中学生

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 知らぬ間に寝落ちた二人をスマホのアラーム音が叩き起こした。寝ぼけ眼を必死に開け手探りで音の鳴る方へ手を伸ばし、音を止める。楓の耳には一切届いていないらしい、まだ寝息が真横から聞こえる。一定間隔で耳にかかる寝息がまた眠気を誘い、二度寝してしまいそうになる。瞼と上半身を無理やり持ち上げ、可愛らしい顔して眠る楓を揺さぶった。 「楓、もう朝やぞー。起きやー」  アラームに起こされた瞼はどこか腫れぼったい感じがして眼の奥が痛む。目を擦りながらもう一度揺さぶると、んー、と呻いて腕を退かされた。諦めてベッドを降りて学ラン制服に着替え、洗面所へ顔を洗いに行った。閉まったリビングの向こうからは朝のニュースの音声が漏れている。  歯も磨き終わりリビングに顔を出すと母親はまだパジャマで気怠げにテレビを見ていた。 「おい、楓送ったってや。俺今日はよ行かなあかんし送ったれんで。聞いてるか、もう俺行くからな」  ろくに返事もせず肘をついて珈琲を飲みながらテレビを見ている。呆れたように睨みつけドアを閉めた。  朝食は食べない。というよりあの母親に作ってくれとも頼めるはずもなく、ギリギリまで寝ている自分が作るわけもないので腹の虫を毎朝聞こえない振りして出て行く。  片道二十分の通学路、生温い風を切りながらペダルを急がせた。夏は通学だけで体力を持っていかれてしまう。ここは田舎だが、コンビニまで数時間と言うような田舎じゃない。数十分走らせればスーパーも飲食店も雑貨屋も見えてくる。自宅がある住宅街を抜けるとしばらく左右に田んぼや林など自然豊かな風景が現れ、もうしばらく行くとコンビニから徐々に店が見え始める。  前方に暁斗の後ろ姿が見えた。肘をハンドルに置き前傾姿勢でゆらゆら自転車を漕いでいる。立ち漕ぎに変えてケイデンスを上げ、背中を追う。 「アッキー、おはよ」  横並びになって声をかけると、眠たそうに挨拶を返してきて欠伸をした。いつも寝不足みたいに瞼は半開き、見るたびに欠伸している。 「昨日も遅くまでゲーム三昧か?」  ああ、と適当にあしらう彼はまだ半分寝ているらしい。登校中はいつもこうだ。何事でも熱中できることがあるのは羨ましい。我が家でそんなことしてる余裕があるなら苦労してない、とつい卑屈になってしまう。彼は一切悪くないのに勝手に内心むかむかする。  それ以上の会話はなく、ただ同じ空気を漂いながら学校に着いた。門を越えると駐輪場に入り暁斗と隣に停め、手だけ振って別々の教室へ向かった。暁斗は三年二組、俺は三年一組。一度も同じクラスになることはなかったけれど、小学校で友人になってから今まで喧嘩もせずよく遊んでいるし学校でもよく話す。  教室に入ると黙ったまま席に着き、腕を枕にうつ伏せた。クラスに仲のいい奴なんていない、唯一の友人が暁斗なのだ。外交的な奴らは誰とでも群れて騒がしくしているけど、正反対な性格の俺がそこの輪に踏み入れることはあるはずもなく、こうして今日も閉じた視界から学校生活が始まる。そういう奴らの誰とでも、とは誰とでもではない。外交的、もしくは外交的を装っている者のみを指す。必死に着いて行こうと無理やり声を荒げて笑う様は見事なものだ。俺には到底できない。馬鹿馬鹿しい。親の顔が見てみたいなどと抜かした暁には、それこそ見事なブーメランが襲う。 「それは...まぁわかるけど」  給食の時間が終わり、満たされた胃を抱えて暁斗の教室を訪れた。二階と三階の間、くの字に上り下りする階段の真ん中でだべっている。 「多分そいつらにこの会話聞かれたら、それこそもっと俺らは窮屈に潰されるんやろな。あの集団の目の怖さったらないもん」 「それな」  暁斗は決して聞き上手とは言えないけれど、この適当さが心地良くて好きだ。ただ聞いてくれているということがわかる反応さえくれれば吐き出せるのだ。本当は俺なんかよりももっと饒舌で、脳内では言葉が溢れているタイプな気がする。それを料理した上で選考された一番無難な味を差し出しているのだ。勝手な妄想に過ぎないが。  数秒沈黙したあと。 「弟、元気?」  ポケットに手を突っ込んでぶっきらぼうに聞いてきた。 「おう、元気にしとるけど、どしたん急に」  横顔は相変わらず目が見えない。長い前髪に短めの後ろ髪。さらさらな黒髪。容姿で判断するわけではないが、この美形男子があの集団と連んでいないのがたまに不思議に思う。 「いや...お前、疲れとるやろ」  急に振り向く美顔に狼狽して不自然に下を向いてしまった。 「なんで..?」 「顔にそう書いたる」  睡眠はしっかりとってるはず、隈はできてないはず。鏡でしっかり自分の顔を見ることも少ないけれど、そんなにやつれたかな。脳裏に母親の後ろ姿が浮かぶ。 「楓は、元気やから」  昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。 「お前んとこの家庭事情はなんとなく聞いてるけど、無理しんときや。そんな顔してたら歩美にフラれるで」  言い終わる前に歩き出し、階段を上がる猫背を見届けながら。 「うるせーよ...」  聞こえないように囁いた。  土日以外は毎日学校へ行ってるはずなのに、久しぶりに思い出した気がした。安座間歩美という三年二組の女の子を。  中学生に上がった初日、隣の席だったその女の子に帰り際声を掛けられた。 「あの、あなた、名前なんて言うの?」  鞄を持って立ち上がろうとした瞬間に止められた。 「青柿零」  彼女は目を合わせない。ずっと俺の机を見たまま顔を上げようとしなかった。 「ふぅん...青柿くんね。私、安座間歩美っていうの、よろしく」 「よろ、しく」  最初交わした言葉はそれだけで、歩美もその後すぐに教室を出て行った。関東のイントネーションで喋る愛想のない女の子。ただそんな印象でしかなかった。きっと関西出身じゃないのだろうとすぐに気づいたが、関東というだけであれだけ雰囲気が変わるものかと動揺もした。  下校道を走らせ、暁斗と途中で別れてからひとり、歩美との馴れ初めを思い出しながら暑い日差しに耐えていた。別に付き合ってるわけじゃない。影からひっそりと魅力を感じているだけで、それ以上でも以下でもない。  帰宅し、靴だけ脱いで廊下で立ち止まる。耳を澄ませて音や声を確かめる。これはもう癖なのだ。母親の叫び声、楓の泣く声、物に当たる音、それでなくても違和感を感じた時に直面する前に深呼吸したいからだ。予知できれば効き目を逆算して胃薬を飲みたい。  足跡が残りそうな蒸れた靴下でようやく歩き出し、リビングを開けた。晩御飯の良い香り、なんてものはもちろん無く、キッチンの隅に積まれたスーパーの弁当。二人の姿はそこになかった。弁当だけ持って自分の部屋へ上がる。楓はベッドで眠っていた。 「おーい、起きろー。夜ご飯食べへんのかー」  髪の毛だけ見えていた布団の中がもぞもぞ動き出した。 「ん...れいにいちゃん、おかえり」  ひどい寝癖で顔を見せた。  学生鞄と弁当を置いて学ランの上着を雑に脱ぎ捨てた。 「母ちゃんは?」 「お外いった」  楓の寝ぼけた声で昨晩のことを思い出した。今日は息子たちが寝てからでもなくもう逢いに行っとるんか、と口から溢れそうになったが飲み込んだ。楓に何か聞かれても困る。 「ふーん、そっか...」  今日も楓にアニメを見せながら並んで晩御飯を食べた。頬が膨れるほど口に入れて咀嚼している弟の横顔を見てふと思う。  多分楓にも家庭内ストレスはかなりあると思う。幼稚園で友達が話すママやパパの話についていけず、五歳にして気を遣って頷いてる姿が目に浮かぶ。実際自分がそうだったんだ。もしかしたら母親が夜どこかへ出てかけてくことも、幼いなりに何か察しているかもしれない。アニメの世界に入り込んでいる瞬間だけでも救われる時間があるなら俺も嬉しい。  空になった弁当をそのままに、楓は満足そうにお腹を摩りながら仰向け寝転がっている。 「お腹もいっぱいやし、たまには一緒に夜の散歩でも行くか」  満面の笑みで大きく頭を上下させ、今までの重たそうな身体は嘘みたいに跳ね上がった。何だかんだで時間は過ぎて行き、窓の外は暗くなっていた。二人とも制服のまま玄関を開け、元気に先走る楓を止めて手を繋ぐ。  朝から晴天だった空は夜になっても雲一つなく、星の海とまではいかないほどの星屑が散らばっている。気温も下がり歩きやすい。 「今日暁斗にな、顔が疲れてるって言われたんやけど、そうなんかな?」  少ない街灯に虫が集まり飛び回っている。ご近所さんの窓もまだ明かりが灯っていて、開けられた窓から各家ごとの夕飯の匂いがする。お腹は満たされているが惨めな気持ちにさせるこの匂いは嫌いだ。 「んー、顔まっくらで見えへんわ」  隣でスキップしている楓がこっちを振り向いたのかも見ずに、そうやな、と笑った。 「どこまで歩くん?」  はしゃいで疲れたのか軽く息を切らしてゆっくり歩いている。 「特に決めてない。どうせ母ちゃんもまだ帰ってこん、適当に散歩しよ。もうちょっとお兄ちゃんに付き合ってや」  確かに真っ暗で見えない横顔に微笑んで見せた。まだ帰ってこんというよりは、いつ帰ってきてもどうせ心配しないだろと本音では言ってしまっていた。もちろん心の裡に閉まったけれど。  親が知らない男と逢って、甘えた女顔をしているだろう姿なんて吐き気がする。まだ見ぬその男にも。 「そういえばあきとくん、おうち来てくれへんなぁ」  楓も何度も逢っているし一緒に遊んだこともある。近所の遊んでくれるお兄さんという認識なのだろうか。 「たしかに最近家呼んでないな。暁斗も楓元気?って俺に聞いとったけど」 「ほんま?またあそぼ!」  また嬉しそうにスキップしてはしゃぎ出した。  一時間半ほど歩き続け、そろそろ帰ろうと言い出してから家に着くまで合わせて二時間ほど外にいた。もっと遠く行こ、と楓が言うたびに、もうこのまま果てしなく彷徨い続けたい気持ちにさせられた。楓と二人きりが何の気疲れもなく、馬鹿なこと言って笑ってられる。こいつといる時間が今は何より幸せかもしれない。  帰宅すると車が停まっていたので母親も帰ってきている事にすぐ気づいた。どうせまた酒でも飲みながら怠惰にしているだけだろう。そう思ったが念のため、いつも通り静かに玄関を開けた。人差し指を唇に重ねて、静かに入りや、と楓にも囁いた。玄関を閉めると同時にリビングから漏れ出た声に耳を疑う。途切れ途切れに響く甲高い、母親の、喘ぎ声。焦った俺は急いで楓の耳を塞いだ。 「何も喋らずゆっくり二階上がり」  小声で伝えて、自分で耳を塞がせたまま上がらせた。俺は、抑えられなかった。怒りと悲しみと気色悪さが混合して、感情に任せてドアを思い切り開けた。 「何やっとんや!」  素っ裸の大人が重なり合っていた。細身の男は腰を止めて二人がこちらに振り向いた。 「えっ......」 「えじゃねーよ...」  まだ自分ですら未経験のその行為を、初めて見るのが自分の親の姿。たまったもんじゃない。無様に両脚をおっ広げ、男と手を握り合いながら俺を凝視している。汚物を見るように睨み返しながら吐き気を抑えているだけで精一杯で、それ以上の言葉も見つからない。 「ちょっと...はよ、はよ閉めてよ!見んといて!」 「見たくねーよ!そんな姿見せんなよ!でも楓のためにこうするしかないのわかれよ!」  震える声を必死に絞り出しながら怒り狂った。涙だって、もちろん止まらなかった。 「は?もうええからはよ閉めて、どっか行きーや!」 「こっちのセリフや!お前が他所でせー!この家には楓もおんのやぞ、あいつの居場所をこれ以上消すな...」  こんな乱暴な言葉使いをしたのは久しぶりだ。それ以上は何も言わず、ドアを閉めた。閉まる音と同時に我に返り、楓のことが心配になった。一段飛ばしで急いで階段を駆け上がり、部屋を開けると泣きながら耳を塞いでいた。きっと声を殺して、我慢して我慢して怯えながら涙が溢れ出たんだろう。 「楓、ごめんな、もう大丈夫や...」  膝を落として強く抱きしめた。軋む音が聞こえてきそうなほど、包み込んだ。やっと固く結ばれた糸が解けたように、俺の服に顔を埋めて声を出して泣き出した。お腹あたりが暖かい。口を服にくっつけて籠らせて泣いている。こんな時まで気を遣ってしまえるのだ、この子は。子供が泣く時くらい、大声で好きなだけ泣けばいいのに、わざと籠らせているのがわかる。熱い息と涙や涎で濡れていくのもわかる。 「にいちゃ、ん、声...こわ、かった」  嗚咽しながら話す声は掠れて、濡れた部分から体内に響く。 「ごめんな...ごめん」  髪を撫でながらゆっくり宥める。お腹の底から沸騰する真っ暗な海を、冷めるまでゆっくりゆっくりいつまででも宥める。ほんとは俺自身が慰められているんだと気づいていたけれど、弱音なんか今は刃物にしかならない。お互いの葛藤を押し殺しながら抱き合い、泣き合う。  懲りもせず甲高い声を二階まで響かせるあのクソ親の首を絞めてやりたいと何度殺意を沸かし、だが押し殺し、自分の心臓をナイフで何度も何度も刺し殺している気持ちだった。
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