日々是好日

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『直人さん、大事な話があります』 仕事から帰って早々の、妻の改まった様子に、夫である俺も気を引き締めた。 俺の知る限り、こうした女の顔は何か腹を括っている証。 何を言おうと、こちらの言い分は先ず通らない。 例えば? そうだな、別れ話とか? え……? マジで!? そ、それは困る。 これは、早くもそんなフラグなのか? 勝手な想像だというのに、妙な焦りに俺は厭な汗を掻き始めていた。 落ち着け俺、多分、嫌われるようなことはしていないぞ? 多分……ね。 「と、透子さん、落ち着こう。話せば分かるから」 「はい、ですからその話をしたいです」 キリリといつになく、いや、いつにも増した凛々しい表情は、かつての生徒会長、泉透子を思わせた。 ――こ、これは、いよいよ、なのか…? 「い、いや、お、俺が悪かったよ。この通り、謝るからさ」 慌てふためく俺に、妻は小首を傾げた。 「何か謝らなければならないことでも、しでかしたのですか?」 訝しんだ顔はまるで現、教頭と同じ顔。 今日も今日でその教頭からは『生徒と一緒になって、良い大人がはしゃぎ過ぎです』と、小言を賜った。 いや、良い大人ほど、妙なスイッチを入れないとああも燥げないのですよ? 近づく文化祭、うちの伝統行事は受け継がねばならない。 そうでなければ原田先生は浮かばれないだろう。 いや、勿論、お亡くなりになったわけではなく、他校に異動になっただけなんだけどね。 あの存在感を知る俺としては、そのプレッシャーたるは半端ないのだ。 「直人さん?」 うっかり仕事を家庭に持ち込んでしまった。 そう、今は教頭ではなく、妻が最優先。 「いや、思いつく限り無いような、あるような……寧ろ、無いことがかな?」 しどろもどろに、ここ最近の行動に思いを巡らせた。 「?」 「家事とか、透子に任せていることばっかりだからさ」 俺がしようとしても先を越されてしまっていることが多い。 それについつい甘えてしまっている。 思えば、まるで家事分担が出来ていないことは確かだ。 「そんなことないです。この前も、南瓜を切ってくれたでしょう?あれ、助かりました」 この近隣で家庭菜園をしている田中さんという方が、丸ごと一つをくれたのだとか。 聞けば、その田中さんも透子と同じほどの主婦歴らしく、町内会の回覧を回しに来てくれたのをきっかけにして親しくなったのだと言う。 初めてできた主婦友だと、透子は嬉しそうに語っていた。 「それくらい……」 「でも、南瓜って包丁が入らないくらいに硬いので、私には難しくて……」 俺の妻はフォローが巧くて困る。 「それにいつの間にか、お米がなくなりかけていたら買い置いてくれているでしょう?直人さんはいつもそうやって色々気に掛けてくれているから、その……そういうところが、凄く――嬉しいんです」 そんな頬を染めてまで、照れないで欲しい。 とても見ていられなくて額を抑えた。 俺の方が照れてしまうじゃあないか。 しかしだ、そんなたった一言二言で終わってしまうようなことしか俺は出来ていない。 それに比べ、透子は大学の学業と主婦業を両立させている。 高校までとは違って、大学は専門分野に特化した勉強ができるので、凄く充実感を覚えているのだとか。 透子は将来、クラッシック界の音楽関係の仕事に就きたい様子で、いくつかの資格取得の為にも夜遅くまで勉学に励んでいた。 そんな中でも家事などにも決して手を抜かない。 彼女にとっては苦手分野であるにもかかわらずだ。 それに――。  最も気掛かりなことは、大学の友人らの誘いをほとんど断ってしまっているんじゃあないかということだ。 大学生なんて遊びたい盛りだ。 二十歳を迎え、たまには友人らと外で飲み会をすることだって、あって然るべきだというのに、彼女はいつも家に直帰している。 ()の存在が足枷になっているだろうことは明白。 だというに俺は酷く狭量な夫で、彼女を束縛できる甘い誘惑を断ち切れずにいる。 ずっと気になっていながらも、切り出そうとしなかったのだ。 ――透子は言い出したくても言えなかったに違いないのに……。 「……ごめんな」 それでもやっぱり俺から切り出せない。 もっと自由を与えたいけれど、それでもやっぱり束縛していたい気持ちが勝ってしまう。 全くもって身勝手極まりないが、透子の待たない家に帰ることになると思うと、俺はイヤだった。 「もうっ!直人さんは存外に面倒臭い人ですね。私だって、私なりのことしか出来ないし、そこはお互い様ということにしておきませんか?私、家事分担って言われても、例えばお洗濯を干したり畳んだり、実際に直人さんにして貰いたいかと言われたら、答えはNOです」 俺の妻は腕を組んで言い切った。 「えっ!?そうなの?」 「だって、その……下着もあるじゃあないですか。断固拒否ですよ」 『下着』と、口にするのも恥ずかしいのか、口をもじょもじょさせている。 そして、俺が干しているところを想像したのか、透子は若干身震いした。 ――確かに変態ぽいな。 でも、散々に見ているのに……。 「家事分担は『最初が肝心』って、よく聞いたんですが、それって、意味合いが少しちがうんだろうなって、私は思いました」 「振り分けるんじゃあないってことか?」 「はい。多分、『初心が肝心』って意味です。今はこれでも随分と慣れてきましたが、私はお料理が苦手だとご存知でしょう?」 「ん」 いつだったか最初の頃、キッチン用品に混ざって水泳のゴーグルが入っていたのを思い出す。 玉ねぎを切る時のアイテムだと知った時は、遠慮もなく笑ってしまった。 「でも、夫の為に作ることは嫌いじゃあない。いつも全部きれいに食べてくれるから、とても嬉しいです」 「そりゃあ……」 そんなに頑張って作っているのを知っていては心して食べるし、贔屓目を抜きにしても透子の手料理は及第点だと俺は思う。 「「いつもありがとう」」 互いにお辞儀までが重なってしまった。 「ふふっ、こういう気持ちを忘れないことが肝心ということなのかなって」 確かに『慣れ』とは、いつしか『当然』にすり替わってしまうのだろう。 「私、『ごめん』よりも『ありがとう』が聞きたくてしています。私が待っていて嬉しいって、顔つきで直人さんはいつも帰ってくるから、それがすこぶる嬉しいんです」 どうあっても手放したくない大事な初心だと、透子は胸元を抑えて微笑んだ。 ――ああ、もう……っ! こんなだからダメなんだ。 束縛しておきたくて堪らなくなる。 俺を狭量な夫にしている責任は、透子にも十分に一端がある。 どうにも我慢ならなくて、俺は彼女を抱き寄せていた。
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