阿部詩子の自供

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「俺から逃げられると思うなよ。裏社会の人間を使ってでも、どこまでも追い込みをかけるからな」  そんな脅迫じみたことをいわれたこともあったという。  その遠山大吉が、琴乃との情交中に腹上死する事件が起き、琴乃はしばらく銀座の店を休んで、詩子の実家に身を寄せていた。  琴乃はその間に、じっくり自らの行く末を考えたようだ。  やがて茂夫と和解する形で生活を立て直し、銀座のクラブも辞めて、茂夫の建設会社で働くようになった。  琴乃の顔に笑顔が戻り、少女の頃のような、陽気で快活な娘に戻っていくのを、詩子は喜ばしい気持ちで見守っていた。 「お母さん、私、結婚するかもしれない」  と、嬉々として報告してくれたのは、大吉の腹上死から二ヶ月ほど経った頃のことだ。  一生を共にしてもいいと思える男性に、ついに巡り合えたのだという。 「お母さんも昔、会ったことがある人よ」  と言っていた。 「再会して、恋に落ちたの」  琴乃が幸せの階段を着実に登り始めていることに安堵し、もう、これで彼女は大丈夫だと確信した。  ところが、しばらくすると、琴乃の様子に変調があらわれはじめる。  精神の均衡を崩し、別人のように顔つきが変わってしまったのだ。    一度、詩子の実家にいた時、突発的に手首を切って、自殺をはかったことがある。  結婚を誓い合った男性から別れを切り出されたことが原因だった。  詩子は娘の状態を案じた。  仕事を休んで、しばらく自分と暮らさないかと提案したが、琴乃が大丈夫、もう立ち直ったから、というので、その言葉を信じて見守っていた。   その矢先、琴乃は火に包まれて亡くなってしまったのである。  詩子は深い後悔にさいなまれた。  自分が手元に置いて、四六時中、目を光らせていれば、彼女は死なずに済んだはずだ。  そう思うと、おのれを責めずにはいられなかった。  半年間ほど、外出もままならない失意と絶望の日々がつづいた。  このままでは、頭がおかしくなってしまいそうだった。    琴乃の死から一年後、六十歳になった詩子は、勝沼の山荘近くに家を買い、余生をそこで送り始めた。  娘との思い出が詰まった自然豊かな土地である。  この地で娘の面影をしのび、彼女の菩提(ぼだい)(とむら)いながら、人生を静かに終えようと考えていた。  花が好きだった娘のために、天国からでも良く見えるように、大きくて美しい、完璧な庭園を造り始めた。  それが彼女の生きがいとなった。  最近になって、遠山大吉の妻が、かつて自分たちが所有していた山荘を購入したことを知った。  会ってみると、驚いたことにファーブル会で琴乃と一緒だった高木日奈子ではないか。 「もしかして、日奈ちゃん?」 「え? 琴乃のお母さまですか?」  向こうも驚いた様子だった。  親しく話すようになり、懐かしい山荘へ出入りする機会も増え、娘との思い出が一層、色濃く浮かび上がってくるのを感じた。 「でもお母様、私たちの関係は秘密にしておきましょうね。勝沼は狭い町です。大吉が腹上死した事件は、みんな表立って口にこそ出しませんが、心の中では今もわだかまりをもって受け止めています。かつての妻と、腹上死させた愛人の母親が親しげに交際しているなんてことが知れたら、どう思われるか分かりませんから」  日奈子にいわれて、詩子は素直にその通りにしていた。
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