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路也の婚約解消の意志は固かった。 風悠との事も馬鹿正直に両親や真冬の家にも話すと言ったので、それは真冬が止めた。 そして真冬も、この際正直に話した。路也を差し置いて、女性‪α‬を探していた事。路也をもしもの時のキープ扱いしていた事。 路也に家を出て離れていかれて初めて、路也の存在の大きさに気づいた事。 路也を想う気持ちが大きくなり過ぎて、今更遅いと思っても、どうしても会いたくて堪らなくなってしまって、来てしまった事。 真冬の話を路也は複雑そうに、でも納得したように黙って聞いていた。真冬の気持ちが本当に路也に向き始めたと知った時には少し瞳を揺らしたが、それでも真冬を受け入れる事は出来ないと言った。 真冬は、路也の気持ちを尊重する事に決めた。 残念だけれど、仕方ない。真冬は遅過ぎたのだ。 そしてその夜から一ヶ月の内に、路也は地元へ話をしに戻り、正式に婚約は白紙に戻された。 双方の両親はごねたが、結婚も番も結局は2人の問題だ。第三者が無理強いして番には出来ない。 親同士の間での事は、親同士で解決するように。子供を巻き込まないようにと言い置いて、路也は都会へ戻っていった。 路也を新幹線のホームで見送った後、自宅に帰ってから、真冬はある事を決めた。 一ヶ月後、大きなボストンバッグ1つだけを荷物に、真冬は家を出た。 首都に行く、暫く帰らない。定期的に連絡はするから心配しないで。 出かけに母にそう言うと、少し顔を見つめられて、にこりと笑って行ってらっしゃいと言われた。 婚約を白紙にしてからの一ヶ月、周囲は腫れ物に触るように真冬に接していた。母だけが何時もと変わらず、それでも時折、物言いたげな顔で真冬を見ていた 。 そして今日、首都に行くと言った真冬に、母は笑って行ってらっしゃいと言った。多分、母は真冬の気持ちを察していて、何をしに行くのかわかっているのだろう。 一ヶ月前と同じように駅に向かい、新幹線に乗った。時間帯だけは、あの日とは違って昼過ぎだ。 夕方になる前には首都に着いて、タクシーに乗った。 向かった先は真っ直ぐに路也のマンションだった。 けれど、婚約者でも恋人でもなくなった真冬の手に、もうカードキーは無い。 路也が退勤して帰宅する迄には未だ間があった。それを見越してこの時間に来たのだ。オートロックで部屋番号を鳴らしても、真冬だとわかると門前払いされるだろうと思ったから。 真冬は、路也が帰って来るのを近くのガードレールに座って待った。 真っ直ぐ帰ってくるかもわからないのに、真冬の暮れ行く空の下、凍えるような寒さの中で。 ―――2時間以上も待っただろうか。 かじかんで体がガチガチに固まってしまいそうになって、マフラーに覆われた唇が震え始めた時、寒さと疲れに目を伏せてしまっていた真冬の前に誰かが立った。 「何で居る?」 グレーのコート姿の路也が、少し険しい顔で立っていた。 「おかえり。…どうしても、会いたくて…。」 普通に話したつもりなのに冷え切って歯の根が合わない。路也はそんな真冬を見て眉を寄せて、横を向いて小さく舌打ちをした。 やはり迷惑に思われた。 路也は真冬に興味なんか無い。少し落ち込んだが、想定内の事だと気を取り直した。 「あの、路也…、」 「帰れ。」 言われると思った。目に涙の膜が張る。でもグッと堪えた。直ぐに泣く軟弱な男だとこれ以上思われたくない。あの風悠という彼だって、辛かっただろうに真冬と路也の前では涙なんか見せなかった。傷ついた筈なのに。 真冬は風悠の潔い去り際を見た時から、嫉妬と同じくらいその強さに憧れを抱いている。 強くなりたい。Ωでも、‪α‬や誰かの庇護だけを期待するばかりの人間ではいたくない。祖父の顔色や、世間の目ばかりを気にして生きるのは辞めたい。 やっと自分の中に生まれて育ってきた、好きだという気持ちをこのまま葬り去りたくない。脈がなくても希望がなくても、出来る限り足掻きたい。 自分は未だ何一つ、路也の為に努力なんかしていない。 「帰らない。」 真冬は言い切った。 「傍に居たい。」 「…迷惑だ。」 「わかってる。でも、居たい。」 凍えて疲れて、舌が縺れる。それでも真冬は真っ直ぐに路也を見つめて、ハッキリと告げた。そんな姿は初めてで、路也は少したじろぐ。 真冬の中で何かが変わった、それはわかる。だがそれがわかったからと言って、路也には今更どうしてやる事も出来ないというのに。 「…俺は真冬の期待には答えられない。」 「良いんだ。只の幼馴染みで良いから、傍に居たい。」 そんなのは方便だ。でも、今はどんな手段を使ってでも路也のテリトリーに入り直す必要がある。 「…幼馴染みって…無理だろ…。」 溜息を吐きながらそう言った路也が、色を失った真冬の顔色に気づいた。 「真冬、何時から此処に?」 「…わかんない。多分、2…3時間前?」 狡いと思ったが、ちゃっかりサバを読んだ。でもそう変わらないだろう。 「何でそんなに…。」 血の気が引いて最早蒼白になった頬に、路也の温かい手が触れた。真冬の肌の冷たさに一瞬ギョッとした顔をして、焦ったように撫でてくる。 「おいで。」 路也は真冬の手を引いてマンションのエントランスへ向かった。真冬は素直に、嬉しそうについてきた。 気は進まないが、こんな夜の寒空の下に真冬を放り出す事は出来ない。風邪でも引かれたら寝覚めが悪い。それに真冬は地元からあまり出た事が無い。 慣れない土地でとびきり綺麗なΩがフラフラ彷徨っていたら、あまり良い事にはならない気がする。 「…今晩だけだぞ。明日には家に帰りな。」 「……。」 恋が消えても、長い付き合いの幼馴染みである事には変わりない、と路也は自分の行動に言い訳をする。 手袋越しでも冷たい真冬の手に、切ないような気になるのは、兄弟のようなものだからだ、と。 真冬は嬉しかった。路也が自分を気遣ってくれるようになった事が。 繋いでくれた手の体温が愛しい。 あざとくても狡くても良い。この冷酷になり切れない優しい男を、どんな手を使ってでももう一度振り向かせたい。 「路也、好きだよ。」 真冬の手を引いて少し前を歩く路也の背にそう言った。 路也はそれには答えてくれない。聞こえたのかどうかもわからない。 でも今はそれでも構わなかった。 何時かはきっと、雪解けの時が来る。 またふたりに戻れる日が来る。 真冬はそう信じて、路也の手の温もりに微笑んだ。
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