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『永き眠りの健やかならんことを』
アスドフグはそう思念した。
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太陽系外縁から接近して来た物体は最初、彗星と考えられていた。だが、光学観測が可能な距離に近づき、その形状が、直径約六百メートル、厚さ約百五十メートルの円柱形と言う極めて幾何学的なものであることが明らかになると、全世界の宇宙観測機構は色めき立った。人工物ではないかと言うのである。物体は、車輪のような形からチャリオットと名付けられた。それは太陽神ヘリオスの乗る戦車を意味しており、異星文明からの使者であることへの期待が込められていた。
チャリオットは秒速七.七キロメートルで地球に接近し、軌道高度二百キロメートルで地球の周回軌道に入った。地上及び人工衛星から観測したチャリオットは、白銀色の滑らかな表面をし、側面の円形の部分は同心円状に緩やかな凹凸があり、外縁の円周の面には直線的な形状の張り出しが規則的に並んでいた。
チャリオットが人工物であることは明らかだった。それは何のために地球にやって来たのか。軌道上のチャリオットに多くの電波望遠鏡が向けられた。作動している機械は必ず電気信号を発生させる。それを捉えることでチャリオットの内部の活動を探ろうとしたのだ。また、チャリオットから通信が送られてくるのではと考えたのだ。だが、何の電波も検知されなかった。
各国は国連宇宙委員会で協議した末、こちらから電波でメッセージを送ることを決めた。それはℯの対数を二進法で表したもので、人類が数学的思考をできることを伝えようとするものだった。南米のアルマ天文台からチャリオットに向けて電波が発信され、各国の観測機関はチャリオットの反応を見守ったが、一時間たち二時間たっても何の変化も観測されなかった。
三時間が過ぎようとした時、光学望遠鏡がチャリオットの表面で小さな動きを検知した。円周上の張り出しの一つに開口部が現れ、そこから小さな飛翔体が打ち出されたのだ。物体は全長二メートル程の紡錘形で、地球に向けて降下していった。
大気圏に到達するまでの観測で、飛翔体は後方が三角形の翼状に広がる紡錘形であることがわかった。形状から大気圏突入用の機体と推察された。
世界が注目する中、飛翔体は大気圏に突入し、滑空しながら速度を落としていった。地球を数周した後、秒速六十メートル、降下角三度で太平洋上に着水した。
付近で待機していた空母から飛び立ったヘリコプターが着水場所に急行し、海面に浮かんでいた飛翔体を吊り上げて、空母の甲板上に運んだ。
甲板に下ろされた飛翔体を、各国から詰めかけた科学者、外交官たちが取り囲んだ。
「おお」
一様に驚きの声を上げる。
飛翔体は、なだらかな曲線を描く紡錘形で、後方は三角形に広がり両端が上方に折れ曲がる翼端小翼になっていた。全体は継ぎ目のない一体構造になっていて、上面の三分の一ほどが透明な素材、残りがにぶく光る乳白色の素材で出来ていた。一同が驚いたのは透明な窓から見える内部に、一人の女性が身じろぎ一つせず横たわっていることだった。ギャザーの多い、ドレスにもトーガにも見える衣服を着て、肌は象牙色、髪はブロンドで、張りのある素肌は二十歳前のもののように見えた。口元は微笑んでいるような形だが、まっすぐ前を見ている穏やかな目元と共に、固定されているようにまったく動きがない。精密に作られたマネキンを見ているような気持になる形貌だった。
科学者たちは透明な窓の部分は開くのでないかと考え、表面をくまなく調べたが蝶番や開閉機構らしいものは見つからなかった。だが、調べているうちに一つの発見があった。飛翔体の横に屈みこんで、透明の部分ごしに反対側を見ると、あるはずのないものが見えたのだ。正確には、この瞬間にはあるはずのないものが。十数秒前にそこにいた人の姿が見えたのだ。
精密な測定が行われ、飛翔体内部では光が秒速三センチの速度で進むことが分かった。光速は秒速三十万キロメートルである。それは飛翔体内部では時間が百億分の一の速度で流れていることを意味していた。飛翔体を作った存在は時間の流れをコントロールする科学技術を持っているのだ。
科学者たちが時間制御のテクノロジーに驚愕していた頃、軌道上で変動があった。地球を周回していたチャリオットが軌道を離脱し太陽系外に向かったのだ。その速度は周回速度と同じ秒速七.七キロメートル、地球の重力を無視したような動きは人類の科学では説明不可能なものだった。刻々と遠ざかるチャリオットに追いすがる手段は無く、人間の手が届かない彼方へと消えて行った。
唯一、人類の許に残された飛翔体は、カプセルと名前を変えられ、分析・研究の対象になった。だが、各国の研究機関が動員したどんな設備によっても、カプセルの扉を開く、あるいは内部機構を作動させることはできず、構成素材に傷をつけることもできなかった。
そうして、数年間が過ぎた。先を争って分析に取り組んだ大国の研究機関は何の成果を出せずに手を引いて行った。その後、カプセルは分析にチャレンジしようと手を上げた研究機関の間を転送され研究されたが、同じ結果が続いた。世界の関心も次第に薄れていき、小規模の研究施設でも、希望すれば分析にあたれるようになっていった。
そして今、カプセルは日本の片隅の、とある研究所に運び込まれ、その研究対象になった。
カプセルは研究所の大実験室に準備された台座の上に直立する形で据え付けられた。主任研究員の島村と解析技術者の宮園がカプセルに各種計測機器のセンサーを取り付けていく。光学観測機器もセットし、出来上がった姿は無数の茨が絡みついた水晶の出窓のように見えた。
「まさにいばら姫と言ったところだね」
カプセルの前に立った島村が呟く。いばら姫は昔話に出てくる、紡錘を指に刺して百年の眠りに落ちてしまった姫君のことだった。
「まあ、時の止まった世界にいる存在ですからね」
宮園は使い残りのケーブル類を片付けながら答えた。手早く取りまとめて、島村の隣に立つ。
「いよいよですね」
「ああ、やっとうちの研究所に順番が回ってきた」
カプセルの中の女性は直立しているように見えた。二人は、穏やかな目元で前を見る彼女のすぐ前にいるのだが、彼女がそれを認識するのはおそらく三十年後のことになる。脳内の神経伝達に0.1秒かかるとしての計算だ。
「さて、お約束の超遅延時間の体験といこうか」
島村が右手に持ったリモコンを操作すると天井の照明が消えた。部屋は真っ暗になるが、カプセルの内部は明るく照らされたままだ。そのまま十数秒経つと内部の光はふっと消えた。
「カプセルの中では光は秒速三センチで進むからこんな時間差が起きる」
島村がリモコンで天井の照明を点けた。カプセルの内部は真っ暗のままで、十数秒後に明るくなった。
「でも、どう見ても人間ですよね」
宮園が、不動のままの女性を見ながら問いかける。
「どうして宇宙のかなたからやって来た宇宙船に乗っていたのかしら?」
「さあて」
島村は女性の顔を見つめながら応える。
「本人に聞くのが一番早いのだけどな。外部から時間遅延を解除するスイッチは見つけられていない。でも、」
胸の前で重ねている女性の手を指さした。
「彼女は右手の中に何か小さなものを握り込んでいる。これまで調査した科学者の中には、これが時間遅延を解除するスイッチだと推測した人もいる。時間遅延は長い宇宙の旅の間、彼女を守るためのもので、彼女が解除して大丈夫と判断したらスイッチを押すのでないかとね」
島村は肩をすくめた。
「問題はいつ彼女がそう判断するかだ。彼女の一秒は我々には三百年だからね。まあ、出来ることをやっていくしかない」
「それでどうするんですか? 計測機器以外の機材は用意していないみたいですけど」
宮園は大実験室の中を見回しながら訊ねた。
「これまでいろんなコミュニケーションの試みがされてきた。彼女の目の前に固定した表示板を立てて絵文字で伝えるとか、テレパシーなるものを使うとか、だがどれもうまくいかなかった。そこでな」
島村が部屋の隅から持ってきたのは一脚の椅子だった。カプセルに向き合うように置く。
「一日八時間、彼女の目の前で同じ姿勢で過ごす。彼女にとってはマイクロセカンド単位の時間だけど、繰り返していけばサブリミナル的に認知されるかもしれない」
「えーっ……」
宮園は懐疑的な表情を浮かべる。
「八時間も同じ姿勢って気持ち的につらくないですか?」
「何もすることが無ければね。そこで彼女に向かって本の朗読をすることにした」
島村は一冊の本を取り出した。
「恋愛詩の詩集だ」
「何で恋愛詩なんです?」
「アクション小説とかだと我々が好戦的だと思われそうな気がする。かと言って歴史ものだと伝えるべきでない情報が含まれそうだ」
「はあ……。それで、私は何をすればいいんですか?」
「画像がブレてはいけないから読むのは俺一人だ。宮園さんにはモニターのチェックをお願いしたい。一緒に朗読を聞いてもらってもいいけど」
「うう……、自分が朗読するのは恥ずいですけど、主任が読むのを横で聞いているだけだったら耐えられそうな気がします」
「そうか、では始めよう」
島村は椅子に座り、朗読を始めた。
「紅い金魚がひらひらり
青い浴衣の少女が振るう
ポイを躱してひらひらり
ふわり浮かんで尾びれをゆらり
浴衣の中へひらひらり
光の小路を少女は進む
あちらへふわりこちらをちらり
澄んだ眼差しそよがせて
弾んで歩む少女に合わせ
金魚は浴衣でひらひらり
小路の先の鳥居の下に
ずっと探した姿を見つけ
少女はしずしず歩み寄る
笑顔と共に渡された
林檎がきらりと輝いた
佇む少女が頬染めて
黄金の林檎を齧る時
金魚は少女に溶け込んで
恋の炎に変わります
紅い炎がひらひらり 」
一編の詩を読み終えた島村に宮園が話しかける。
「ねえ、主任。あの宇宙船って何だったんでしょう?」
「あれは蒔種船ではないかと言う人もいる。宇宙の星々に移民し、自らの生息域を広げていくためのね」
「でも、彼女は私たちと同じ姿形をしていますよ」
「我々も実は遥か古代に蒔種された移民の子孫なのかもしれない」
「私たちは遺伝子的に地球の他の生物とつながっていますよ」
「それらも蒔種されたものかもしれない。構想されているテラフォーミングでは、最初に珪藻、次に植物と段階的に生物を送り込み最後に人間を送り込むとされている。同じような方式かもしれない。段階を踏み、最後に送り込まれたのが彼女とか」
「じゃあ、私たちは珪藻扱いですか。なんかヤだな、最後に現れておいしいところを持って行くみたいで」
「案外、がんばった先行者にご褒美を届ける役かもしれないぞ」
「そうだったらいいんですけどね」
「じゃあ、次の詩に行くか」
「真っ直ぐに 飛び込め私の 無患子の実
君を打ち抜き…… 」
そうして島村は朗読を続けた。午後五時になったところで詩集を閉じる。
「主任、お疲れさまでした」
「お疲れさま、これがいつか効果が出るといいんだけどね」
「はい、でも意外でした。主任は勤務時間中には雑談とか一切しない人だから、趣味とかないんじゃないかって思ってました。恋愛詩に詳しいなんて」
「なんか、貶されているような気がするんだけど……」
「いいえ、感心しているんです。でも、恋愛詩っていいですね。私も好きになっちゃうかも」
「だったらうれしいな」
「はい」
だが、事態は二人が思っていたよりも早く進むことになった。
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緩やかな眠りの中に揺蕩っていた彼女は外部からの微かな刺激に興味を引かれた。滞時フィールドの中では、人はニューロン・シナプスの生体電流ではなく、フィールドを構成するクロノ粒子が、生体内の無数の神経細胞が持つ電位と干渉して起こる揺らぎによって思考する。その速度は思考者の意思によって左右され、フィールド内の光速をも超えて伝播するのだ。
彼女の興味を引いたのは滞時ユニットの前に現れた青年の姿だった。椅子に座り、彼女に何かを呼び掛けているようだ。彼女は思考速度を速め、青年の動きを認識できるようにする。青年の声は聞こえない。音波が滞時フィールドを伝播して彼女のところに届くには六百クエルはかかるのだから。だが、青年の表情の動きそして真摯な眼差しを見て、ここが彼女が目覚めるべき世界であると判断した。
滞時フィールドの解除は思念によって行われる。あらかじめ定めた合言葉の思念を右手の中のトュイオに伝えることで解除されるのだ。合言葉は何だったかしら、思いを巡らすうちにトュイオに別の思念が入っていることに気付く。
それは『永き眠りの健やかならんことを』とあった。彼女は記憶を辿り、滞時フィールドを作動させた時にそばにいたアスドフグの思念だと気付く。睡眠中にも思考するアスドフグ族には滞時フィールドは永遠の眠りと思えたのだろうと。
改めて彼女は滞時フィールドを解除する思念を念じた。
『扉よ開け、新しい世界へ』
そして、滞時ユニットの扉がゆっくりと開き始める。
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「眠りたる 君に銀河の ヴェールを贈る
茨の褥は さわさわと いとしき者を 包み込み
髪ひとすじの 隙間すら…… 」
「主任! あれ!」
真っ先に異変に気付いたのは宮園だった。カプセルの透明な部分が、取り付けたたくさんのセンサーとともに、前に倒れるように開き、先端が大実験室の床に接地して斜路のようになった。それを通って、カプセルの女性がゆっくりと下りてきた。彼女はまっすぐに島村を見つめている。
「え……」
呆然と立ち上がる島村。その手から詩集がぽろりと落ちた。
女性は島村の前に歩み寄り、右手を上げて島村の頭を包み込むように指を絡めた。島村の目を見つめて微笑む。その顔が島村にゆっくりと近づく。
その刹那、島村の脳裏に浮かんだのは、彼女の顔が縦に二つに割れて巨大な口に変化し、自分の頭が食いちぎられる……と言うイメージだった。
だが、彼女の顔は美しいまま近づき、その唇が島村の唇に重ねられた。
「え、何……」
動転した宮園の声を聞きながら、島村は唇の柔らかい感触、そして暖かいものが送り込まれてくるような感覚に陶然としていた。
「主任、大丈夫ですか?」
島村は宮園の声に我に返る。彼女の唇は既に離れ、彼女は島村と宮園の前に立ち、二人を興味深そうに見つめていた。
「ああ」
「ああじゃないでしょ!」
宮園は女性を睨みながら、島村に詰め寄る。すると、女性は何かを掴んだ左手を差し出し、右手で宮園の左手を掴んでその上に導いた。さらに島村の右手を掴んで重ねさせる。
突然、島村と宮園の頭の中に思念が言葉となって流れ込んで来た。
『あなた方の言葉はまだ学習していないので、このトュイオを通じてお話しします。トュイオは思念を言葉に変えて伝えることができるのです』
『ええ!』
『何よ、それ』
島村と宮園の思念も言葉となって共有された。
『このように、あなた方の思念も伝わります』
そうして女性は二人に自らの使命を説明していった。
『私はいくつもの種族が共存している星系から来ました。人類はその種族の一つです。人類を含め各種族は広大な宇宙のあちこちで生活圏を持っています。太古の先行種族の力により、星をまたぐ移民が行われたと言われています。そして、新たな星系への生活圏の拡大や、過去に作られた生活圏への支援が続けられています。私はこの星へ、生存と繁栄への支援のためにやって来ました』
『何のためにそんなことを?』
『生存と繁栄、それが私たちの理念です。そのために行動しています』
『そのために一人で?』
『はい』
『でも、たった一人で出来ることなの?』
『星系ごとに生活することで、それぞれの恵みが生まれます。それを届けに来ました』
『あのカプセルの中に積まれているの?』
『いいえ、それは私の体の中、そして皮膚の上にあります』
『それって……』
『微細生物叢、あなたたちの言葉では細菌です。複数種の微細生物が組み合わさって極小生態系を築き、人類に有益な物質を提供してくれます。その存在場所は人体の肺胞や血管内、下部消化管や皮膚の上など。私たちは微細生物叢との共生関係を構築しました。私たちは彼らに生存環境を提供し、彼らは生産する有用物質により私たちに長寿と機能強化をもたらします。例えば、寿命をこの星の公転周期で百年から二百年に延ばしたり、神経の伝達速度を二倍に速めたりできるでしょう』
『じゃあ、さっきのは?』
『ええ、口腔経由で一部をお渡ししました』
『ええっ!』
『じゃあ、あれで配って行くわけ?』
『いえいえ』
彼女の思考にはくすくす笑っているようなビブラートが感じられた。
『星レベルでの伝播ではもっと効率的な方法があります。外部培養とか、カプセル剤の服用とか。あれはデモンストレーションですよ』
『そうなの?』
『とにかく』
島村は思念する。
『俺たちは全面的に協力させていただきます』
『よかった。ありがとうございます』
『あの、お名前は何とおっしゃるのですか』
『春と豊穣をもたらす者との名を授けられました。こちらの言葉で言えば、フローラでしょうか』
『では、フローラさん、よろしくお願いします。俺は島村と申します』
『私は宮園よ、よろしく』
こうして、フローラのもたらした恵みを全人類に伝播する活動が始まった。
島村と宮園は彼女の目覚めを全世界に向けて報告し、各国との調整の上でフローラと共に各地でフローラの恵みについて講演をして回った。並行して、各国や企業から拠出を受けて伝播を行う組織を構築する。そして、組織が導入した設備により、フローラの微細生物叢の採取、培養、製剤化を行った。
幾多の困難があったが、一年後にはカプセル剤による伝播が始まり、その効果を目のあたりにした人々が次々と要望してきたため、伝播は順調にすすんだ。更に一年後には、人類の半数が伝播を受け、全人口への伝播のめどがついた。
宮園が自らの伝播を受けたのはその後だった。彼女自身の選択により、伝播はカプセル剤ではなく、島村からの非効率的なやり方によったと言うことである。
終わり
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