十八歳

9/9
59人が本棚に入れています
本棚に追加
/25ページ
 四月、桜は母ちゃんとの再会の日を忘れさせるほど満開に咲き誇り、豪雨のように花びらを降らせている。バイト終わりの俺を迎えに来てくれた洋一と懐かしい並木道を歩いていた。 「元気にやってるか?」  それほど久しぶりでもないはずのその声は夢の中にいるんじゃないかと思わせるほど懐かしく安心する声で、隣の顔を振り向けば泣いてしまいそうだ。 「うん…」  隣から匂う煙草の煙も懐かしく、あの時俊也からの誘いで吸わないで良かったと改めて思った。一か月ぶりに再会して喫煙者になってしまっていては会わせる顔がない。 「母ちゃんも楓も、元気。洋一さんのおかげ」 「そんなことない。俺も零と楓に教えてもらったことあるんやで?」 「なんも教えてへんで」 「愛するって愛されることって、気づかされたんよ」 「どういうこと?」  つい振り向いてその眼を見てしまった。前を向いて歩いているはずなのに、どこか別の何かを見つめているような、悟った優しい虚ろな目をしていた。 初め会った日の彼の目は、父親と同じ目をしていた。髪型や体型、話し方もまるで違うはずなのに、当時は父親の魂が乗り移ったのかと思うほど同じ雰囲気があり恐ろしかったのを覚えている。今どこで何をしているか、生きているのかさえわからない父親も、もうあんな目をしてなければいいと、馬鹿だけど思った。お前どんだけお人よしやねん、と過去の俺に殴られようとも。 「自分が愛したいと思う人って愛されたいと思うやろ?なら、まず自分が愛すことって気づかされたってこと。それが恋人や家族じゃなかったとしてもな」  その顔は遠くを眺めたままそう言った。 「愛すって何をしてええかまだよくわかってないけど、側にいればそれでええんかな」 「側にいれば…か、そうやな、ちゃんと相手の目がわかるならええかな」 「目がわかる?」 「人の目っていうのは心の出口や。相手の目で心情を察せれる間は、まだ繋がれてる、愛があるってことやと思うんよ。案外、人と人の縁は簡単に切ってしまえるもんなんよ、無心になったらな」  人の目。心の出口。俺にはまだよくわからなかったけれど、簡単に切ってしまえるということだけに共感を得れたことが虚しかった。自分の過去の行いを振り返ってみても、確かにそうだ、と思い当たるふしがある。口元を隠していようが言葉を話すまいが、ただのうのうと生きてるだけで零れ落としてしまっている感情というものは厄介で仕方ないけれど、人が生きるということは、零れ、拾われ、魂を生み、醜く美しい生き様に変え、波乱を繰り返す。  零や楓を見てきて、俺は本当に変わっただろうか。洋一さんと慕われ幼い涙さえ見たあの時間は尊い。けれど、本当に変われたのだろうかと不安に思ってしまう自分がいる。だからと言ってネガティブに波乱万丈な人生だと吐き続けるくらいなら、酒を注ぎ、煙草を吸って過去の自分に浸りたい。  煙草の味は美味しい。それは時と場合によるものだと言ったけれど、結局は美味しいと締めくくってしまった自分の発言が情けない。零が大人に変わってゆく過程を見守ってやりたい気持ちもあるのは嘘ではないけれど、大人になってほしくないとも偽りなく思ってしまう。今この一秒、一瞬も彼は間違いなく世を知ってしまって大人という化け物に変わってしまっている。それがあまりに切なくて、乾かない青春はないのだと思い知らされる。あの母あっての息子だとは到底思えない、思いたくもないのに、あの母がいなければ零は愛を砕いて砕いて顕微鏡を覗かなかっただろうと思うと、俺は一人っ子じゃなくて良かった。それは零にも楓にも当てはまる。  どうか愛してやってくれ。  十八歳。もう大人の仲間入りだなんて言われるけれど、わからない。十八年も生きていれば大人がわかるだろうと偏見な目で見下ろしているのは誰だ、と下から睨みつけてやりたくなる。わかった、あれが大人でええんやな、とむきになってしまったら、俺が見てきた大人達は多重人格すぎて一人の背中を見ていたって、何重にも滲んでぼやけてまともなお手本にもならない。  洋一さんですら、黒から灰色に化けた瞬間なんて、黒色にしか映らなかった。熱いものにそっと指先を伸ばして怯えながら触れて、冷めるまで何度も何度も指先しか触れられない。そんな心情で影に身を潜めて、ようやく白に塗り替わったのだと確信を得てもなお、白を厚塗りした黒だという認識は消えない。色素変化するほどどっぷり両足をヘドロに浸けていた子供は、せめて転んで両手まで浸けてしまわないようにバランスをとりながら、出口へ波を立てて歩くしかない。こんなことを断言してしまっては、お前も子供心を偏見で見ているじゃないかと野次が飛んできそうだけれど、俺はこんな思考で自己嫌悪しているわけじゃない。むしろ糧だと思って話している。鞄についている熊のストラップだって、美味しくない母ちゃんの手料理だって、洋一さんからもらったお尻の痛みだって、その後の優しい言葉だって、全部今では愛というものへの道の一つで、それは遠回りに見えるけれど、そもそも近道などないのだから、それでいい。  兄ちゃん。兄ちゃんの我慢、全部知ってるよ。母ちゃんの言葉を何度もひとりで受けて僕に流さず耐えてくれてたこと、その後に見せる僕への笑顔の裏には涙があること、全部知ってる。でも本当はこうやったんやろ?なんて僕が言ってしまったら、兄ちゃんがおかしくなってしまう。だから僕は、この目で見ていない光景は全部知らないふりを続けた。それが僕が兄ちゃんにできる精一杯の協力だったから。  僕のせいで、兄ちゃんはずっとひとりぼっちだと思ったかもしれないと思うと、僕がお尻をぶたれれば良かったと今でも思う。兄ちゃんが余裕の顔を僕に見せたあの夜、先に寝た兄ちゃんのパンツを下ろして真っ赤に腫れたお尻をこっそり見たことがあった。兄ちゃんの身体は筋肉質でもなければ細い体型をしている。僕より十歳も年上でも、その小さいお尻を見てしまった時は声を我慢して泣いたのを覚えてる。一緒にお風呂に入った時だって、背を向けないようにしてお尻を隠していたのかもしれないけど、たまに見えてしまう青くなった痣が申し訳なくて見て見ぬふりをしていた。お湯を顔にかけるふりをして涙ごと流したことが何度あったか。  兄ちゃん、ありがとう。大きくなったら僕も兄ちゃんを守れる男になる。  私、あんたら二人に何をしてあげられるんやろか。何をしてあげてきたか、なんて過去形で問う残酷なことはしたくない。私は母親失格。そんなことは言われるまでもなくわかっている。実際、あの子たちに酷い醜い姿を見せていた時も、深夜になると自分を悔いて、割れたガラスの破片で首を切り裂こうと何度思ったことか。ただそんなことをしてしまっては、母親失格どころか、死んでもなお人間ではない何者かになってしまう気がして恐ろしかった。そのおかしな恐怖心に今では感謝してもしきれない。私は今、過去のそんな思いからしか自己肯定感を上げられない。自分でも変だと思っているけれど、懺悔が糧というのも格好良いかもしれないと、今を維持している。  私たち兄妹は、紛れもなく零と楓に救われた。私は本物の天使を生んだと思う。よく絵画で見るような、裸の少年に翼が生えたあれ、まさにあれだ。休日に一人で美術館に行き、そのような少年が描かれている絵画を見ては不思議な気持ちになった。真っ白のシルクのようなワンピースを着た女性が大きく描かれ、その上に裸の天使の子供が二人。その女性絵は一切見ず、絵全体の二割ほどしかない大きさの天使だけを、ずっと憑りついたように見惚れていると、一人の男性から声をかけられた。 「この絵が、お好きなんですか?」  振り向かなかったけれど、その男性の声から推測するに五十代くらいのおじさまだったと思う。 「この天使の子供たちが、息子にそっくりに見えて」 「そうですかぁ、優しいお子さんなんでしょうな」 「はい…」  男性も同じ絵をしばらく眺め、どんな姿をしているかもわからないそのおじさまに、独り言のようにこんなことを聞いた。 「ただ愛したいって自分見失うやろか」 「愛したい、そのお気持ちは、暖かいものですか。冷たいものですか」 「わかりません……でも、暖かくしたい」  返事はなかった。けれど、わかりませんという言葉に疑問を抱かずに、足音は遠くなっていった。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!