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一.月の裏側
巷では、「ARによる地域配信音楽」がとても流行っていた。
音楽は、もう自分達で持ち運ぶものではなく、その地域に行けばそこに合った曲が自動的に配信される世界になっていた。
耳に専用のヘッドホンをつけて街中を歩くだけで、誰もがその場所でしか聴けない曲を聴くことができるのだ。もちろんアプリを入れれば車の中でも同じであった。
だから、例えば、汐留の街並みを夜に歩けば邦楽ロックが聴け、湘南をドライブしていれば歌謡曲が聴け、ウィーンに行けばモーツァルトやベートーヴェンが聴けるわけだ。
ただ、AI が自動的に地図上に配置するので、必ずしも人間が住んでいるところに配信されるわけでは無い。
三人の音楽家たちがバーで話をしていた。
「それにしても、いい世の中だよな。俺たちみたいに、曲を作る側からすればさ」
でっぷりとし、口髭を蓄えた音楽家がそう言った。
「ああ、そうだな。俺がこないだ作った曲は、フランスのエッフェル塔で配信されたんだよ。お陰で観光客が聴きまくってくれて、著作権料ぼろ儲けだよ」
ワインを片手に隣に座っている、ラテン系でメガネをかけた音楽家がそう言った。
「そういう意味では、もう、ライブで演奏する意味なんかないね。それは地域に根ざした音楽とは言えないわけだからさ」
二人は顔を見合わせて笑いあったが、奥に座っていた神経質そうな音楽家は苦虫を噛み潰したような顔をしたまま、話に参加しようとはしなかった。
「どうしたんだ? 黙りこくって。お前の作った音楽だって、世界中の色々なところで配信されているんじゃないのか? そう、こうやってお酒を飲んでいても、お金が入るみたいにさ」
口髭の音楽家は、ニヤリと意地悪く聞いた。
神経質そうな音楽家は二人を見回して重い口を開いた。
「お前らみたいにうまくいってないんだよ。俺が作る曲は、ことごとく月で配信されてやがる。こないだ精魂込めて作った大作なんて……最悪なことに配信場所の位置情報は月の裏側を指し示したんだ」
そう言うと、彼は頭を抱え込んでしまった。
他の二人の音楽家は同情の色を浮かべた。
その時、彼のスマートフォンに音楽が視聴されたと通知が届いた。
「あ、やった、ヒットした!」
「え? よかった! それは、本当に良かった」
二人の音楽家も、一緒に喜んだ。
しかもそれは、月の裏で配信されている彼の大作『届かぬ青い星』であった。
「また、増えた」
「おお、よかったじゃないか」
その通知はみるみると増えていった。
三人がひとしきり喜んだあと、誰かが呟いた。
「でも、これ、誰が聴いているんだろう?」
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