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いつものベンチに人はいない。
此処は少々面倒臭いが、俺の憩いの場――喫煙場所だった。
今や通い慣れた学校近くのこの公園で、俺は少しばかり自己嫌悪に苛まれていた。
「あれは、流石に言い過ぎた……いや、やり過ぎたの間違いか?」
毎日毎日飽きもせずに泉透子の自宅へ通い詰めるも、手応えの無さに業を煮やした俺は、遂に強行突破に突入した。
相変わらずの芋虫状態のあいつをそのまま抱え上げ、いっそのこと階段から落としてやろうかと思ったが、流石にそれは下手すりゃ殺人未遂に繋がるかと、思い直したまでは良かった。
取り敢えず力任せに布団を引っぺがす。
けれど、転がり出て来たあいつが中学時代の体操着を着た芋っ娘姿であったことには意表を突かれてしまう。
てっきりシルクのパジャマなんかを着たお嬢を想像していただけに、庶民的なその姿に呆気にとられたものの、陽に当たっていない血色の悪い顔を見て、俺は表情を硬くした。
泉は黒目勝ちの瞳を見開いて、仁王立ちした俺を凝視している。
『お前、まだ心のどっかで自分が立ち直れると思っているだろう?』
その通りだとでも言いたげに、泉は苛烈なまでに俺を睨み付けてきた。
『ばあぁかっ!それは、大きな間違いっ……げふぉっ、けふぉ……だ』
盛大に罵ってやろうと息巻いたものだから、気管がとち狂って、俺は盛大に咽てしまう。
げふぉ、けふぉと、真っ赤な顔をして、息切れしている三十路前のオッサンに、十代の小娘は、大丈夫かと背を擦ってくれた。
何だかんだと『優しい』を捨て切れない泉に、俺が安堵したのは事実だった。
まったく様にならない啖呵になってしまったが、言わねばならないことは言わねば気が済まない。
『立ち直るには足りない。お前はピアノよりも、もっと、もっと大事なものを失って、それでもさ、それでもまだ足りないなら、その時こそ――』
せり上がった何かをゴクリと呑み下した。
俺の十字架――もしも、もしも、あの時に間に合っていなければ……?
間に合ったのは神の采配、たまたまだ。
その日発売する漫画を買いに行こうと、何気なく居間を通りかかっただけだった。
喉の奥から胃酸が這い上がろうと蠢いて、胸糞が悪い。
『なぁ、取り返しがつくのか?』
何もかもを失いかけた俺には痛切に分かっていた。
ろくに飯も食っていないのだろう。
痩せこけた頬に手を添える。
『泉にとってはピアノが全てだったのかもしれないが、ピアノよりも大事なものだよ』
リビングに飾ってあった写真は、陽だまりみたいに笑う家族に囲まれた泉だった。
想像して欲しかった。
そんなことにはなって欲しくないと、切実に願うから、本気になって想像して欲しかったのだ。
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