おもいびと

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オヤナギはいつものようにタンスにしまっている背広を取り出し、腕を袖に通した。 羽織ってから随分と萎びているなと感じ、この冬を乗り切って欲しいとふと思う。 オヤナギは自分の体型が今のようになってから、ずっと同じものを使っている。 十数年前に買っているのだから当たり前かとも思う。 オヤナギは物持ちがいい方である。 家にある色んなものは古くからあるものが多い。 タンス扉の内側にかけているネクタイのうちから、一番右側を手に取った。 ネクタイを選ぶ時はいつも同じようにしている。 そうすれば、いつだって右側は昨日と違うのだから。 「あなた、大丈夫? その背広。もう流石に新しくしなきゃね」 妻はオヤナギの背広姿を見て心配そうにそう言った。 「いや、いいんだ。どうせ背広を着ているのは通勤時だけだから」 そうね、と妻は思案顔で答えた。 きっと急な出費になりそうなので、やりくりに頭がいっぱいになっているのであろう。 「ねぇ、マコトが学校に嫌な子がいるらしいのよ」 マコトはオヤナギの息子である。 どうやら、学校で軽い嫌がらせを受けているようであった。 ちらりとオヤナギは壁に掛けている柱時計に目をやった。 「そうか、ちゃんと聞きたいから帰ってからでもいいか?」 そうねぇと、今度の妻が少し困った顔で答えた。 「じゃあ、行ってくるよ」 「はい、気をつけて」 「行ってきます」 💺 履き慣れた革靴が、少しずつ前に前にとオヤナギを職場へ連れて行く。 改札をくぐり抜けて電車に滑り込む。 電車のつり革をしっかりと掴んだオヤナギは窓の外を眺めていた。 街の風景はどこかしら他人行儀で、流れて行くことが当たり前のように見える。 その景色が暖かい家庭の生まれる場所とはオヤナギの目には見えなかった。 オヤナギは会社についてすぐにロッカールームに向かう。 少し寒くなってきたからだろうか、もう静電気で手が痛むことがある。 慎重にドアノブ以外を触ってから開けようとしたら、ひとりでに扉が開いた。 「チッス! チッス! オヤナギさん。朝のチッスっす!」 後輩のユウスケがすでに出勤の制服に着替えて出て行くところにでくわしたのだ。 ユウスケはオヤナギよりも15も若い。 これぐらい離れていると、敬われる対象にさえならないのだ。 その証拠にオヤナギ以外の相手にもほとんど同じような接し方をユウスケはしている。 「あいつ、ほんとチッス族だよな」 同期の渡辺がそう言った。 「おはよう」 オヤナギは同意も不同意とも取れる顔をしながら挨拶をした。 自分のロッカーの前にたち、ネクタイを緩める。 それからロッカーに入っている、ピンク色の艶のあるゴムのような制服に着替える。 その制服は全身タイツのようなものだが、体を入れるのは前側からである。 オヤナギは背広を脱いで、ズボンも脱いで、半裸になる。 上はいつものランニングシャツを着たままにする。汗を吸い取るのでいいのだ。 ユニクロのエアーフリーである。 スネ毛いっぱいの足を制服にツッコミ、両足を入れたところでたるみが出ないように上に捲り上げる。 それから、お尻を入れて両腕を制服に入れる。 手を出して、肩のたるみが無いようにしてから前のチャックを股下から胸まで一気にあげる。 そのあとフルメットのようになっている頭の部分を顔までかぶる。 顔の部分は特殊な素材でできているので、少しだけ視界が暗くなるだけで別段歩いたりするのに困ったりはしない。 オヤナギは制服になってから、シャツやズボンを丁寧にハンガーにかけた。 バタンとロッカーの扉を閉めて、全身鏡に自分を写した。 そこにはピンク色のマシュマロマンみたいな男が立っていた。 鏡には「余計な●毛は出ていないか? 再確認!」と赤字で注意喚起をする張り紙が貼ってあった。 💺 この会社の始業時間は8時30分である。 オヤナギたちは、その一時間前に職場のフロアーにいるようにしている。 これは、部長の。いや、部長の椅子の指示である。 そこにはオヤナギを含めて全員で11人いる。 11台かもしれない。 部長の椅子以外の全員が全員、ピンク色の制服を着ている。 表情は読めない。なぜなら顔が覆われているからだ。 こうやって眺めると、まるでマネキンだ。 何も着つけていない、ピンク色のマネキンに見える。 それから、部長の、部長の椅子がオヤナギたちにいつものように朝礼として声をあげる。 「えー、諸君。おはよう。今日も元気ですか?」 とその部長の椅子が言う。 「はい! 我々は元気です!」 とオヤナギたちは大声で答える。 「では、いつもの準備運動をしようじゃないか!」 とその部長の椅子の男が言う。 「オイチニー、サンシー」 大きな掛け声に合わせて、オヤナギたちは朝の準備運動をする 「いいか! 肩と腰と膝が大事だ! しっかりやれよ!」 オヤナギたちは念入りに自分の商売道具をストレッチする。 「事前の確認事項です。本日米元さんは出張です。それから、山本さんは体調が悪く休むかもしれないとことです。ですので、ライダとヨモダは今日は交代要員です。よろしくお願いします。また、斎藤さんと長井さん八尾さんは今の時点で残業の申請が入っております。なので、渡辺、ユウスケ、オヤナギは残業のつもりでいてください」 オヤナギたちは「椅子人間株式会社」に勤めている。 この時代いろんなものがとても効率的に機械的になってきた。 そこで人々は回帰するように「もっと人の温もりを」というのが流行ったのだ。 そして、オヤナギたちの会社はいろんなオフィスに「椅子人間」を派遣すると言うサービスを始めた。 最初はとても気味悪がられたが、だんだんと浸透していった。 人の個性があまり出過ぎないように全身タイツのような特殊な制服で、 あらゆるオフィスの机の前で両手、両膝をついて背中に人を乗せている。 そのちょっとした弾力と、人の温もりとピンク色の物体感で人気を博していた。 彼らは、椅子人間である。 「いいか絶対無理をするな。きついときは、必ず制服を噛むんだぞ」 制服の顔の前のところを噛むとすぐに全員に伝わるようになっている。 そうすれば、先ほど交代要員として準備することになっているライダとヨモダが変わってくれる。 始業時間になる。 オヤナギは肩を回して、手をついてホームポジションをとった。 💺 「おはよー」 そう言ってからドスンと斎藤さんが、椅子人間に座る。 「斎藤さんおはようございます」 と長井さんが、椅子人間の上でお尻の位置を少し変える。 居住まいを正したのだ。 「おはようございます。昨日、ちょっと深くて……」 と八尾さんは言いながら、カバンを椅子人間の上に置いて、ロッカーにコートをかけにいく。 「え、お前今日大変だから、あれだけ深酒するなって言ったのに」 と斎藤さんは棘のある声で言いながら、椅子人間から立ち上がってコーヒーを取りに行く。 「大丈夫っす。俺若いんで。長井さん頑張りましょう!」 と八尾さんは長井さんに笑いかけながら、椅子人間に勢いよく座る。 「はいはい。そういうの良いよ。私に向けて言わなくて良いの」 と長井さんは、軽く八尾さんをあしらっていたが、体重は左側に傾けて少し八尾さんから逃げていた。 それぞれが、それぞれの椅子人間に座って「普通」をしている。 斎藤さんが、渡辺。 長井さんが、オヤナギ。 八尾さんが、ユウスケに。 「ふぅ。頑張ろう」 小さく、長井さんが気合いを入れたのをオヤナギは聞いた。 オヤナギたち人間椅子は没個性化のため、また快適なオフィス空間を壊さないために動かないことはもちろんだが、声をあげたり、会話をしたりしない。 その静謐さが、座っている人との関係性を育んでいく。 ある種の信頼感が培われていかないと、椅子人間などには座れない。 それが人間というものだ。 さて、例にもれず、オヤナギと長井さんにもある種の信頼関係が培われている。 ドスンと、長井さんがオヤナギに座ると時、ほんの少しだけスピードを緩めてくれる。 オヤナギも長井さんが座るときに鍛えている背中の筋肉を引き締める。そして腰掛けたのがわかれば、それを緩めて自慢のふくよかな体脂肪でお尻を包み込むようにしている。 また、オヤナギは坊主にしている。 椅子人間の頭の部分は遊びになる。 ここが個性を出すところでもある。 例えば、渡辺はサイドテーブルになるように後頭部に平たいお盆を入れてから制服を着るようにしている。チッスユウスケは、頭をボンバーヘッドにしているので触り心地が良い。 そしてオヤナギは短く刈り上げた坊主にしている。 特殊な生地の制服越しにも、少しだけチクチクを感じられる。 長井さんは、電話している時や、疲れて休憩するときにオヤナギの頭に左手を置いて撫でるのが癖になっている。 オヤナギも気持ちいいと自信を持っている。 椅子人間は座る人のことを「シッター」と呼んでいる。 オヤナギにとっては長井さんがそうだ。 オヤナギたちにとってシッターの就業時の習慣リズムを把握しておくことはとても大事だ。 それから仕事のはかどり具合や、その質や量もである。 それによって、力を入れるところ、力を抜くべきところ、休憩どころ、踏ん張りどころがあるわけだから。 例えば、シッターが伸びをする時、体重が机から椅子に移動するので踏ん張る。 それから足を組み替える時も背中の筋肉を引き締めなければ骨盤が刺さる。 横の人と会話をしそうであれば、そちらの方向の体を引き締める。 部長に呼ばれたら、立ち上がるので小休憩。 怒っているなと感じたら、衝撃に備える。などなど。 とにかくシッターのことをよく把握しなければならないのだ。 シッターたちがお昼ご飯に出かけた。 このタイミングで、椅子人間もお昼に入る。 急な用事がない場合は、一時間ちゃんとお互いに休めるようになっている。 「じゃあ、ライダ、ヨモダ頼むな」 そう言って、椅子人間たちはロッカーに引き上げた。 💺 「なあ、やはり山本部長は本店に異動らしいぞ」 渡辺がロッカーに入って、すぐにそう言った。 言いたくて仕方がないのだろう。 「へぇ、部長がですかー。さみしくなるっすね」 とユウスケはいつものように愛想よく答える。 「え? じゃあ、次の部長は誰になるんでスカ?」 「そりゃ、斎藤さんじゃない? 内々に内示を受けてると思うよ。流石に」 と渡辺は言う。 「じゃあ、渡辺さんが『部長の椅子』じゃないですか! すごいっすね」 「ああ、ついにだな。俺も部長の椅子だ」 渡辺は、このことが言いたくて始めた会話なのに、自分の言葉に酔っていた。 オヤナギは体の硬さをほぐしてストレッチをしながら、二人の会話を見ていた。 渡辺とオヤナギは同期である。 一緒に椅子人間になるべく研修を受けた。 雨の中で二人で最後まで信楽焼のタヌキを乗せて椅子人間になりきったことを思い出す。 「俺は椅子になんか、なりたくないんだ」 渡辺は泣きながら、その修行のような研修を耐えていたことが懐かしい。 オヤナギと渡辺の上でタヌキが無表情で座っていることが、妙に笑えた。 渡辺はオヤナギのそばに寄ってきて 「俺の方が先だったな」 と勝ち誇った顔で言った。バカなやつだ。 部長の椅子になるとあらゆる情報が部長の椅子に集まる。 結果的にこのチームのリーダーになる。 また、部長の椅子用の制服が支給される。 少し背中のところがふかふかとなっており、アームレストも装着できるようになる。 必然的に見た目が変わって、特別感が増すのだ。 「貧乏ゆすりに負けるなよ、渡辺」 オヤナギは悪態をついて、笑った。 別に、部長の椅子になりたいなどと思っていないのだから。 「ウルセェ」 渡辺はそう言い返したが、少しだけ嬉しそうでもあった。 斎藤さんは貧乏ゆすりが激しいおかげで、渡辺の腰は限界に近づいていた。 腰に手を当てながら、渡辺はオヤナギの前から離れていった。 渡辺が離れた後、オヤナギは妻が作ってくれたお弁当を広げた。 口に放り込んだ妻のかぼちゃの煮付けは甘かった。 💺 「ああ、だめだー。おわんないや」 長井さんが、机に突っ伏して完全にだれていた。 ここのところ忙しく、仕事の切れ目がない。 そのせいでしばらく残業も続いていた。 「あー、嫌になるな。めんどくさいなー」 あたりに聞こえない程度の声で長井さんが呟いた。 おでこをデスクにつけて突っ伏したまま、動かないでいた。 コトっと音がしたと思ったら、テーブル端に紙コップの珈琲が置かれていた。 八尾さんが珈琲サーバーから淹れて来て、長井さんに差し入れたのだ。 長井さんは体勢を変えずに、首だけひねって珈琲の入った紙コップを見つめた。 「ありがと」 「うっす」 八尾さんが照れながら、隣のデスクのユウスケに座る。 「まあ、今日乗り切ったら終わりっすよね」 八尾さんは腕をまくって仕事に取り掛かった。 八尾さんに気づかれない程度に口角をあげた長井さんは、姿勢を元に戻した。 「そう。てか、八尾くんの頑張りがそこまで効いているとは私は思わないけど?」 「ええ、そんな〜」 「はいはい。やるよー」 そういって、珈琲をすすり、長井さんはオヤナギにしか聞こえない声で「あったかい」と漏らした。 オヤナギは背中にじわっと温もりを感じた。 💺 数ヶ月前、長井さんの異動の公示が出ていた。 今の仕事をかなり頑張っていたのだが、他の部署の都合で異動になったと言う。 だが、本当のところは昇進する斎藤さんとの仲が悪くて、異動願いを出したとも言われている。 数日経てば、長井さんはこの部署を去ることになっていた。 今は最後の大仕事に取り組んでいるところであった。 残業も深くなり、八尾さんを返した後、オフィスには一人になった長井さんが居た。 同じフロアーの別の部署の電気は消えていた。 開いたブラインドの隙間から、外の街並みが見えた。 電気がついているオフィスビルがいくつか立ち並んでいる。 「次のところに行くの不安だな、椅子さんはどう思います?」 オヤナギは答えない。 「私、結構頑張ってたつもりなんだけどな。そこだけじゃ見てもらえないのかな」 長井さんのパソコンの電源は、もう落ちていて、画面は真っ黒になっていた。 その黒い画面にメガネをかけた長井さんが映る。 前髪をピンで止めていた。 前に伸びをして、そして、立ち上がった。 「ふぅ。まあ、仕方ないこともあるか」 窓辺にいって、外を眺める。 その背中には寂しさが垣間見えた。 肩が微振動している。 「あなたは頑張ってました。私は知っています」 この言葉をオヤナギは頭に浮かばせた。 号泣まではしない。 きっと長井さんの涙の味は悔しさではない。 ただ、ただ、寂しい味のする涙なのだと思う。 「それを私はずっと下から見ていました。その涙はきっと頑張った答えじゃないですか?」 オヤナギは下を向いたまま、心の中でそう思った。 涙を拭って振り向いた長井さんが、机に戻ってきた。 「いつも、ありがとうございます。椅子さん。じゃあ、また明日」 「はい、また明日」 「お疲れ様です」 「さようなら」 オヤナギは、ずっと無言の椅子のままであった。 長井さんは無音の空間に声を出してくれていた。 二人には会話は成立しているのだと信じていたから。 それから、電気を消してオフィスを出て行った。 オフィスの中にはピンク色の物体が一つだけ残った。 ほの暗いオフィスの中でそのピンク色の物体は、ぼやっと明るく見える。 サーバーのファンの音が薄く聞こえる中、そのピンク色は微動だにもしなかった。 それから、一定の時間を待ってからピンク色は急に動き出した。 立ち上がり、人間であったことを思い出すように。 肩を回してピンク色の物体は、音も立てずにオフィスを出て行った。 💺 「チッス、オヤナギさん。しばらく残業続きできつかったすよね」 それから幾日か経って、帰宅の際にロッカールームでユウスケとオヤナギが一緒になった時だ。ユウスケがオヤナギに話しかけてきた。 「そうだな、お前もお疲れ様だったな。」 「全然っすよ。俺若いし」 そういって、ボンバーな頭を揺らして笑っていた。 二人で少し散歩をしながら帰ることにした。 「オヤナギさんのシッターさん、あと数日で異動なんですね」 ユウスケはニコニコしながらそう聞いた。 「ああ」とオヤナギは下を向きながら答えた。 「シッターさんが居なくなるのって、ちょっと自分の身体が持っていかれるような気分になりますよね」 「はっ。知った風なことを」 と言いながらもオヤナギはユウスケの気遣いに感謝した。 「俺、ほんとそう思うっすよ。だって、やっぱシッターさんあっての自分っすから」 若さだろうか、それともバカのせいか。 ユウスケの言葉は綺麗にオヤナギの頭の中で響いた。 「俺、頭悪いっすからね。この仕事合ってますよ」 缶コーヒーを奢ってやったら、大事そうに抱えがらユウスケが言う。 「否定するなよ。俺らのことまで含めて」 プルタブを引っ張って、オヤナギも口にコーヒーをつけながら言う。 「そういうんじゃないっす。俺の勘っていうんっすかね? こう言うの。ちょっと日本語わかんないんっすけど。なんて言うか、俺めっちゃ頭悪いっすから、他の仕事やっていたら考えることができずにおっきなミスとかしそうじゃないですか。それか、暴れて、人を殴って、お金を巻き上げる仕事をするみたいな。そういうのが俺にはあり得るわけですよね。カノウセイって言うんですよね。こう言うの? 合ってます? てことはですよ、オヤナギさん。あ、オヤナギさんて、なんか響がオヤジさんみたいですね。いや違う、なんの話してたんでしたっけ? あ、だから、そうやって生きてくカノウセイってやつより、今のこの仕事の方が、ヨノナカの役に立ってると思うんっすよ」 「なに言ってんだ。俺にも分かんないこと言うなよ」 と、ユウスケの肩を小突いた。 本当は、「俺はどうだろうな」とオヤナギは考え込んでいた。 「あっち見てください。俺、あのゴミ箱にコレ入れますんで!」 ユウスケは飲み干した空き缶をゴミ箱に向けて放り投げた。 空き缶はゴミ箱を大きく超えて、その向こう側にカランと音を鳴らして落ちた。 「あちゃ」と言って、ユウスケが小走りで走っていった。入るか入らないかで何かが変わるわけじゃない。 💺 オヤナギはシッターとは喋らない主義だ。 他の椅子人間の中では会話をする奴もいる。 だがこれはオヤナギの流儀である。椅子は普通喋らないものだからだ。 しかし、実は「会話」はしたことがあった。 その人はいつもオヤナギが出社する前にデスクの目立たないところに付箋を貼ってくれていた。 「お疲れ様でした。椅子さん」 「昨日はとても暑かったですね」 「ちょっとばかし雨がふると滅入りますね」 「私、今日誕生日なんです」 だから、オヤナギは声を出してはいないが、付箋に答えを書くようにした。 (いえ、●●さんも、いつもお疲れ様です) (そうですね、夏の食べ物が美味しくなりそうですね) (傘を新しくすると、気分が変わります) (おめでとうございます) (一日遅れですが、引き出しに) それが、今の妻である。 だから、オヤナギはシッターとは会話もしないようにと決めていた。 そうしたいと、思っているからだ。 迷ったが、でも長井さんにはと、思った。 (すごくなくても良い。あなたを支えていることが誇りでもありました) 💺 「あなた。新しい背広良いわね」 「そうだな。やっぱり新しいと良いな」 「行ってらっしゃい。今日もお仕事頑張ってね」 妻はいつものように手を振った。 職場で椅子の形をしていると始業のベルが鳴る。 人々が集まり、小さな朝の会議が始まった。 「今日から、体制が変わる。前の部長の良いところを引き継ぎながら、俺は俺のしたい部署にしていく。みんなの力を貸して欲しい。よろしく頼むよ」 と斎藤さんは小さな決起をした。 それから新しく赴任した玉川さんを紹介した。 小太りのメガネをかけた女の子であった。 多分体型だけを見たらオヤナギと同じである。 「み、みなさん。よろしくお願いします」 玉川さんの赴任の挨拶も終わり、解散して仕事につくことになる。 デスクに緊張した玉川さんが戻ってきた。 ドスンと玉川さんがオヤナギに座る。 「はあ、緊張した」 小さく呟いた、玉川さんがいた。 オヤナギは思ってた以上の負荷が両腕にかかったことがわかった。 会社が終わったら、ユウスケを誘ってジムに行こうと思う。 ギリギリと手首に痛みが走る。 自分の体のどこかが痛むことは、何かの役に立っているという答えのような気がする。
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