第一章:天岩戸

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第一章:天岩戸

「点Pの動きを求めることに、私は何の人生の意味も見いだしません」  数学教師に対して、卑弥呼さんが食って掛かる。  教室の中の空気が凍る。産休代替でやってきた若い数学の講師は、どうしていいかわからずうろたえている。すかさず学級委員の小松が、講師に助け舟を出す。  当の卑弥呼さんは何食わぬ顔だ。  小松のフォローで止まっていた時間が再び動き出す。代替講師には申し訳ないが、クラスの仲間にとってこんなことはもう慣れっこなことだ。  卑弥呼さんの予期せぬ発言は今回に始まったことではない。  今回のように指名されなければ、理系教科で積極的に卑弥呼さんが発言することは稀だ。だが、文系教科、特に歴史や古典などになると、途端に水得た魚のようになり、異説についての質問を繰り返したり、自分の考えをいつまでも話し続けることがしょっちゅうある。  正直、多くの教師もどう扱ってよいかわからず、卑弥呼さんの質問をもてあましていることが多い。  卑弥呼さん自体は、まわりの空気を感じる能力が低いのか、それとも、ただただゴーイングマイウェイな性格なのか、どこ吹く風といった感じで授業を受けている。  山田姫子。通称、卑弥呼さん。もちろん、クラスの仲間が彼女のことを呼ぶときには、「山田さん」と本名の方で呼ぶ。彼女とは二年から同じクラスだが、特に親しい友人はクラスの中にいなく、休み時間もいつも本を読んでいて、誰かに呼びとめられるところもほとんど見たことがない。  中学校のころなら「山田」と女子のことも呼び捨てにしていたかもしれないが、高二になった今では、さすがにそのあたりはわきまえている。  ただ、そのいつまでも敬語で話しかける行動そのものが、クラスメイトと卑弥呼さんの距離感を表していた。  その山田姫子のことを指して、卑弥呼さんというのはクラスの中の暗黙の了解だった。  腰のあたりまで長く伸ばした髪に、今時見かけない丸眼鏡、普段はほとんど話さないくせに、たまに口を開くと上から目線の物言い……卑弥呼さんが卑弥呼さんたらしめている要素は数え上げればきりがないが、卑弥呼さんの呼び方を決定的なものにしたのは、高一の時の「呪い」事件だ。  その「呪い」事件は、高一の時には卑弥呼さんと別のクラスだった僕の耳にも、すぐに入ってきたセンセーショナルなニュースだった。  一年生の時から、すでに卑弥呼さんは授業で教師を質問攻めにし、悪い意味で目立っていた。自分の納得がいかないと、とことん教師と議論をするし、その高飛車な態度は、入学早々、周囲の反感を買った。  この学校は県下ではわりと有名な進学校だ。高校入試でもそれなりに、みんな苦労してここに来たし、授業への意欲も高い方だ。それを四月の初めから、授業をつぶされたのではたまったものではない。  そういった卑弥呼さんの行動に、純粋に迷惑をしているものが言うのなら、仕方がない。ただ周囲の反感を笠に着て、注意をするふりをして、卑弥呼さんをからかう馬鹿な男子が現れた。  初めのうちは卑弥呼さんも無視を決めていたが、次第に卑弥呼さんに対するからかいはエスカレートしていった。本来であれば、それは周りが止めるべき性質のものであるが、もともと卑弥呼さんのことをよく思っていなかった、周りのものたちは、それを止めるタイミングを逸してしまった。  それを周囲の承認と勘違いして、さらに調子にのる大馬鹿野郎に対して、卑弥呼さんが言ったのは「呪ってやるから」の一言だった。 「毎晩、毎晩、呪いをかけて、あんたに不幸が降り積もるようにしてやる。あんた、たぶんろくな死に方しないから……」  この西暦も二千年を越えた現代に、「呪ってやる」なんてナンセンスもいいところだが、その時の卑弥呼さんのあまりの剣幕に、その男子生徒も何も言い返せなくなった。  一瞬、騒然となった教室だったが、すぐに元の静けさを取り戻した。だが、教室が違う意味で、騒然となったのは次の日の事だった。  前日の騒ぎもすでに忘れていた教室に、松葉づえにギブスの男子生徒がやってきたのは3時間目のことだ。聞くと、今朝、自宅のベランダから、母が洗濯物を干す途中に、誤って落とされた植木鉢が右足の上に落ちてきて、骨折したらしい。  さっそく呪われてるんじゃね? などと茶化す者もいたが、卑弥呼さんは素知らぬ顔で、いつも通り静かに本を読んでいる。  それだけで終われば、皆の記憶からも消え去っていたかもしれないが、彼の不幸はそれで終わりではなかった。その後も、野球部のボールが当たるわ、財布を落とすわ、スマホが割れるわの不幸続きで、さすがに「呪い」という言葉を意識せずにはいられなかった。  最終的には、卑弥呼さんをからかっていた男子生徒が、卑弥呼さんに謝罪するという事態にまで発展した。  果たして彼の不幸が、卑弥呼さんの「呪い」のせいだったかどうかは、定かではないが、姫子さんが卑弥呼さんとしての地位を確立したのはまさしくこの時だった。
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