ポケットに夜を連れて

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私は左手に疼きを感じ始めた。 そろそろ蕾が花開くようだ。 私の左手の白い花に淡く光が灯って、ほんのりと暖かくなる。 呼応するかのように昼間の月が蒼く光り、世界を照らしだす。 太陽は急速に光をすぼめ、夜が訪れる。 煌々と照す月明かりと、私の左手。 太陽の光よりも幾分優しく世界を包んだ。 夜の世界は皆に平等に暗闇を与える。 暗闇とは宇宙である。 私は思う。 光こそが例外なのだ。 世界には暗闇の方が圧倒的に多いのである。 私の左手は闇夜を連れてくるために花ひらく。 白くて綺麗な月下美人である。 彼女は、時折私に囁く。 「ほら、これが世界よ。琴美」 その声が私の心を冷たくする。 ひんやりとしていく心は動きを止め始めるのかもしれない。 それと同時に自分が接している世界が薄い膜の向こう側にあるように思えてくる。 「琴美がいる光の世界は、夜という大海に浮かぶ小さな孤島のようなものよ」 彼女はほんの少し、笑ったように。 バサバサと音を立てて右手の甲にヘラコウモリが止まった。爪が皮膚に喰い込み赤い血がじんわりとにじむ。 そのまま左手の月下美人の蜜を吸うために羽ばたき、長い舌を伸ばした。 キィキィと甲高い声で鳴きながら、コウモリはそのまま闇夜に姿を消す。 先ほどのヘラコウモリの体重のせいで月下美人は私の左手の上で揺れていた。 私はそのままの世界を見つめる。夜の世界を。 暗闇を覗く。もっと奥に何かあるのかもしれないという、期待を持って。 だが、そこに見えるのはクレヨンで塗りつぶされたようなボコボコだけだ。 世界は等しく暗いのだ。 例えばそこが歓楽街であろうが、ビジネスマンの働くオフィス街であろうが、路頭に迷ったルンペンのいるような裏道であろうが、全ては暗闇に塗りつぶされる。 右手の甲の血を舐めて、世界のブレーカーを落とす。 私は月を 片手で壊せてしまう。 右手を伸ばし、月に手をかざす。 その手を握り締めると、月明かりが少しずつ無くなっていった。 世界がさらに暗くなった。 重力さえも失うような。 暗闇の中へ、私は飛び立った。 🌑🌑 琴美には簡単に夜が訪れる。 ただ、両手をポケットの中に入れるだけでいい。 すると太陽はみるみると光を失い、すぐにあたりは暗くなる。 そして、上を仰ぎ見ると月が煌々と照っているのであった。 いとも簡単に世界が夜に溶け込んでしまうのだ。 それが琴美にとって普通のことになっていた。 暗闇はいつでも琴美を含める。 太陽のある世界の方がよほど不平等だ。 琴美は暗闇が側にいるようになってから、そう思うようになった。 蒼い月を片手で包むとすぐに壊れる。 僅かにあった太陽の反射も消えてあたりは暗闇で覆われるのだ。 その静けさの瞬間、琴美は戻ってきたと思う。 近くで動物の動く音がした。 「琴美、月ぐらい残せ」 猫のたまろうであろう。 黒くて艶のある毛並みが美しい猫だ。 瞳は黄色くて、小顔である。 赤い首輪をつけているが、誰かに飼われているとは思えない。 赤い舌で、前脚を舐めて毛繕いをしながら琴美に文句を言っていた。 「こう暗いと何にもならん」 「良いじゃない。それより夜目を持つようなお前がそう言うなよ」 「僅かに残っている光があるから、夜目が利くのだ」 琴美は手を伸ばし、たまろうを撫でた。 そして、そのままたまろうを握り潰す。 「ほれ、すぐこうなる」 光があるから、体を保つ必要がある。 琴美はたまろうの身体という入れ物を解いてやった。 「好きにおいき」 「ワシは、あの身体が気に入っているのだ」 琴美はふふと笑って、その場を離れた。 たまろうの鳴き声が、にゃーと一つだけ響く。 黒い闇の中で、音が変わる。 音が小さくなって行き、世界は静寂へとすり替わっていく。 そして新しい音が聞こえる。 暗闇は空気からエネルギーを奪う。空気の振動が終わっていく音だ。 ごぼっ、ごぼっ、ごぼっ、ごぼっ。 その音が聞こえていくと、他のものも全て変わっていくのだ。 琴美はこの音が好きだ。 世界が壊れて止まっていく音だ。 琴美はいつものように、自分の世界を回ることにした。 夜を飛ぶ。 そうして、昼が来ないことを心のどこかで願う。 🌑🌑 自分の住む街が眼下に見える。 あらゆる明かりが消えている。 夜が人々に眠りを与える。 その静寂さの中でも動くものたちがいる。 夜の住人たちだ。 彼らは琴美とは違い、夜以外を知らない。 だが、琴美を快く受け止めてもいるのだろう。 「やあ、琴美」 闇夜を泳ぐ琴美のそばを並走して、一つその夜の住人が近づいてきた。 腐臭が立ち込める。そして、ほんの少しのランテルディの香りが鼻の奥を刺した。 「ご機嫌様。ダイン」 琴美は丁重に、そしてダインの機嫌を損なわない様にと表情に笑顔を貼り付けて言葉にした。 ダインは面倒な人間だ。あるいは死人だ。 紳士然としてはいるが、しかしその実、利己的で獰猛で猛禽類の様な男である。 琴美とのパワーバランスで言えばそこまで恐れる相手ではないが、 怒らせると面倒である。 女性を手玉に取っているという征服感が、彼のアイデンティティの主要な部分を占めている。 典型的にアレな人間だ。いや、死人か。 「今宵も素晴らしいな。此処まで暗闇であると私のような人間は威厳さを感じるよ。ステキな暗闇をありがとう」 と、腐った手を肩にかけて耳元で話す。 「どういたしまして。ダインの様な男性にこそ必要な威厳さですわ。この暗闇が貴方をより引き立てる」 と、ダインの手に自分の手を重ね、すこし頭を下げて声音を凛とさせてやる。 ははっと乾いた笑い声を響かせる。 「君にはこの暗闇の価値がしっかりと分かっている様だ。漆黒こそ、最高の輝きだと思わないかい? これが、何よりも美しい」 ––そう、あなたの醜い姿も映さずに済むからね–– 「そして、その真の価値がわかる男こそが、価値ある男だと思わないかい?」 ––受け売りの様な言葉を簡単に口から出せて、それでいて微塵もそれを恥に思わないあなたが?–– 「君の瞳には、その答えが書いているようにも思える。元来より新しい価値を作り出したものが、その世界の新しい指導者になる。まさに、私だ」 ––死んでるのに?–– 「さあ、この世界を私と一緒に統べるのはどうだい?」 ––死んでるくせに?–– ダインはそう言いながら琴美の手の甲に口づけをした。 その瞬間、琴美は嫌悪感からピクリと薬指を跳ねさせた。 近くのものが黒さに潰されて崩壊する音が鳴り響いた。 ダインはそれを背中で感じながら、少しだけヒヤリとする。 微笑みをたやさずに、ダインを見つめる琴美は眉根がピクリと動いていた。 「では、また。私は先約があるので」 そのまま気を良くしたダインがそばを離れる。 「ちっ、腐臭がまとわりつく。近寄って欲しくないものだわ」 琴美の口から悪態がでた。 琴美はやや自分の力を溜めて周りをさらに暗闇にする。 真っ暗である。 暗闇は時間を止める。 その空間の時間を。 先ほどまで琴美に纏わりついていた、腐臭が消える。 正確には、その腐敗の元である嫌気呼吸生物の時が止められているのだ。 琴美はそれを感じると、ふわりと暗闇の中に潜り込んだ。 今夜もアレを探さねばならないのだから。 🌑🌑 小さな頃より琴美は暗闇の中にいる。そうすると、暗闇に深度があることを感じることができるようになる。 琴美によればそれ水に落としたインクの模様に似ているのだという。 暗闇の広がり方はとても穏やかで、乱層雲の様に形は一定を保てないのに全体的にはある種の独特的な形がある。ある種のエコシステムだと琴美は思う。 琴美が連れてくる夜はそのさらに上の階層の闇だ。 家の電気の様なものだ。 スイッチを切ればあたりが暗くなる。 それは、元の姿に戻るとも言えるのだという。 だから、琴美には一つ一つのうねりをもつ暗闇をコントロールすることはできない。 夜にはそこかしこにそのうねりがある。 琴美はそのうねりの一つ一つを感じることができていた。 柔らかい闇、綺麗な闇、寒い闇。 しかし、そのうねりの一つに違和感を感じるものができ始めていた。 琴美は、ここ数日の間に自分の作り出す夜に、黒くて濃くて、そしてどうしようもなく硬い暗闇があることを感じる。 日に日にその存在感は大きくなっていた。 その正体を見たい。 どれほどの暗闇がそこにあるのか。 琴美はそれを感じているのだ。 自分の中心に暖かいモノを感じる。 下腹部から迫り上がってくる、それは根源的な欲求に近い。 この暗闇に抱かれたい。 それは凶暴なほどのの欲求であった。 肌が桜色に染まる。 「私の中にあるものを知りたいのよ」 そう、呟いていた。 🌑🌑 この夜の世界は自由である。 空が夜に覆われると、本来の姿を取り戻すように動き出す。 生物であろうが、なかろうが。 琴美が初めてこの世界を作り出した時、戸惑いよりも自由を先に感じた。 そして、琴美は恐怖心など無いようにあらゆることに自分を溶かしていく。 この夜に順応していったのだ。 夜は琴美に自由を与え、同時に世界にも与えた。 世界のありようは夜によって変わっていく。 夜空に赤いシャンデリアの様ものが灯ることがある。 海中のイカのようだが、世界の車がひしゃげて浮き立っている様子である。 車のひしゃげた塊たちが、か細くなったテールランプを僅かに明滅させているのだ。 大きな亀のような生き物が動くことがある。 亀の甲羅はとても色鮮やかだが、闇夜ではそれが見えない。 それは寝具に包まれている人々の塊である。 皆がそのようにして同じ箇所に集められ、亀の甲羅になっているのだ。 甲羅はヒョコヒョコと動いていく。 そして、甲羅の表面は常に色が変わっていくのだ。 上にいた人と寝具はさらに深く沈み。 新しい人と寝具がその上に被さるのだ。 だから、キラキラと光り輝くように見える。 まあ、闇夜なのでその姿は視認できないが、琴美はそう感じることができた。 夜からは音が消えていく。 空気がどんどんと重くなり、重力の方向を忘れさせる。 世界は一つの方向に留められることを辞める。 無音の中に、琴美は浮かぶことができた。 琴美は自分にかかる重力を自分でコントロールする。 夜とは本来、そのようなものである。 琴美の両手の甲に刺青がある。 月下美人とヘラコウモリだ。 この刺青が琴美を夜に誘った。 それはずっと昔の小学生の頃にはあった。 その刺青が何を意味するのかは琴美には分からない。 それでも、それが分からないことなど些細なことであった。 彼女にこの夜をプレゼントしてくれたのだ。 刺青は夜を作り出すことをしてくれた。 不思議な力を持ち合わせていたのだ。 夜に花が咲き、その蜜を吸うヘラコウモリがいる。 ただ、それだけで夜はコンコンと降り積もるのだ。 幾重にも幾重にも。 彼女がそう願えば。 ー 夜 よ 来 い ー 🌑🌑 琴美が夜の間に移動できる距離は無限である。 夜の力が彼女にそれを与えた。 毎夜、毎夜彼女が感じているその暗闇を探して、少しずつ近づいていることだけは分かった。 それが、地球のどこにあるのか。 もしくは、月の裏側であるのか。 それとも。 それでもと、 あの濃い暗闇の中心部に近づいていることが分かる。 近づけば近くほどに、肌に粟がたつ。 根源的な欲求と同様に、根源的な恐怖心がそばにいることがある。 怖い。 そう、思う。 恐怖心は太古の昔の何かから感じられるのだと思う。 本能に近しいところにある感情だ。 私たちが生活で覚える恐怖心では足りない。 もっと深く深く。 普段感じている恐怖心などは「不安」でしかないのだ。 恐怖は足を竦ませる。 体のあらゆるところが緊張する。 同時に、爆発的なエネルギーが感じられる。 緊張は敏感なセンサーになり その場から逃げ出すために力をためるのだ。 生きるために。 だから、琴美は恐怖を感じればもっと深く深く、近づかなければならないと感じた。 すぐそばに「それ」がある。 「琴美はどこへ行こうとしているのだい?」 おおよそ、何かを感知したあの無頓着な男が近づいていた。 琴美はその存在の「ウザさ」に吐き気を催す。 「君が向かおうとしている闇は野蛮だ。いや兇悪だ。理性のない暗闇は駆逐せねばならない。コントロールできないそれらは、我々が必要としているものではないよ」 ダインは、琴美のそばで自分の考えを述べていてた。 横顔には誇りの一部が垣間見える。 欧州出身の人間にありがちな、コントロール信者だ。全てを統べなければ足りないのだ。 そのくせ、コントロールした後はつまらないなどと言う。 アホくさい。 結論があるのに、それが見えていない奴が話す持論ほど意味のないものはない。 「琴美。私と一緒においで。闇が我々を賛美しているのだよ。三度この世に現れた私と、それを統べる女王。この暗闇にこそ必要な王家だと思わんかね?」 ダインは琴美に手を添えた。 携えられた笑みはまるで、自分を疑わないものだった。 ーう・る・さ・いー 琴美は自分の暴言がでた瞬間に、ダインの顔に右手を伸ばし、力を込めてその手を脳味噌の裏まで拳を突き抜けさせた。 ぐちゃりと骨ではなく腐った動物の頭が割れる音が周りに響く。 そのままその手を開くと、手の甲のヘラコウモリが大きく暴れだす。 手の甲から飛び立ち、体を大きくさせてダインの太腿にかじりつく。 「うごふっ」 とダインの声音が聞こえ漏れる。 琴美は左手を腹部に当てる。 手の甲の月下美人が花開く。 同時に、ダインの腹部が渦を巻いて形を崩して行き、闇に溶けていく。 ダインの両手が、琴美の左手を掴み力一杯握り潰そうとする。 彼女の骨を折ろうとしているのであろう。 琴美はダインの頭を貫通している右手を体を開くように一線する。 ダインは惨たらしく切られ、首の上には頭部の顎だけが乗っているように見える。 かろうじて残った顔の上部はブラブラとその右側で揺れている。 ダインの目は苦痛で歪む。 そして琴美は右手を左手に添える。 すると、月下美人がさらに開き、ダインの腹部の渦が激しくなる。 そのまま腹部と下半身が切り離さる。 ヘラコウモリは噛み付いた右大腿部をかじりきった。スネよりしたが地上へ向かって落ちていった。ヘラコウモリはさらに左の太腿に噛みつき、残りの下半身を咥えたまま飛び立った。 かろうじて残った上半身で琴美の左手をさらに握る。 ダインの残留意思は琴美の腕を握り潰すことに躍起になる。 「殊勝なことだな。心底気持ちの悪いことだ」 琴美は左手に力を込めて掌を握った。 すると、ダインの残った体が闇の中で弾けて消えた。   「嗚呼、臭い。お前の吐く息が、特に」 琴美の瞳にあらゆる赤さが宿っていた。 「本当はお前を闇に葬る方が、嫌だったのに。闇は誰にだって平等よ。もちろんお前にだってね。吐くほど嫌いなお前の言動やその態度へも平等って呆れるくらいよ。闇の中にいなさい。それって幸せよ。お前が思う以上にね」 琴美はその場の闇の濃度をあげた。 闇は濃くなり、その空間の全てを止めていく。 そこに残っているであろうダインの魂も闇に縛られていくのであろう。 もちろん、彼の腐臭さえ残らない。 🌑🌑 琴美が探していたあの暗闇がついに目の前に見える。 琴美でさえ、その闇にはいれば自分を保てないであろうと感じるほどの漆黒であった。 目の前に広がるその闇はうねりがあまりにゆっくりであったが、しかし確実にじりじりと自己の範囲を広げていた。 その先にはきっと何も無いであろう。 何一つ存在させない暗闇。 その闇に包まれたい。 琴美の欲は高まり、恐怖は心を支配しようとしていた。 琴美は暗闇のそばに顔を寄せた。 あるいは口づけを。 しかし、 そこには想像していたものとは違うものがあった。 「……違う、これは暗闇なんかじゃ無い」 琴美が濃い暗闇と思っていたその漆黒の際(きわ)は忙しなく動いていた。際では、漆黒は極小の触手を絡めて夜を掴み、千切っては自己の漆黒に入れていた。 夜が食べられている。 琴美は自分が千切られていると感じられた。 見ていられない。 ザワザワと心が掻き毟られていく。 大事なモノを食されているのだ。 怖いわけだ。 琴美はその侵食を止めなくてはと思う。 際に手を当ててみる。 砂浜に少しずつ埋れていくように 琴美の手は少しずつ、その漆黒のようなものに埋もれていった。 指を動かしてみるとその感触がある。 琴美自身は食されるわけではないようだ。 「これなら、行ける」 琴美は肌が粟立つのを我慢して そのままその漆黒の中に埋もれたのだった。 もう夜からは琴美の姿は見えなくなった。 ートプンー 漆黒の中。 音は逆に溢れていた。 モゴモゴモゴモゴ。 あの際で起きていることが、そのままこの中でも起きているのだろう。 漆黒は漆黒を食し合っていた。 互いに引き千切り合い、自己へ含め合う。 繰り返し繰り返し。 冪演算ぐらいでしか人類には表現方法がないように。 ただ、ただ何度も何度も食い合っている。 体積を増やし続ける。 空間に繁殖し続ける。 空間で殺しあう。 琴美は肌には異質な感触を感じる。 何度も何度も。 琴美は目をとじ、漆黒へ溺れる。 より中心地にいくために。 暗闇の中心地に近づくまでにいくつかの夢を見た。 この夜に入ってから、琴美は寝ることはなかった。 だから久しぶりに見る夢であった。 夢は不条理で思い通りにならない。 それでいて、自然摂理を超えてしまう。 起こるはずないことが起こり、だがそれが常態でもあると認識できる。 まるで、今のようでもある。 小さな赤ん坊の頃に 握っていた母親の指は 骸の指であったり。 着替えを何度も何度もしなければならない部屋に入れられて、 琴美は皮膚を脱ぐまで着替えたり。 世界のビルが全て花になり、 枯れていく様が手に取るようにわかり、 種子の中に人々が含まれていく。 夢は現と交互に来るようであった。 そして、いつしか中心地についてた。 漆黒の中心地に。 そこにあったのは、 裸の男であった。 普通の人間のようだが、眼窩が全て黒く塗り潰されているような大きな目が嵌っていた。 肩幅が異様に細いくせに筋肉が隆々としている。 軟体動物のような印象がある。 柔らかな筋肉と異様な目で、生き物として別のものであると 強い嫌悪感でいっぱいになる。 琴美は、自分の身体が萎縮するのを感じた。 男は琴美に気づき、琴美を見つめた。 首を傾げて。 いや、観察をしているようだ。 自分の巣に入ってきた動物である。 警戒か、獲物か。 見極めをしているのだろう。 「思っていたよりも下品な生き物ね」 琴美はその手を胸に当てて、この漆黒に自分の闇を呼び寄せた。 月下美人が花開く。 体の中心から闇が溢れて周りの漆黒を塗りつぶしていく。 「私の夜よ。出ていきなさい」 それを見て、裸の男は下半身を滾らせた。 そして、立ち姿を変えて四つ足になる。 琴美目がけて飛びかかる。 「動物のそれね。一直線ならば」 闇の刃を以って串刺しと。 しかし、その男の前の漆黒が盾になり、闇を喰い尽くしていく。 即座に距離を詰められる。 掴まれるのいけないと、琴美が翻す。 しかし、躱そうとした方向の漆黒が硬くなり 琴美の其れを防ぐ。すぐさま足首を二つ持たれてしまう。 琴美はその力に慄きながらも脚から体を闇に溶かして見せる。 するりと、男の手から逃れた。 「おもしろい能力だな。自分も闇になれるのか?」 男は、掴み損ねた自分の手のひらの感覚を確かめるように手のひらを開いたり閉じたりする。 琴美はそのまま自分の体を全て闇に溶かした。 ーこうすれば、どうしようもあるまいー 琴美は男に感づかれないよう気配を断つ。 「なあ、お前。俺の声は聞こえるんだろう? お前がどんな存在なのか分からないが、俺はずっとこの黒いモノが俺を守り、そして失い続けるんだ。そんな、そんな中お前がきた。お前は俺のための”存在”だ!」 ー何を妄言してるんだ、こいつは。どうしてお前のための……ー 琴美は男の背後をとった。 「なあ! 俺って、なんで存在するんだ! 俺らってなんでいるんだろうなぁ!」 男は漆黒に向けて吠える。 琴美は背後より、男を闇に葬るために近づいた。 「知っているか、人間は性別ごとに特有のホルモンを分泌する。それは内分泌だとしても、血液に含まれて、尿や汗に多少なりとも含まれるそうだ。お前が暗闇だと思っているこの環境下においてもね」 そう言うや否や、男は急に振り向き琴美の両手を掴んだ。 「見えないと思っているのは、可視光線だ。この闇は本物の闇ではない。お前には感じることもできないだろうがな」 「馬鹿な、見えていると言うのか」 男は口の端を引き揚げた。 男の鼻先には汗の粒が吹き出ていた。 暗闇の中、男の歯の白さだけが浮きだっていて、現実味が無かった。 手を握られている近さで、初めて男の体臭が鼻を刺し、琴美を強張らせた。 「お前はこの黒い世界の中で本当に輝いていたんだ。お前が知らなかっただけだ。赤や緑の粒粒で、それに骨の一部まで青白く光り輝く。お前は俺の……俺の……」 男は琴美の手を離し、力任せに抱擁した。 そのまま男は琴美に大かぶさる。 琴美は接している部分から男を闇に溶かしていくが、同時にその闇を男の漆黒が食べ始める。 身体と身体が接しているはずなのに、 その際からお互いが壊れ合うように。 男と琴美は抱き合ったまま 溶け合って、食い合っていく まるで中世の蛇の王家の印のように。 お互いに無くなり合っていく。 「お前は、俺のもの。俺のものだ。俺の……」 「やめろ離せ! お前のその欲求がお互いを失わせるのだ」 そう叫んだところで男の力も、漆黒が闇を食すスピードも変わらない。 このままでは二人は溶けあい、食われ合う。 琴美は頭のどこかで理解をする。 この男を受容することが、自分が助かる唯一の方法である。 同時に自分を失うことになる。 冷静な自分と抗う自分が天秤にのせられているようであった。 その後も男は喚き散らしながら、琴美を心底欲しているようにも見えた。 それでいて、ただの欲求に囚われているだけなのかもしれない。 琴美も男も身体の半分以上を失っている。 漆黒のなか二人は二人の闇と漆黒へと溶け合っていく。 琴美はどこかで諦める。 「もう、良いわ。私を欲しなさい。それを赦すわ」 琴美は自ら、男を解放し男を受容した。 漆黒は二人を包んだ。 🌑🌑 生命の危機を感じたい。 それは、ほかならぬ生への欲求である。 それがなんで合ったのか、今は分からない。 だが、こうして自分が生きていること自体に喜びは感じない。 根源的な欲求など分かるはずもないのかもしれない。 それが分かったところで意味もない。 意味などないのだから。 琴美はあの男の元を離れた。 そうして、思いついた通りの行為をする。 いつも以上の冷酷さを瞳に帯びて。 あの漆黒の周りの暗闇をキャンセルする。 漆黒の際は外部に対して喰う獲物が無くなり 自らを喰いあい始めた。 そうして、次第にしぼみ始めたのだ。 彼女が感じた通り。 この漆黒は、琴美の暗闇とは異質である。 同時に天敵でもない。 ただ、同じように喰うだけだ。 皆が皆、喰う。 いずれあの男のもとにも届き、あの男もこの漆黒に喰われる。 これは生命ではない。 そう感じると、彼よりもより一層の暗闇を覆うことが感じられた。 私は闇だ。 だが、生命である。 決してそれを辞めてはいない。 これ以上ないくらいに。 ただただ、暗い暗い闇に落ちていても。 たまろうが、暗闇のなかそばに寄ってきた。 「ずいぶんと遠いところまで来たな、たまろう」 にゃー と一声聞こえる。 「私は陰険な女なのだろうか?」 しばしの沈黙。 「別にいいさ。男を喰い散らかしてしまうのは、人間に限った話ではない。猫もそうだしな」 -ただ、- 「ただ、お前が抱く気持ちの通りとそうでないものもあるだろう」 -だから、- 「だから、信じるべきじゃないか。お前そのものを」 -私は- 「私は、生きていいのだな」 夜の闇が明けようとする。 自然とではなく、琴美の眠りとともに。 -おやすみなさい- 声が聞こえた。 了
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