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その後、面白いように切れる刃の喜びを知り、私は黙々と草を刈り取っていた。
いつの間にか鼻歌までもを口遊み、私の脳内にはクラッシック音楽、ヴィヴァルディの「春」が流れていた。
これが妙な具合にテンポが合うのだ。
管弦楽団を浮かべ、まるでヴァイオリンを弾く心地で、鎌を引く。
「そんな楽しそうに草刈りしている奴は初めて見たよ」
またしてもいつの間にそこに居たのか、後ろ背に夫がいて驚いた。
変なところを見られてしまったようだ。
「熱中症にならにように、休み休みやれよ」
水筒を差し出されて、すっかり喉が渇いていたことに気付いた。
「はい、直人さんもね」
どうやらテント設営は終わった模様。
白いテントが整然と運動場を囲っていた。
どうやらもう撤収作業に入っているようだ。
少しだけ一息付こうと、私たちは共に校舎の日陰に移った。
「暑かったですね、お疲れ様でした」
フェイスガードを取れば、秋口の涼やかな風が頬を擽った。
水分を補給して喉を潤せば、生き返った心地になった。
「はぁ、ちょっと夢中になっていました」
「クスクス、草刈りが?」
今度は彼の手の甲が頬を擽った。
手を洗って来たのだろう。少しひんやりと冷たくて心地良い。
「顔、赤いよ。もう透子はここで休んでいればいいさ」
そうやって直ぐに甘やかそうとするのは、如何なものだろうか?
「さっき、西村さん――ああ、年配の用務員さんな。『お前の嫁さん、イイ子だな』って、なんかいきなり小突かれたんだけど」
「私のこと知っていたの?」
「みたいだ」
先生と元生徒の私たちの結婚を知る人はそう多くはない。
そもそも式を挙げていないので、書類上の手続きを踏んだだけだからだ。
けれど、当時の学校長の前に挨拶に伺った時は、酷く困惑されたことを覚えている。
学校に混乱を招きかねないとして、暗黙の了解で緘口令が敷かれ、私たちも敢えて公言することを避けていた。
「さっきね、鎌の扱い方を少しばかり教わったんです。でも、その時はそんなことは何も」
「壁に耳あり障子に目ありってやつだな。あの人、抜け目なくよく人を見ているから」
今も何処かで見ているのかもと嘯かれて、思わず私は辺りを探ってしまった。
「もう、誰に知られても困らないけどな」
彼はそう言って、苦笑した。
「『いつも主人がお世話になっています』って、ご挨拶しても可笑しくないかしら?」
ちょっと照れ臭いけれど、そんな憧れとする妻像に、どうしたって顔がにやけてしまう。フェイスガードを外していたことを思い出し、私は慌てて口元を抑えていた。
「透子さん……」
そんな私に彼は呆れたように額を抑えていた。
多分、こうしたささやかなことが誇らしくあるなんて、夫側は知らないんだと思う。
「後で、実際に弾いてみてよ」
鎌ではなく、ピアノをと言うのだろう。
やはりにしてばっちりと、私の鼻歌は聞かれていた模様。
「久しぶりに聴いてみたいんだ」
夫の要望に妻はすこぶる弱い。
どうしてこうも艶めいた瞳を醸し出せるのか、夫の極意はなかなかに盗み取れない。
「だけど、もう人に聞かせられる代物では――」
そっと、摘ままれた指先に伝わる熱は、私よりも高い。
「大丈夫、もう俺だけの音色だから」
夫の声は私の脳に熱を送り込むに十分だった。
こんな場所で耳を甘噛みされた心地になってしまう私とはどうなのか?
「と、取り敢えず、今はお仕事に専念しましょう。ね?」
うっかり甘露な空気に流されてしまいそうになる。
心を正すべく、私は夫の手を突っ撥ねていた。
「ん、透子が学校にいると妙な気分でさ。逢引きしている心地なんだ」
悪びれたように頭を掻く彼に、今度こそ私は地団駄を踏みたくなった。
もうっ!
もうっ!!
もうっ!!!
何ら飾らない夫は時としてすこぶる厄介だと、すっかり逆上せた顔を私は覆い隠すしかなかった。
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