59人が本棚に入れています
本棚に追加
寝不足だ。朝礼をして着席してから数秒後、もう記憶はない。気づけば一時間目の数学は終わり、チャイムの音で目が覚めた。一回も注意されずに眠り続けたのだろうか、それすら記憶にない。隣の席の細江川千咲は数学の教科書を片付け、次の国語の教科書を出して予習していた。長い髪に黒縁の眼鏡をかけた真面目な女の子。ほとんど絡みはないけれど、教科書を忘れた時などは無言で見せてくれる。無愛想だけど優しいところもある。
「隈、すごいね」
両手に教科書を持ち、視線は変えずに話しかけてきた。いつも唐突に話しかけられるので聞き逃しそうになる。
「え、ああ、ちょっと寝不足で」
やっぱりこっちは見ない。
「そう、平気?」
「うん」
言葉は短いけれど、詰まらず喋る。コミュニケーションが苦手なわけではないらしい。こんな弾まない会話しかしたことないけれど、嫌じゃない。
「青柿くんって、その...」
教科書を閉じた。
「安座間さんと付き合ってるん?」
「は?」
突拍子もない発言に思わず尖った反応をしてしまった。この子から恋愛話が出るとは思ってなかった。
「あ、いや、なんか、仲良さそうに見えるし、そうなんかなって噂してる人もいるし」
「え、そんなふうに見えとる?」
「うん、見える...かも」
かもってまた曖昧な、と思ったがそんな噂があったなんて予想外すぎて反応に困る。ボディタッチもしていないし、手に触れたことさえない。それに、歩美との会話は恋人っぽさとは程遠いように思える。
「付き合ってへんよ。そんなふうに見えとることが不思議や」
「そう、なんや...」
何を満足したのか、また教科書を開いて予習しはじめた。まだ眠いけれど、誰かと喋ったおかげで少しはマシだ。短い休憩時間が終わり、チャイムがなると同時に先生も教室に入ってきた。
またつまらん授業に先生のゆっくり喋る低い声が眠気を誘う。次はもう少し真面目に受けようと思った十分前が嘘みたいに覆され、右腕を枕にして突っ伏した。
残りの二つの授業は寝ずに受け、給食を食べ終わり昼休みに入った。いつも通り暁斗に会いに三年一組に向かうと、歩美が腕を組み壁にもたれて廊下に立っていた。
「ねぇ、なんで素通りしようとしてるの?青柿くん」
いや、別に無視しようとしていたわけでは、と脳内音声だけ流し振り向いて立ち止まった。
「え、なに?」
「あなたの初の友人が目の前で待っているのよ?話しかけない手はないでしょうに」
「初の友人って勝手に決めつけられるような友人に話しかける手はないやろ」
謎の沈黙を生み出し、二人同時に鼻で笑うとさらに込み上げ声に出して笑い合った。いつの間にか歩美独特のノリにも着いていけるようになった。歩美の性格のおかげか、愛想笑いや気遣いをしないで接しられるから何を話してても疲れない。何より、その笑顔が、ずるい。
「で、なんや」
「誰かと休み時間遊ぶ予定でもある?ないなら私にちょっと付き合わない?あ、男子とのじゃれ合いで忙しいわよねぇ」
「そんな奴おらんわ、別にええよ」
暁斗はどうせ一人でいても読書でもしてるか寝てるかのどっちかだ。毎回約束せず勝手に俺が会いに行ってるだけ、問題ない。
図書室に連れてこられたそこは誰もいなかった。歩美によると基本いつでも貸切状態らしい。図書委員も全くと言っていいほど仕事をしてない。そもそも利用が無さすぎてやる仕事もない。そういう意味では一番人気の委員会だ。
「で、話って?」
入口のすぐ近くの席に座り、歩美は左斜め前に座った。
「今日の放課後、私と帰らない?」
「......そのためにここまで連れてきたん?」
「変な噂してる奴がいるの知らないの?連中の頭の中では私達カップルらしいわよ」
肘をついて手で顎を支えながら話す。相変わらず目を合わせずに、並ぶ本を流し見している。
「それで言うたらわざわざ別の場所に呼び出してるのも目につくで」
入口を見返して誰かに聞かれていないか確認してしまう。誰にも見られていないのはわかってるんだけれど。
「ここだから話せることもあるでしょ?」
やっとこっちを向いて話し始めた。ショートボブの黒髪がふわりと揺れ、血色のいい薄い唇が色っぽく動く。もちろん目は合わせず、俺の腕あたりを見ている。
「というと?」
「最近なんかあったでしょ、目が違う」
「なんやそれ」
「いいから、なんかあったでしょ」
目が合ったことないけどな、と言いそうになったが失礼な気がして空気ごと飲み込んだ。
歩美は頑固な性格でもあるから、貫くまで引き下がらなかったりする。「前置きはいいから」とか「で、あなたはそれどう感じてるの?」とか結論を急ぎたがったり、自分をまず優先しなさいよ、という考えが強い。おかげで心強いと感じることもあるけれど、前置きがないと伝わらないこともあるよって言いたくなることもある。
「まぁ、いろいろあったよ...」
思い出したくない姿が蘇って胃が痛くなる。
「だからそれを言いなさいよ、聞いてあげるから」
「いや、言うにしてもここじゃ言えへんし、気分悪うさせるよ...」
別に誰かに言ってどうこう変わる問題でもない。ましてや親のあんな姿を見たなんて話、聞いても困るだけだろうに。そんなことはわかっているのに何故か言ってもいいと思えてしまう。どうでもいいと呆れているからか、それとも相手が歩美だから言えるのか。暁斗にだって相談しようと思えば出来ることではある。きっと彼も親身に聞いてくれると思う。でも暁斗には言えないと思ってしまっている。一番長年の付き合いのはずなのに、困った顔が想像できてしまうから、口数が減っていくのが想像できてしまうから。
「気分悪くなるのには誰よりも慣れてる自信あるから、大丈夫」
声が低くなった気がしたのは気のせいだろうか。歩美が先生の前で話す時の声みたいだと思った。その低い声、聞いたことある。
「じゃ、約束通り放課後ね。校門前で待ってるから」
そう言い残すとこちらの言葉も待たずに図書室を出て行った。
女の子が校門と言う時、なぜか肛門を意識してしまって小さく心臓が跳ねる。
最初のコメントを投稿しよう!