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完璧と思えるライフワークを送っていた彼女からは想像できないが、芋虫の如く布団にくるまって、梃子でも動かない姿勢を貫いているのが今の泉透子だった。
成績優秀、容姿端麗こそは残したものの、運命の神様は、彼女から最も大事であったろうピアノを取り上げた。
彼女は事故に遭って以来、すっかり引きこもり生活を送っていた。
――かつての神童が聞いて呆れるな……。
「なぁ、ちょっと外に出ないか?」
「……結構です」
「お前さ……ずっと優等生で頑張って来たんだろうけど、そろそろそうやって全部を人の所為にして生きるのをやめないか?」
事故から三カ月が経った。
このままでは彼女は留年決定、そうなれば高校は辞めてしまうのだろう。
ちやほやされて、これまで順風満帆に生きて来た彼女は、この降って湧いたような理不尽な不幸に耐えられなかった。
その気持ちは汲んでやれるが、寄り添えるかと言われれば、はっきりとNOだった。
俺はきっと優しい人間ではないのだろう。
どこか冷めた――いや、腹立たしさを覚えて、泉を見つめていた。
「失ったものばかりに囚われて、失っていないものまで切り捨てるなよ。なんもかも見捨てるに見合うものだったなんて、そんなのは……やっぱり違うんじゃあないのか?」
あのピアノがそんなものであったのなら、聴くに値しないと俺は思った。
どんなに素晴らしいものだったのだとしても、俺は認めたくない。
それならばAIの奏でる音で十分だ。
俺に音楽のことなんて分からない。
ピアノのこともだ。
けれど、人が人に届けようとする想いは、そんな薄っぺらなものではないだろう。
「お前のご両親は、娘のお前に笑っていて欲しいだけだぞ、きっとな」
泉の両親は悲嘆にくれていた。
でもそれは、ピアノが出来なくなったからじゃあない。
娘が自分を見失い、他の全てに目を向けない人間になり下がったからだ。
人間は堕ちるとこまで落ちるんじゃあない。
底があるようで底なんて無い底なし沼。
最初に向けられるものは憐れみの目。
哀しみの目。
そして、やがては怯えに代わる。
何を考えているのか分からない者に対する畏怖。
それを作り出している根源は自分にあるというのに抜け出せない。
そして、鬱屈した想いは寄り添おうとする者に向けられ、更に悪循環を呼ぶ。
先に壊れるのが自分の方ならば、まだ許しは得られるのかもしれない。
だけど――。
手首から血を流して倒れている母の姿が、脳裏を過った。
慌てて駆け寄り、母の声を聞いた時は神に感謝した。
『……ごめんね、直人』
あの時の母の声は、生涯背負う俺の十字架だ。
「泉透子、さっさと弱さを認めてそっから出て来いよ。どうすれば救われるか教えてやるからさ」
そんな方法など知らなくても、はったりで十分だった。
動かす原動力、それを与えられればなんであろうと構わないのだから。
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