄らないようにしているというのもある。だから、これほどまでに報告に時間がかかるという事は、何かがあったのだと予見できる。カラスはどこかで自分がミスをおかしたのだと思った。しかし、文字を確実に変えた事は、自分にしか分からない形で良く分かる。となると、変えた文字にクライアントが納得できるような貶める力が足りなかったようだ。そう、カラスは思った。 ようやく男が現れたのはそれからさらに1日が経った夜であった。最近は滅多に近づかなくなった事務所に直接男は訪れた。ぬぼっと表れた男は不吉を身にまとっていた。 ●●● 「カラス、失敗したようだ。」 男は珍しく焦りを見せていた。 「まあ、そうなるな。しかしぼくがミスをしたとは思えない。しっかりとターゲットの言霊は変えている。」 「それは分かった。しかし、想定以下の嘲りだったのだ。これじゃ、何も無かったのと同じだ。」 そう言って、男はカラスが変更したインスタグラムの記事を見せてくれた。それを見たカラスは目を見開いた。カラスの言葉はそのままだったのだ。だがしかし、イザベラの写真がほんの少し変わっていたのだ。わずかだが、顔の角度が違う。いや顔の表情も。衣装や、背景が同じなのである。カラスの言葉を変えたときはイザベラの表情はカメラ目線で笑顔であった。しかし今は横を見つめ、ほんの少しだけ顔を伏せ、目を閉じ始めているかのような表情になっていた。これでは、変えた言葉の意図が変わってしまう。 〈大切なのは『今日』のみよ。 今までの全ては『今日』への犠牲だわ。 素晴らしい『今日』。 さようなら。 みんな。〉 これでは、イザベラは、詩を詠んでいるように見える。笑顔で毒を出していたはずが、顔を伏せて、言葉を使い、イメージの暗い広がりを見せている。まるで、今日を祝うのが哀しいかのように。いや、今日を切実としているかのように。 「これは、ぼくの情報が洩れてないか?対策がなされている。おっさん、脇が甘いところからの依頼じゃないの?これってぼくのせい?」 カラスは思わず、男を睨みつけた。写真を差し替えられてる上に、すでに用意されていたというのが釈然としない。 「クライアントの諸事情なんてのが俺みたいな下っ端のところに伝わるわけがないだろう。期待値と結果が常に一緒のやつらが俺らの仕事相手だからな。仮にそうだとしても結果が必要だ。俺もずいぶんと奔走して、期間の延長ということで話をつけてきた。もう一度やってくれ。」 「ちっ、泥がついたな。看板に。やになるぜ。まったく。」 カラスは純粋な怒りが沸き起こった。仕事の失敗ならいいが、これは相手がこちらの仕掛ける内容が分かっている対策だった。イザベラの近くには、カラスの仕事を知るほどの人間が居るのだろう。同じ穴の狢だろう。そいつは、カラスの能力をせいぜい言葉を変えるだけの能力と思っているのだろう。そんなものではない。そういう力ではないことを、思い知らせてやると思った。言葉は人を操る。 そうやって事務所の角を睨み付けていたら、はたと気がづく。相手はこちらの行動時間まで筒抜けなのではと思う。目の前の男の表情を読み取る。どちらだろうか。 「ぼくの仕事をする日は、今週の末日にするよ。ね、焦る必要はない。」 「馬鹿言うな。期日を作ったと言ったが、それじゃあ、ギリギリすぎる。」 「だって、すぐに動けば良いってもんじゃないじゃん。」 と嘯きなら、カラスは男の顔を凝視した。男の表情の真意を知りたくて、嘘をついているのかどうかを知りたくて。だが、焦りは当然のようにも見えたし、思惑と違ったからとも言える。この男を信用するに値しない事は、カラスが一番身にしみていた。日取りの情報がバレるとしたら、男以外に無いだろう。が、男がばらしたのか、男が見切られているのか。それは分からない。いずれにしても隠せないのであれば、それを利用するより他はない。 「とりあえず、次こそ頼む。」 話を切り上げるように、男は背を向けて帰ろうとした。カラスは男の手を握り、帰らないで欲しいと訴えた。弱々しいカラスの姿は男がカラスを拾ったときと同じであっただろう。こっそり耳元で男の名前を呼んだ。そのまま、「●●●、私、死んでしまわない?」と口から零してみた。男はカラスに大丈夫だと伝えたが、手を放さなかった。小さな子と同じように、カラスを抱えて男がソファーへ連れて行った。泣き止まない子供は寝かせつけるに限るのだと言わんばかりに。固い背中に手を回して、カラスは首元に唇を当てた。 「ねえ、どうせなら。あなたと一緒がいい。」 カラスは別に嘘は言ってない。 ●●● 男がカラスの身体を包む。大きな身体で、引き締まっていた身体で。背中は広く、手を伸ばしても後ろで結ぶ事など出来なかった。だから、掴まりたくてもどこにも掴まることなどできないでいる。男の吐息を聴きながら、昔の事を思い出していた。 男が話していた。 「カラスの雄と雌は、見た目じゃ人間にはわからない。だから、捕まえてDNA鑑定をしなければならないらしい。たが、そうだとするとカラス同士は困る。カラスには違いが分かるらしい。人間には見えない色がついてる。雌のカラスは紫色なんだ。」 それが、何を意味するのかは分からなかった。ただ、あの時も、こうして腕の中にいたのだろう。そうして、やはり掴む場所のない大きな背中に困っていたのだろう。 ●●● 男が寝静まった。身体に寄り添いながら、カラスは目を覚ました。胸板のうえに自分の手を重ね、男の鼓動と寝息を感じる。数年ぶりかもしれないこの男との情事だった。だが、男はカラスに体温以上の温度を感じなかったかもしれない。それでも昔この男にすべてを預けていたことを思い出してしまった。それが女というものだろうか。それとも、男がカラスを本当に抱いたのだろうか。この男の気持ちはいつも分からないでいた。ただ、今はその感傷に浸れない。 せっかく寝付いたのだ。起こさないように、寝具からすり抜けて、身体の芯に残る男のモノを取り払った。空洞になる。穴がなかなか閉まらないような、奥の方にはまだ感触が残る。それを少しだけジャンプして筋肉を呼び覚まし、「柔らかい」をすべてを身体から追い出した。今晩、カラスは飛ぶことにした。 「それでも、だったのならば。good-byだね。」 男を見ながら、カラスは呟く。そのまま、暗闇に溶けていった。 ●●● その日も、カラスは間違いなくイザベラの言葉を変えた。だが、またそれを躱された。雑誌の文字を変えたが、雑誌の発売を延期された。紙面で踊る文字を変えたが、それ以上のニュースソースが出てきた。男が情報源でありそうであったが、そばにおいても遠くにおいても確実にこちらの日取りがバレている気がする。またその対処も早すぎる気がする。これは一体なんなのだろうか。正直、イザベラを突き落としたい欲求と、このままのイザベラであるべきという対抗相手との引っ張り合いにしてはあまりにコストが高すぎる気がする。 だが、それとは別に男は失敗が分かるたびにカラスの住処を訪れ、憔悴し、焦りをカラスにぶつけてきた。カラスは自分の不手際ではないことを理解していたので、聞く耳を持たなかった。だが、確かに期限が近付いている。 この仕事は男やカラスに関係ないところで力が衝突している。 もはや手を引くべきかもしれない。 男を覗いて見たが、カラスの気持ちにさえ気づけなかった。 カラスは、決心をした。 イザベラに直接会ってやる。 ●●● いつもと同じように、カラスは黒いオペラグローブをつけて、カラスの羽のファーを纏いopiumuを振り撒いた。そして闇夜を駆けて、イザベラの家のバルコニーに降り立った。このまま、あの女に直接的に言葉を投げかけてやる。だが、思いもよらず窓のカーテンは開きっぱなしであった。そして、カラスの前に対峙するように、イザベラが窓際で待っていた。 「ああ、会えたわね。芦屋・イザベラ・天音。」 「あなた、、、は?」 イザベラは口元に手を当てて、驚愕の表情を作っていた。 イザベラの家のバルコニーからは、遠く都会の中心部の光のタワーが見え隠れする。近場は黒い森が支えていた。木々がカサカサと音を立てて、それ以外は夏の虫の音がかすかに聞こえるほどであった。風が通り過ぎるたびに、カラスのファーが揺れる。静けさはそのまま、本来のこの異常なはずの対峙をむしろ二人きりにさせてくれている気もした。 カラスとイザベラはお互いの目を見つめ合っていた。バルコニーの窓は大きく、お互いに全身を見合うことができる。ガラス窓を挟んで対峙しているのに、全身鏡でお互いをみているかのように錯覚した。微かに、カラスの鼻にミステリアスでまろかやか香りが感じられた。わずかながら、イザベラのミツコが漏れ出ているのかもしれない。 「ぼくは、カラスだ。人の言葉を変えることが出来る。今までのことはぼくがした。イザベラ、あなたの言葉に呪いをかける。一生分、ぼくが変え続けてやるよ。」 カラスは威嚇をしたかった。この女は言葉に呪われればいいと思う。どうせ、カラスが何かをしてもイザベラを守る誰かがいるのだろうから。この女にカラスの姿など見られても意味はない。もはや対象ではないのだろうから。 「ふふっははははははっ。なにそれ、一生分?随分気前がいいわね。」 イザベラはカラスを見ながら意地悪く笑った。 先ほどまで手を当てていたはずの口元が下品に大きく開いた。 「カラスさん。があがががが!!っがががが!!!」 イザベラは笑いすぎて、変な声が出ていた。それは、とても人間の声とは言えないものであった。カラスはそれでも睨みつける。だんだん、もやがかかっていたことが、やっと見えるようになってきたからだ。 「があ、がががががっ!あなだの言葉ば私の言葉がががががっがが! でもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでも。 私のイメージが勝手に全ての言葉なんかかっさらうだけよ。がががががっがが 私はイメージに愛されて、カゴからでれないの。がががががっがががががががっがが。 だから、『あなたが』私を飛び立たせてくれよぉぉぉぉぉ!! 依頼したのは誰だと思ってんの!!! 政治家のあの男を貶めるため? 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う ち・が・う! 私が、私が、わ・た・し・が!!! 依頼したのよ、あなたを私の前に引きずり出したくて。」 イザベラは舌なめずりして、叫んでいた。もはやそこに表の舞台に立っているはずのイザベラはいなかった。それから急に衣服を剥いで毟り取った。薄い布で覆われていたイザベラがそれを破り出たかのようであった。イザベラの脇腹にはカラスの羽の2枚の刺青があった。イザベラはハシブトだった。 「があ、がががががっ!お前。ナワバリ意識がないのか!があ、がががががっ」 ハシブトのそれは、本当の動物の威嚇だ。カラスは、敵愾心をそのままぶつけられたせいで、恐怖が足元から登ってきた。暗い嘴をハラワタに突きつけられているのだ。腸が縮んだ。 「私の、この姿を。があ、がががががっ。見たものは居なくなって欲しい。欲しいいい。」 ハシブトがそういうと、イザベラだった顔が崩れ落ちていった。表情という化粧を落とすと、ハシブトのそれは、顔なんかではなかった。黒い塊に見えた。カラスは後ずさりをしてしまった。 「ががががっっがあああああ。お前、帰る場所でもあるつもり?そんなものない。あの男だって、変わり映えのないただのヒトだぁぁぁぁぁぁ。ヒトなんか喰い散らかすべきだ。全部。全部。全部!そ・ん・な・こ・とより。お前、私の傍に来いよ。そうすれば殺さない。ずっと傍で足元に置いてやるよぉぉ!」 そうして、バルコニーの窓にハシブトは手をかけてきた。 もはや直立二足歩行が奇妙に見えるほど、人間とは言い切れない動きだった。 だが、同時に、カラスは気づく。 こんなにも分厚いガラス越しになぜ会話が成立していたのか。 今まさに、カラスはハシブトのイメージの中に取り込まれているんだと知った。 一刻も早くこの場を離れるべきだと思った。 カラスの身体の奥底が冷たいもので凍りつく。 カラスは、振り向かず、そのままバルコニーから飛び降りた。 「私は、光るものを獲物にしたのではなかった。真っ暗な闇に狙われてたんだ。」 上空で二羽のカラスが、争い、一羽のカラスの爪がもう片方のカラスの体に食いこんでいた。 ●●● カラスが逃げ、自分の住処に戻ると、男の死体が転がっていた。 やっと、逃げてきたのに、面倒なものがあるなと、カラスは思った。 良く良く考えれば、ここが身バレしているのは当たり前だった。 ハシブトの言う通り、逃げ場所などないのかもしれない。 カラスは自分の体が久々に震えていることに気づく。 恐怖など。 噛み殺してきたはずなのに。 なにも言わない男の死体に、やけに腹が立ってきた。 「何を勝手に殺されてるのよ。」 カラスは、冷たくそうはなった。 カラスは、蹲り、その場で小さくなった。 もう、ずっとしたかったことなのかもしれない。 諦めるように、小さくなればもう終わるのだと思えた。 カラスが小さなころ、自分の父親がこのマーレ地区の開発担当者であった。 世間は壮大な企画に対して猜疑心を抱いて見ていた。 こんな計画などとん挫すればいいと父は家で言っていた。 そんな風に、思っていることと世間体で違うことをするのが普通などと思わなかった。 カラスは、自分の能力を使って、父と、その政治家の言葉を変えた。 誰もが喜ぶと思ったら、賄賂の疑義をかけられ、責任を追求され、父は自殺し、家族は離散した。 政治家はこの世から消えた。 そして、このマーレ地区が中途半端に残った。 カラスはどうすべきだったのか未だに分からなかった。もしもあの時、変なことをしなければ、そうであれば良かったのだろうか?家族は離散せずに、カラスは普通の学生のように生きて行けたのだろうか。 その疑問に答えはない。 ただ、この状況下であれば もう、カラスは無理をして生きなくて良いのだと思った。 もう、無理をせずに。 目を瞑った。 ●●● いつもよりも早く目が覚めた感覚がカラスにはあった。朝の時間の空気が少しずつ冷えてきているからだ。そして、昨日から何一つ変わらない格好で目が覚めたということは、生き残っていたということだと思った。 それから、男の死体のことを思い出し、昨日のまま無様に倒れているのを確認した。蘇って、カラスを一思いにどこかへ連れ去ってくれればいいのになどと、今更ながら思った。それでもこのまま放っておくとすぐに騒ぎになる。自分の寝床にあった冬用の寝袋を取り出し、カラスは男を入れて遺棄することにした。重いもので海の底に沈めておくしかない。ごろりと、男を転がして寝袋に入れたとき、大層大事に胸の前に何かを抱えている。乙女のようにも見えた。どうせ家族の写真か何かかもしれないが、後生大事にしているので気になった。男の手にはパスポートがあった。 「何これ、ぼくじゃん。」 どうやら、男は逃げる算段をしていたのだろう。カラスと一緒に逃げるつもりだったのか、自分の分まで用意していた。 「バカじゃん。」 男を寝袋に詰めて、周りにどうでもいい重いものを入れた。寝袋が破ければすぐに浮上する。それから、カラスの仕事をするときの普段着もそこへ入れて、opiumuをぶちまけて瓶ごと放り込んだ。香りが充満する。 ズルズルと、男の死体を運んで埠頭の先から投げ入れた。ドボンと大きめのものが落ちた音がして、そのまま汚い海の底へしばらく潜ってくれた。数日は眠ったままだろう。 「どう?●●●?ぼくの中気持ちいい??」 本当の名前じゃないと、カラスは思っていた。そんな危険な事を男がするわけがないと思い込んでいた。だが、パスポートに書いてある名前は、何度かカラスが抱かれながらに呼んでいた名前と同じであった。 ほんの少しだけの気泡が、海中から上がってきた。 ポツリポツリと。 それが、彼からの答えのようにカラスは思えた。 カラスは2冊のパスポートを握りしめていた。 ●●● 漫画喫茶で、働いても良い事はない。その上、特別なことも特に起こらない。これが、自慢の仕事でもなければ、薄給のせいで趣味も覚束ない。豚はそれでもこの仕事を続けていた。仕事を選べる立場でないこともその理由であった。豚は何年もニートをしていて、やっと自分にできる仕事だったのだ。ただ、唯一の喜びもある。ここにくる客層は自分よりも下層の人間であると分かることだ。それが分かるだけで、豚は気持ちが救われた。ここに来るような奴らはどんな奴だって、自分以下であると思っていた。あの女も。 もうしばらく来なくなった。 ネットのニュースにはマーレ地区の再開発がやっと決まった。大型のイベントがあるのでそのための会場にするらしいのだ。あんな大きな中途半端な土地など必要ない。 すぐに別のものにすべきであった。何か一つのものがずっと残るなど嘘くさいと豚は思った。 今日も、いつも通りの仕事をしていたら、自分のメールアカウントに、知らないメールアドレスからのメールが届いていた。 どうせ迷惑メールと思いながら、中身を見ずにspamメールへ入れた。丁寧に添付の画像まであった。それこそ危険だと豚は思う。 from : p-crow@yhaa.com.hk subject : Fly freely in the night city 添付されていたであろう画像は、あの夜の街に違いない。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加