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いつの間にか私はすっかり彼の腕の中にいた。
「透子……抱きたい」
耳元で囁かれ、始まりの合図とばかりにキスを重ねようとした彼の口を、私は両の手で慌てて塞いでいた。
「ふぁめ(だめ)?」
そんな悩まし気な瞳をしないで欲しい。
夫の誘惑には半端なく弱い妻なのだからと、私は焦ったようにこくこくと頷いていた。
「だ、大事な話があるんです」
流されるままに抱かれてしまうわけにはいかないのだ。
夫は渋々ながらも妻を解放し……いや、私の手は彼の手の内に残されたままだった。
彼が存外に子供みたいな人だと知って、もう随分になる。
──でも、このままで……。
私の方こそ手放したくない。
繋いだ手をそのままに、私は徐に切り出した。
「今日、産婦人科へ行ったんです。それで……妊娠していると――」
驚きにふれた彼の手を、私はきゅっと握り込んだ。
ようやく切り出せたものの、彼の顔をとても見てはいられなかった。
「……遅れていたのか?」
落ちてきた声にコクリと、首を縦に振る。
以前にも、生理が遅れたことがあった。
ピアノを弾けなくなったばかりの時だ。
ご飯が喉を通らなくなり、体重が一気に減ったことが原因だった。その時は薬を処方されて、事なきを得ていた。
産婦人科へ行くのは二度目だったから、それほどハードルは高く無かったのだ。
「まだ、心拍までは確認できていません。それで、来週にもう一度診察に来るようにと、医師に言われています」
本当は、その時は一緒に来て欲しい。
傍にいて欲しい。
だけど、だけど、もし――。
もしも、もしも、彼が本当に子供を望まないのであれば、心拍の有無の確認をどういった気持ちで一緒に聞けばいいのだろうか?
同じベクトルでその場に臨めないのであれば、私は独りで向かいたかった。
――怖いっ……。
想像だけで、なんだか心が腐食していくみたいに、私は息苦しさを覚えていた。
向かうベクトルが同じでないことなどこれから先も大いにあるのだろう。
けれど、この選択がもたらす溝はあまりにも深い。
きっと、どんなに取り繕ったところで、私たちの間にひび割れが入ってしまうことは想像に難くなかった。
果たして、修繕は効くのだろうか?
これまでと同じ気持ちで、私は彼を受け入れることが出来るのだろうか?
そのことも踏まえて、私たちは膝を突き合わせて話合わなければならない。
覚悟を決めて見上げれば、先ほどまでとはまるで違う真顔がそこにあった。
そして、少しばかり我に返ったように彼は私を見つめ、繋いだ手から私の不安を察したのか、しっかりと握り返してくれた。
「透子が大学を卒業するまで待つつもりだったのに、俺の責任だ。ごめん」
私は彼にどうにも謝らせてばかりいる。
「それを言うなら、私も同罪です。寧ろ、もっとしっかり考えてもいなかった私の方に非があります」
正確に言うならば、考えていなかったわけではない。
義父の言葉があったからこそ、私は考えるまでには至っていたのだ。
けれど明確な答えを出せないまま、成り行きに任せていた。
「どのタイミングならば望ましいのか?私には分かりませんでした」
そんな無責任な解のまま、妻は夫任せであったのだ。
「でも、目の当たりにした今は違います。学業を優先させ、今は望まないとする選択肢の方がハッキリと消えたんです。私は産みたい」
選択肢はただ一択。
新たな未来予想図がはっきりと描かれたのだ。
「透子は母親になると決めたんだね」
「はい」
彼からプロポーズを受けた時と同じだ。
揺るがない意志で私は頷いていた。
頷いた途端に抱きしめられたのも同じだった。
──って、えっ!?同じ???
「ありがとう。なら、俺は全力で父親になれる」
そっと、見上げれば、彼は眩しいまでの笑みを覗かせた。
その笑みに虚を衝かれていた私に、次いで降り注いできたのは、口づけの嵐だった。
「ちょ、ちょっと、な、直人さんっ!?」
わ、訳が分からない。
「ははっ、ホント、どうしてそんなに透子は逞しいわけ?」
「えっと……逞しいですか?」
あまり形容されない言葉だった。
「結婚や出産が何かとネックになる環境下にいるだろう?」
確かに同年代からは遠巻きに距離を取られている気はしている。
私に友人と呼べるほど心を寄せられる人は少ない。
それでも分かってくれる人は分かってくれ、実際に話してみれば、結婚していようが妊娠していようが、あまり関係はないように思うのだ。
「だからなの?」
「ん?」
「だから大学を卒業するまで待とうとしてくれていたの?」
彼の年齢なら、子供が一人や二人いてもおかしくはない。
「うぅうん、透子と同じで俺はどっちでも良かった。ただ、偏見の目から俺は透子を守ってあげられないからさ。それに学業を優先させてもあげたかったしね」
望まない理由は私の為だと知って、胸の奥から愛おしさが滲み出る。
「今は?父親になることは、直人さんにとって嬉しいに入りますか?」
はっきりと聞かねば不安は拭い去れない。
「それも、きっと今の透子と同じだ。嬉しいっていうより、無事に産まれてくるまで心配っていう気持ちがでかいよ。今も、まだはっきりはしていないしね……」
そう言って彼は、私の下腹部にそっと手を添えた。温かいその手に、なんだか目頭までもが熱くなる。
「もう、その時点で俺は親なんだな──って、そう思う」
その手に私は手を重ね、同じ想いを共有するように頷いた。
「生れてきたらさ、きっと、嬉しくて親馬鹿まっしぐらだよ」
語りかけるような口調で、彼は柔らかい笑みに顔を綻ばせていた。
―*―*―*―*―*―
翌週、同じベクトルを胸に、私たちは産婦人科を訪ねていた。
「心拍の確認が無事に出来たから、近いうちに母子手帳を取りに行ってね」
女医さんに『おめでとう』と、晴れて笑みを零して貰えた私たち新米夫婦は、互いに顔を見合わせ、安堵と、期待の笑みを浮かべていた。
彼の傍に私はいる。それだけで、誰より鬼に金棒──私が逞しい所以である。
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