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カードキーを受け取って一晩悩んだ末に、真冬は覚悟を決めた。 仕事を終えてから直ぐに駅に向かい新幹線に飛び乗った。今からでは遅くなるだろうが、少しくらい構わないだろう。自分は婚約者なのだから。そう自分に言い聞かせながら、心を奮い立たせた。 未だ遅くない、路也の腕の中に飛び込めば、きっと彼の心を取り戻せる筈だ…。 首都の駅に着いてからはタクシーに乗って、教えられた住所を告げた。 マンションのオートロックを抜け、高鳴る胸を手で押さえて路也の部屋のドアの前に立った時、インターホンを鳴らすか迷った。迷った末に、やめた。驚かせてやろうと思ったのだ。 真冬が会いたくて来た、と素直な気持ちをぶつけて抱きついたら、路也は喜んでくれるだろうか。 だが解錠音の後にドアを開けた時、まず目にしたのはサイズも趣味も全く違う2足の靴だった。 嫌な予感がした。 時刻は夜21時にもう少しという頃。玄関を入った先の廊下の電気は点いていないが、奥に見えるガラスドアの向こうは明るい。リビングだろうか。路也はそこに居るのだろうか。この時間だから、未だ寝ているなんて事は無いと思うから、きっと…。 少し逡巡しながら靴を脱いだ時、小さく、甲高い声が聴こえた。 (…?) 靴を揃えて、ずり落ちかけた荷物を肩に掛け直した。だが、奥に向かって廊下を進んだ時、右手のドアの向こうから声と音が聴こえた。そして、それが情事のものである事を理解するのに時間はかからない。 震える手で、ドアノブを握って、開けた。 『子供出来たら番になれば良いだろ……くっ…、』 『ほ、ほんとぉっ?うれしい…ああんっ、いくぅっ!』 開けた途端に聴こえたのは、路也の声と…聞き覚えの無い、少年のような声の嬌声。 部屋の奥側のベッドの上で縺れ合っている2人の姿に目が釘付けになった。 自分の婚約者が他の人間を抱いているその状況に、呆然とする。浮気…。何故。何故? しかも、路也が抱いている男がΩである事は、容姿の特徴から明らかだ。 Ωを。自分以外のΩを、あんなに激しく。 真冬は全身から力が抜けるのを感じた。 『……路也…なに、してるの…。』 やっと絞り出した声は、みっともなく震えてしまった。 それからは、瞬く間だった。 浮気相手だとばかり思っていたその少年のような青年は、どうやら路也に真冬という婚約者が居た事自体を知らなかったようだった。 可愛らしい見かけを裏切り、気性が激しいようで、状況を把握すると直ぐに真冬に謝罪し、路也をぶった切って帰っていった。 意外に凛々しかったその後ろ姿を見送ってから、真冬は路也を平手打ちした。 けれど…。 路也が自分の存在を隠して相手を探していた事に、真冬はショックを受けた。 いないものと扱われるのは、こんな気分なのか。 だが、それで路也を責める資格が自分にあるだろうか。 真冬の方が先に、路也という婚約者の存在を隠して‪α‬の女性を探していたではないか…。 真冬は見合いだけで体の関係を持った訳ではない。けれど、体の関係の有無以前の問題な気がした。 路也の心が真冬から離れたのは、間違いなく真冬の行動の結果だ。 許そう、と真冬は思った。 許して、ここからまた始めれば良い。大丈夫、だって真冬と路也はほんの小さな頃からの付き合いで幼馴染みなのだ。 自分が許せば、きっと路也だって許してくれる。 何時ものように少し溜息を吐きながら、結局は苦笑しながら折れてくれる。ずっとそうだったんだから…。 けれど、真冬の期待は裏切られた。 『いや、許してくれなくて良い。浮気じゃなかった。』 『あいつとは、本気で番になろうと思ってた。』 冷めた表情をした路也の口から出たのは、そんな言葉。 さっきは言い訳してくれた、それは真冬に気持ちが残っていたからだと思ったのに、違うと言うのだろうか。 『真冬には自分のプライドが一番大事だろう。』 言われて言葉が出て来なかった。確かにそうだったからだ。でも、でも今は…。 『真冬。恋も情も、目減りしていくものだよ。 最初からそんなの持ってない真冬には、わからないだろうけど。』 見抜かれていた。あの頃の真冬が、路也に気持ちなど無かった事を。 想いを散々伝えてくれていた路也を蔑ろにしてきた過去を悔いて、真冬は只、泣いた。 その後、路也は緊張した面持ちで誰かに電話をかけた。先程の経緯を伝えて謝罪していて、呆然としながら聞いていた内容から、どうやらその電話の相手が浮気相手の彼との仲立ちをしたらしい事がわかった。 路也が彼と、本当に真面目な付き合いをしようと考えていたのだとわかり、胸が重苦しくなる。また涙が出てきた。 電話を切って30分も立たない内にインターホンが鳴り、姿を現したのは見覚えのある人物だった。高校の頃、一学年下に居た有名人、西谷だった。‪相変わらず一目でα‬だとわかる威圧感のある風貌だ。 そんな男が、玄関から上がりリビングに足を踏み入れた瞬間に路也を殴りつけた。あっという間の事で、止める間もなかった。 我に返って止めに入ろうとしても、とにかく西谷の連打が速い。抵抗もせず殴られ続けて見る間に顔が腫れていく路也に、真冬が泣いて西谷の背にしがみついて、やっと止めてもらえた。 西谷は、真冬と路也の関係を知らなかった。当然だ。真冬は路也と付き合っている事を隠していたのだから。 『近い内に真冬との関係は精算するつもりだった。けれど、その前に風悠に出会ってしまった。 風悠との関係が深まるにつれて、早く真冬との婚約を解消したいと思った。だけどその話をしようと思った時、実家の会社が真冬の家から資金援助を受けているのを知って、どうして良いのかわからなくなった。』 滔々と路也が話すのを聞いていて、胸が苦しい。 そんなに本気だったのか、あの風悠という彼に。 真冬に見切りをつけて、彼と番になるつもりだった…。 真冬が路也を蔑ろにしてきた事を知らない西谷は、路也の隣で泣く真冬に、只同情してくれていたようだった。 『風悠君は余の大切な親友だ。その彼を傷つけたお前を、俺は許さない。でも… …ちゃんと話せ、2人で。』 最後に、腫れ上がった顔で正座する路也を何故かスマホで撮ってから、西谷は帰って行った。 静かな部屋の中で、取り残された2人。 真冬は立ち上がり、キッチンやあちこちを探し回ってボウルに氷水を作って来て、その中に浸したタオルで路也の顔を冷やした。 あんなに端正な路也の顔が痛々しく腫れ上がり、唇の端からは血を滲ませて。 おそらく西谷はあれでも加減していたのだろうが、それでもこれだけ酷い有り様だ。 『これで済んでまだマシだ。俺は処女だった風悠を傷つけた。本気で番になる相手を探していた子だったのに…俺は酷い事を…。』 路也は確かに結果的にあの彼に酷い事をした。何も知らず何の罪も無い風悠は、単なる被害者だ。 でも、真冬だって辛い。言う資格は無いかもしれないけど、辛いのに。 真冬は、路也の心の中を占めている風悠に、嫉妬を抑えられなかった。 被害者の彼にそんな感情を持ってはいけないと思っても、嫉妬で苦しくて、泣きながら路也の顔を冷やした。
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