月の光

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 ふと、行き交う人の視線が、時折に泉へ向けられていることに気付いた。 ――まぁ、花背負(しょ)って歩いているからなぁ……。 目立つような派手さはないのに、つい目が追ってしまう。 彼女の纏う清純な空気感に人は惹き付けられるのだ。 泉自身はしっかりしているが、不穏な輩に目を付けられないとも限らない。 心配する父親の気持ちは、大いに理解できた。 けれど、当の本人には気にした素振りはまるでない。 危うさを独り覚える俺を見遣って、泉は首を傾げていた。 そんな泉に何でもないと首を振り、次いで俺は、ふと思い出し笑いを零した。 「お前って、どっちつかずだよな」 「?」 「箱入りお嬢かと思えば、その実で芋っ娘だったし」 今のきちんとした泉の姿からは想像できない普段着だったと、今更ながらに明かした。 てっきり頬でも染めるかと思えば、そうではなかった。 「くふふっ、お嬢なんかじゃあありませんよ。それに、ジャージって楽じゃあないですか」 「ジャージっつうか、体操着な」 「同じでは?」 「素材はな。けど、センスが違うさ」 泉はふぅん?と、ニュアンスの違いに納得しながらも同じなのにと、口を尖らせた。 「私は本当にお嬢ではありません。寧ろ、だからこそ皮を被っているんですよ」 泉は悪戯な笑みを忍ばせた。 「ピアノ本体もですけれど、ピアノのお月謝もそう馬鹿にならないものでしょう?」 泉の母親はピアノを習いたくても習いたいと切り出せない家庭環境で育ったのだと言う。 「そんな、良いところのお嬢さんの象徴は、母の子供のころからの憧れ、いえ、コンプレックスだったんです」 だから尚更、自分の娘には絶対にピアノを習わせたかったのだと、泉は語った。 「そんな母が次に羨んだのはグランドピアノでした。それから発表会の煌びやかな衣装。更には、高名な先生によるレッスン」 どの世界にもカーストは存在するし、上を見ればキリがない。 「一方で私は、そんな母に対して反骨精神を抱くようになりました。お金を掛けなければ成し得られないものなんて、たかが知れているんじゃあないかって。母が羨むものは、努力次第で越えられることを示したくなったんです」 ピアノだけでなく、成績優秀かつ品行方正な本物のお嬢を泉は目指した。 「見栄えばかりを競ったピアノだと思われるのは、我慢ならなかったんです」 身の丈に合った環境で、泉は勝負することにこだわった。 なるほど、泉透子はお嬢などではなく、生粋の大和撫子だと知る。  そんな泉に二度目の転機が訪れた。 それは小学三年生を迎えた頃だった。 「音楽の時間に、プロのピアニストを招いて、ドビュッシーの『月の光』を聴く機会があったんです」 それまでも音楽の先生が奏でた『月の光』なら聴いたことはあった。 けれど、プロのピアニストが奏でた音色と、音楽の先生が奏でていた音色の違いに泉は驚愕した。 「同じピアノ、同じ音階の筈なのに、私にはまるで違う楽曲に聞こえました。失礼ながら、あの日に弾いていた曲は本当に『月の光』でしたか?と、音楽の先生に訊ねてしまいました」 それは音楽教師を型無しにする発言だったことだろう。 でも、それほどに違って聞こえたのだという。 「月が……まるで雫になって零れ落ちて来そうだと思いました」 泉は恍惚の表情で、その音色を思い返していた。 「父が車を買いたいとしてコツコツ貯めていたお金は、全部ピアノに消えちゃいました」 悪びれた笑みを零しながら、泉は続ける。 「高価なものだと知っていながら、私は欲望を止められませんでした。それどころか、プロのピアニストになった暁には、父に車をプレゼントするからなんて、豪語していたんです」 いつの間にかどっぷりと、それこそ骨の髄までピアノに嵌まり込んだのだと言う。 『月の光』は、ドビュッシーが恋人を想って作曲したと言われているが、まさに泉は恋する乙女のように高揚して、当時を振り返っていた。 「だけど月は遠いまま、永遠に手に入らなくなりました」 少し喉を震わせ、空を仰ぐ。 半月の月が霞んだ空に浮かんでいた。 失恋に似た喪失感――思い描き続けた音色をものにすることが出来なかった。 「私はまだやれたのに……無念です」 今も焦がれて止まない諦めきれない感情を吐露し、泉は話に幕を下ろした。
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