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『発送は入金確認メール送信の翌営業日になります』
それが私と顔も知れないネットショップオーナーとの約束の日だった。
とても曖昧で不確かな約束。
でもその時の私は初めて恋を知った生娘のように、胸の高鳴りと、熱々の蒸気を立ち昇らせる蒸籠みたいになった己の頭をなだめることで精一杯だった。
――数分前。
私は料理が趣味で常日頃からプロの使う道具を使ってみたいと思っていたのだ。今まで踏ん切りが付かず、導入を見送っていたのだけれど、去年一昨年とコロナ禍で旅行などにも出歩いていなかったから、その貯めた旅行代で、良い包丁でも買おうと思ったのだ。
そしてネットサーフィンをして相場を調べていた矢先、個人運営のネットショップがgouguruの検索に引っ掛かったのだ。
・刀匠銘入りダマスカス包丁
※芯材には玉鋼を使用しております
私はこの一文に惹かれ、何気なくそのサイトを見てみることにした。
・刀匠銘入りダマスカス包丁
※芯材には玉鋼を使用しております。
・何度か使いましたが引退することになったのでお譲りします。
・手入れ済み。商品は写真に写っている物のみになります。
価格:¥146,000→¥75,000
「嘘……、約十五万円の包丁が使用済みとはいえ七万円?」
さすがに偽物を疑ってしまうのは私だけではないだろう。しかも個人のネットショップだ。怪しさ満点である。しかしそれはむこうも同じで、だからこそここまで安いのではないだろうか?
私はそう思ってサイトを隅々まで見てみたけれど、問い合わせ先から店の営業時間、支払い方法、返品交換についても載っていた。
「うーん、日本語も変じゃないし大丈夫そうね。それにしてもすごいわね、ここの運営者。雑貨、ファッション、調理器具なんでも取り揃えてるじゃない。中古品販売とはいえすごい品揃え」
私はこのサイトお気に入りに登録すると、さっき見た包丁をカゴの中に入れた。2年間の旅行代総額二十万円を全額使おうと思っていた矢先、まさか半額以下で良い包丁が買えるとは思ってもみなかった。
使用済みとはいえ、元は料理人の手元にあったものなのだから、きっと良い感じに使い込まれて手に馴染みやすくなっているだろう。
私は中古品に対する抵抗感をそう思い込むことで自身を納得させ、決済のボタンをクリックした。当然のごとく次に表示されるのはログインorアカウント製作画面。 私は郵便番号と住所と名前を打ち込んでエンターキーを「タンッ!」と叩いた。すかさず「ユーヴガッタメール」とシステム音声が通知してきた。届いたメールはサイト登録確認と取引内容確認と振り込み用の三通だった。
件名:ネットショップ○✕△ To自分
この度はご注文ありがとうございました。下記の通りご注文承りましたので、ご連絡させていただきます。
今回ご注文をいただきました商品について、お間違いがないか確認お願い致します。(以下略)
「ふうん、決済方法は銀行振り込みだけなのね。クレジットカードや代引き決済もできるって書いてあるけど……、まあいいか」
明日にでも振り込んでこよう。
私はそんなことを思いながら、一仕事終えた気持ちで一息ついた。しばらく大きな買い物をしていなかったせいか、興奮で手が震えていた。
「かっ……買っちゃった。そうだ、せっかく良い物を買ったんだからお手入れもしないと」
私はまだ震えの止まらない手をなんとか動かして、69gの超軽量マウスを操ると、世界最大のネットショップAmanzoにアクセスした。
「中砥石、仕上砥石、鏡面仕上砥石……荒砥石もいちおう買っておこうかしら。ああそうだ、面直しのやつも買わないと。メーカーは……影のフィクサーってところが良いみたいね」
そうやって私は商品を次々カゴに入れ、会計ページへと飛んだ。
「全部で46580円か……包丁本体より高くなっちゃうけどしかたないか。それに砥石なら長く使えるから費用対効果は高いわよね」
いちおう先程のネットショップでも砥石を検索したがヒットしなかった。やはり中古販売は在庫が不確かなのだろう。
「定価になっちゃうけど予算内だし……え~い、買っちゃえ!」
私は迷うことなく決済を済ませた。
――翌日。
仕事を終えた私は早速メールで来た振込先にお金を入金した。花の金曜日ということもあって私は酒と肴を買って家に帰った。
「ん〜、やっぱり刺し身は黄龍で買うのか一番ね」
贅沢にも大トロを12%の缶チューハイで胃に流し込むと、臓腑から酒精による幸福が脳髄を這い上がっていく。
「私もいつかマグロも捌いてみたいわ〜」
今回買ったのは三徳包丁だから次は柳刃包丁かしらん。私ったら本業でもないのに板前顔負けのお料理スキルを身に着けてしまうのではないかしらん。総務課の美の化身、美し過ぎるお局様と言われているかもしれないこの私が!料理までプロ並みになってしまったら!
男性社員たちの胃袋をひっ掴んでそのまま握り潰して「私たちこれでずっと一緒ね♡」なーんてウヘヘへへ。
これから素敵なお料理ライフが始まると思うと自然と口元が緩んでくるではないか。テンションも上がれば酒の量も増えるというもの。今日は興が乗ったからもう一本飲んじゃおうかしらん。そんなノリでしたたかに酔った私は、床にゴロリと寝転がった。天井板の木目がウネウネ動いていた。それはまるで煉獄の焔で苦しむ罪人たちのように見えた。
「ヒヒヒヒヒ、苦しみ悶てらぁ。アタシは幸せに暮らしていくからよぉ」
私は虚空めがけてそんな言葉を吐いていた。
そんな幸福を夢見る未来は三日しか続かないと、この時、誰がそう思うだろうか。
――翌週、火曜日。
「おかしい……。入金したのに連絡が来ない」
私は仕事帰りの道すがら、スマホのメールアプリを何度も更新していた。いくら個人運営のネットショップとはいえ、入金されたらさすがに連絡の一つも寄越すものではないだろうか?仮に土日を休みにしていたとしても月曜日には連絡を寄越すはず。しかし火曜日になった今となっても、ネットショップの運営主から連絡は来ていない。
「もしかして……サギられた?」
私の胃の中に嫌に粘ついた冷たさが広がっていく。地震でもないのに足元が覚束ない。フラフラと揺れる体をなんとか動かしてベンチに座る。
だまされた?この私が?
そんな事はあっていいはずがない。この私が詐欺の被害者になるなんて!
私は認めたくない気持ちで一杯だったが、私の意思に反して私の指はスマホでネットショップ詐欺を調べ始めた。
【ネットショップ詐欺にあってしまったら】
・警察と銀行に連絡する
・メール、サイトのURL、振り込み控え等、可能な限り用意しておく
・預金保険機構で振込先の口座を確認しておく
【こんなサイトを利用しないようにしよう!】
・URLがhttps:ではないサイト
・漢字が旧字体、不自然な日本語
・極端に価格が安い
・支払い方法が銀行振り込みだけ
・住所が記載されていない
・携帯電話の番号とメールアドレスしかない
・預金保険機構に公告が出ている
「そっそんな……、いいえでもまだ詐欺って決まったわけじゃないわ」
そうだ。だってあのサイトは日本語はおかしくなかったし住所も記載されていた。きっとまだ入金の確認ができていないだけなのだ。そうに決まってる。
私はネットショップのメールを再度確認してみる。やはりそこまで不自然というほど不自然なメールとは思えない。きっと私が調べたサイトがおかしいのだ。
私は自分を落ち着かせるため、再度ネットショップ詐欺対策サイトを調べた。そこには先程見たものとは違う情報が載っていた。
・特定商取引法に基づく表記がないサイトはリスク大
・所在地が記されていてもそれが正しいとは限らない。gouguruearthで確認してみる。
・所在地は本物でも嘘表記の場合あり。(例:会社の所在地は北海道なのに会社名で検索したら群馬にあった等)
・責任者の名前が本物でも明らかに業態が違う。
・個人運営の場合、商品を撮影した背景が違うことが多いなら別サイトから勝手に写真を転載していることがある。
・登録されてる商品名をネットで検索してみる。他サイトや姉妹詐欺サイトがヒットする可能性あり。(例:フリマアプリで半年前に取引されていた内容。使ってる写真が同じ。詐欺サイトと同じレイアウトのサイト等)
・口座名義が責任者や担当者の名前ではない。口座名義が日本人の名前ではない。
「あっ……あっ……そんな……これ全部当てはまるじゃない」
嘘?ウソよね?ほんとに?私が詐欺被害?
私はここに来てようやく詐欺の被害にあったと自覚した。
私の素敵なお料理ライフは霞と消え去り、ただ騙されたという不名誉な屈辱の事実だけが残った。
許さない。
許さない。
許さない。
心には燃えカスみたいな灰しか残ってないはずなのに、クツクツ頭が熱くなっていく。損失感の足のフラつきはいつの間にか、熱暴走寸前の制御不能状態のフラつきになっていた。
いけない!このままでは目に付いた物を片っ端から蹴り飛ばしたくなってしまう!
壁にもたれてなんとか暴走しないよう両手で自分を抱いて押さえつける。コンクリートの冷たさが辛うじて私の自我を引き止めている。
高校時代に裏番と呼ばれ密かに恐れられたあの頃に精神が戻りつつあるのだろう。あんな淑やかでも何でもない大和撫子にもなれないアンパン吸って下品に笑って喧嘩に明け暮れていたあの頃に戻りたくなんて――。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「ああ、よかった。やっぱり響子さんだ」
私の目の間に差し出された手。
その手の先には新入社員の小山くんが立っていた。
「すごく体調悪そうな人が歩いてるなって思ったら響子さんに似ている人だったから……その、もしかしたらって」
「ありがとう。ちょっと立ちくらみしちゃって」
「無理しないでください。手、貸しますよ」
小山くんはそう言って私の腕を肩に担いだ。
普段は柴犬みたいな顔で人懐こく、他の若いだけで小うるさい女性社員からもチヤホヤされる小山くん。その隠れた逞しい男の一面を垣間見て、ドキリとしてしまう。一瞬だけ私の凶暴な本性が影に隠れた。そう、一瞬だけ。
ああ、なんて可愛い男の子なんだろう。まだ世間の汚さを知らない少年と青年の間をさまよう陽炎のような儚き青さ。できることなら私のこの手でグチャグチャに汚してみたい。
つい、そんないけない妄想をしてしまった。
だが私の心に隠れた獣はその一瞬の隙をついてこちらを支配してこようとする。
そうだ小山くんは私みたいなオバサンなんかじゃなくて、もっと若い女性社員と仲良くして、ゆくゆくは結婚して幸せな家庭を築くのだ。
(ならそれまでお前がこの男を一人前に育てるってのはどうよ?ゲヒャヒャヒャ!)
やめて!そんな言葉で私を惑わせないで!
(なあに、男なんて美人は三日で飽きるしブスは三日で慣れる。オバサンだって一週間もありゃ慣れるだろうさ)
あなた、小山くんを侮辱するの?彼をそこいらの男と一緒にしないで!
(開き直ってみるのもいいかもなぁ!セフレでいいってすがれば側に置いてくれるかもよ?ウヒャヒャヒャ!)
消えて!私の前から!そしてもう二度と出てこないで!
(わーった、わーったよ、我が主様。アタイは金輪際精神の表層部には出てこないでアンタの人生を眺めることにするよ)
もう一人の内なる私の声はからかうのに飽きたのか、嫌に素直に聞こえる声音だった。そして私の体で渦巻く制御不能なランダムな力のベクトルが徐々に消えていくのがわかる。
(ああ、そうだ。最後に良いことを教えてやるよ)
良いこと?なんだろうか?
(そいつとヤる時はコンドームに針で穴あけとけよ。ウヒャヒャヒャ!じゃーな!)
闇なる私は捨て台詞を吐いて私の表層意識から姿を消した。
内心舌打ちしながら静かに小山くんに身を寄せて、彼の匂いとぬくもりを楽しんでいたら、あっという間に近所まで来てしまった。
「響子さん、大丈夫ですか? やっぱりどこか悪いんじゃ」
「ええ、大丈夫。あ、あそこのマンションの三階。私の部屋だから」
「ここまで来たんだから部屋まで送りますよ」
小山くんはそう言って私を部屋の前まで運んでくれた。鍵を取り出し玄関のドアを開けると、彼は一言挨拶をして帰ろうとする。
「待って。せっかくここまで来たんだし、お茶でも飲んでからいきなさい」
「でも悪いですよ。響子さん体調悪いんじゃ……」
「じゃあそんな体調の悪い女を置いて帰るの?」
私はそう言って小山くんの腕を強引に引っ張って部屋の中に引きずり込んだ。そのまま腕を引いてリビングへ向かうとソファに彼を座らせる。
小山くんは驚いた様子で思考が追いついていないようだ。シメシメ。
「小山くん、喉乾いたでしょう? 何飲む?」
「あ……、じゃあお茶かジュースで」
「オレンジジュースならあるけど……、大人の男ならジュースよりカクテルになさいな」
「いやあの、僕そんなに酒は強くないので……」
へえ、良いこと聞いちゃった。
「大丈夫。ちょっとだけよ。ね?」
「じゃあ一杯だけ」
私はキッチンに立つと、手早くグラスと氷、オレンジシュースに塩、そしてスピリタスを用意する。そう、スピリタスだ。アルコール度数なんと九十以上。私は強烈なスクリュードライバーを作ろうとしているのだ。
グラスの縁に塩を付け、氷を入れてオレンジュースとスピリタスを半分ずつ注ぎ軽くかき混ぜて完成。
スクリュードライバーの別名はレディ・キラーというらしいが、今宵の名前はDT・キラーだ。
「すごい濃厚なオレンジシュースですね」
彼はそう言って大きなグラスを傾ける。
濃厚なのは当たり前だ。なぜならこれは業務用の十倍希釈タイプのものなのだから。そんなことも気付かずに、或いは早く帰りたいから我慢して飲んでいるのか定かではないが、小山くんは大口でガブガブ飲んでいる。アルコールはものの数分で身体中を駆け巡り、小山くんの思考と体の自由を奪うだろう。
「あぅ、おいしったです。ぼくきょうわもぅかえります」
「そんな、もう帰っちゃうの? もうちょっとゆっくりしていきなさいな」
そうやって問答しているうちに彼の思考はますます曖昧なものとなっていく。
「大丈夫? 酔っ払っちゃった?」
「あー、はい。すいません」
「いいのよ、ほら、暑いでしょ? 脱いじゃいましょう。こんなに汗かいて」
私はそうやって小山くんのスーツを脱がせ下着姿にすると、彼の手を引いて寝室へと誘う。
「すいませんきょうこさん。たいちょうわるいのに……」
「ウサギは寂しくなると病気になりやすいって知ってる? 女の子もね、寂しくなると体調が悪くなったりするの」
「そうなんですか……、しりませんでした」
「だから、ね? 小山くん、私のこと慰めてくれる?」
私は服を脱ぎ捨てると、ベッドに横たわる小山くんに覆いかぶさる。
「ねぇ、小山くん。もしデキちゃっても責任取ってくれるわよね」
「せきにん? はあ、よくわかんないけどとります」
「そう、じゃあたくさん気持ちよくしてあげる」
ワンナイト・メイク・ラヴ。
私主導の夜の新人研修は、それはそれは濃密なものになった。
――二週間後。
「ねぇ、小山くん。ちょっとこっち来て」
「うっ、きょ響子さん……」
あの夜以来、小山くんはすっかり私を見ると萎縮した態度になるようになった。今も周りをキョロキョロ見渡して私の後に付いてくる。
給湯室に入るなり誰もいないことを確認して、私は小山くんの前に妊娠検査薬を突き出した。
「あの日の約束、覚えてるわよね?」
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