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中学生
嗚咽と汚い啜り音と重たい空気が磨りガラス越しに透け、右手を止めた。数秒後には甲高い女の怒り声が響いてくるがもう動じない。
「もう泣くなや面倒臭い!」
長い溜め息が鼻から抜けていく。右手はドアノブに引っ掛けたまま、俯いて目を閉じた。もう動じないが、胃は慣れてくれないようでキリキリ痛む。まだ大きい学ラン制服の裾が床に着き、覗く白い靴下はもう灰色に汚れ始め毛玉は愛着の数だけ付いている。蒸れた靴下と汗でひっつくシャツが気持ち悪い。
「泣くならリビングから出て行け、うるさいわ」
そろそろ限界か。泣いてるあいつも、ここで耐えてる俺も。右手がやっと動き出しリビングのドアを押し開けた。
「なんや、またなんかやらかしたんか」
ただいまは言わず、もう慣れた光景にまともに瞼を開けたくない。母親はカーペットの上で卓袱台に肘をついてテレビを見ている。弟はキッチンの裏で膝に顔を埋めて蹲り、嗚咽しながら泣き喚いている。
「かあちゃん、が...あそんで、くれへん」
ひっひっと過呼吸気味に声を漏らしながら涙と鼻水を垂れ流しにしている。
「楓、こっちきー」
学生鞄を左手に持ち変え、泣きじゃくる楓の左腕を無理やり掴み立ち上がらせた。返事はないけれど素直に立ち上がった。幼稚園の薄水色の制服が涙やらなんやらで袖の色が濃くなっていた。
「母ちゃんもいい加減そんなに言うたるな」
振り向きもしない母親を尻目に投げかけるように放った。テレビの音量だけ上げて無視をする母親に呆れる。
二階にある自分の部屋へ入れ、学生鞄を雑に床に放り楓を目の前に座らせた。肩を掴んで目線の高さを合わせて静かに喋った。
「ええか楓、母ちゃん当てにしたらあかん。まだお前が甘えたいんもわかる。けど毎回あんな態度で言われたらお前も悲しいやろ。母ちゃんも仕事で疲れてるんや、ほっといたれ」
泣き声は収まったが鼻水は垂れっぱなしで目も頬を赤い。まだ五歳の男の子が母親に甘えたくないわけがない。自分だってそうだった。俺も小さい頃は同じだった、だからお前も我慢しろとは言えなかった。思ってすらいない。だが正直なところ今は落ち着いた方なのだ。楓は知らないだろうけど、離婚する前の荒れた両親の間に板挟みになっていた俺と比べればまだ。
「兄ちゃんが家におる時は兄ちゃんに甘えてくればええ、おらん時でも好きに部屋入りや、母ちゃんにあんまり、あんまり...甘えんとき」
強く抱きしめてやった。俺が楓の歳頃にして欲しかったこと。
五歳の弟にこんなこと言いたくなかった。でも楓には必要以上に母親との記憶を残酷にさせたくない。まだ中学生の餓鬼が偉そうに言えることではないかもしれないけれど、幼い記憶を忘れたい、消したい過去にしない方がいい。俺には出来なかった。仕方なかったけれど、こんな胸糞悪い感情、抉り取ってしまいたい。
「れいにいちゃん、ここ、どしたん?」
抱きしめられたまま右の人差し指で首裏を突いている。
「ああ、なんでもない。気にせんでいい」
そこに痣があることに気付かされた。自分では見えない位置だが身に覚えはあった。だがそんなことは今はどうだっていい。楓が落ち着くまで一緒に居て、着替えるのだって後回しでいい。
「楓、風呂は入ってないんか?」
「うん」
幼稚園でたくさん遊んだんだろう。汗の匂いが仄かにする。
「なら一緒に入るか」
母親を刺激しないように静かに階段を降りて洗面所に向かった。リビングからは変わらずテレビの音しか聞こえない。缶ビールを三缶開けていたからもう寝ているのかもしれない。先に楓をお風呂場へ行かせてリビングのドアを音を立てずに半開きにさせ片目で覗くと、カーペットの上でタオルケットを掛けてねむっている。忍足で降りることすら杞憂だった。
先に楓の身体を洗ってやり、浴槽へ入らせた。一緒に入浴する時は必ず楓の身体をチェックするようにしている。こんなこと考えたくはないが、幼かった僕と同じ目にあっていないか見ておかなくてはいけない。子供の傷は外傷だけで済まず、胸の裡深くに恐怖という穴を容赦なく空けてしまう。恐らく生涯戦って行かなければならないほどに。
「俺がおらん時の母ちゃん、どんな感じ?」
三角座りで向かい合うと、湯船は溢れる寸前まで上がった。四十一度の湯がじんわり汗をかかせる。
「しずか、ずっとテレビみて、なんかようわからんの飲んどる。あれうまいんかな」
両手で筒状を表現して缶ビールを表しながら俯いて喋っている。
「そっか、あれ飲んだらあかんで」
「なんでなん?」
「阿呆になる」
流石にお酒を勧めたりする馬鹿ではないと思いたいが、馬鹿親ではある。毒親でもある。信頼はできない。幼い俺に煙草を勧めてきた父親の元女房だ。信頼できるわけがない。
これ以上汗が出ないくらい湯に浸かり、楓も真っ赤な顔をしてきた頃、もう上がろか、と先に立ち上がると俺の膝に手を重ねてきた。
「今日もれいにいちゃん、先に寝てまう?」
上目遣いで甘え口調でそう言った。
「わからん、なんでや?」
口元に手を添えて、しゃがんで、と手招いた。
「れいにいちゃんが寝たあとな、下から知らんひとの声きこえてくるんよ...あれ、こわい」
囁くように言った楓の目は助けてほしいと言っているみたいに垂れ目になっていた。テレビの音ちゃうか、と言いそうになったけれど突き放すわけにはいかない。俺がこいつの世話を面倒くさがって突き放したら誰を頼って生きていくんだ。それこそ深手どころではない。
「わかった、楓が寝るまで起きといたるから、安心し」
ありがとうは言わないけれど、その笑顔で充分伝わる。逆上せるで、と濡れた髪に手を添えて立ち上がった。五歳児の身体など覆ってしまえるようなバスタオルで身体を拭き、入念にタオルで髪を拭き乾かさずに洗面所の電気を消した。
部屋に戻り常夜灯にした薄明かりの中、スマホを開いて某動画サイトを開いた状態で、セミダブルのベッドに潜り込んでいる楓に渡した。小音量で聴こえてくる子供向けアニメの音声を横目に、放ってあった学生鞄を開いて整理した。明日の持ち物の準備や、中に入れてあったお菓子やパンのゴミを捨てまた床へ放置した。
「何見てるん?」
隣に潜り込んで仰向けになり画面を覗き込んだ。
「これなー、きのうから見てたやつ、めっちゃおもしろい」
ずっと俺といる楓はもうスマホの操作なんて朝飯前。何でもかんでも覚えているわけではないけれど、見たいアニメを見ることくらいは教えてやればすぐに覚えた。
お風呂上がりの火照った身体を寄せ合うには少し寝心地が悪い季節になった。布団の中でひんやり冷たい場所を裸足で探るのに忙しい。
「れいにいちゃんあつい」
パジャマの短パンから覗く脚が何度も触れ合い、布団の中はもわっと蒸れはじめていた。
「あついんは俺も一緒や、足だけ出すなりして我慢し」
熱を逃すために頻繁に動く楓が持つスマホが揺れてよく見えない。昨日から見始めたそれは途中から見てもわからないが、ただ目を瞑って眠りを待つよりずっといい。暗闇の中にいると余計な事を考えて疲れる。スマホがある現代なら眠る前はできるだけ別世界へと入り込んで、嫌なことは思い出さずに眠った方が悪夢に邪魔をされないで済む。
いきなりスマホが顔面の真横に落下し、隣を振り向くと楓は眠っていた。そのまま流れ続ける内容も知らないアニメを一人で見続けうとうとしてきた頃、一階からピンポンが遠目に聞こえ玄関が開く音も聞こえた。何やら母親が誰かと話している。会話の内容は聞き取れないが、こんな夜遅くに誰と会っているんだ。楓が言っていたのはこれか、と静かにベッドから降りてドアを半開きにした。
「子供たちもう寝てるはずやから上がって。あ、しずかーに上がってや、バレたら面倒臭いし」
母親の声だけ聞き取れる。知らぬ誰かはそこから喋らずリビングへと入っていったみたいだ。
「ほんまに、阿呆ちゃうか...」
子供にバレたくないなら墓場までバレずにやり過ごせと思ってしまう。まだ中学生と幼稚園児の子供を育てとる身で、これ以上要らん心配かけるなと内心叫んでいた。
手首から先に神経を集中させ音を立てずにドアを閉め、またベッドへ潜り込んだ。起こさないように。
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