第二章 運命

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 その日を境にして、泉は毎日学校に来るようになった。 補習も真面目に受けて、元来の調子を取り戻した様子ではあったのだ。  ただ――。  遣り甲斐というには生温い。 生き甲斐だったピアノを失ったことで、彼女は何をするでもなく、ただぼんやりと空を見つめていることが多かった。  その日の放課後もそうだった。 燃えるような夕焼けを見つめながら、泉は迷子の子のように寂しそうな顔をしていた。 「補習は終わったのか?」 声を掛ければ、ハッとした顔をして頷いた。 「はい。少しは自宅学習をしていたので、さほど問題はないと思います」 確かに俺の受け持つ数学に関して言えば、泉はしっかりついて来られていた。 「お前、暇なら生徒会長にでも立候補しないか?」  そろそろ次期選挙シーズンの到来だ。 この高校は二週間もの間を選挙活動期間として、立候補者が挨拶運動に立つならわしがある。 そうして迎えた最終日、生徒会役員立候補者は演壇に立ち、全校生徒の前で一分間のスピーチをするのだ。 議員選挙さながらの選挙戦を繰り広げ、全校生徒ばかりか先生も票を入れる。 そうまでハードルを上げて生徒会役員になりたがる者などいるのか? そうは思うことなかれ、内申点の加点がべらぼうに大きく、例年熱い選挙になるのだと他の先生方から聞いていた。 生徒会長など寝耳に水の話だと目を瞬く泉に、俺は顎先を向けた。 「そういうのは割と得意分野だろう?」 品行方正において、彼女の右に出る者はそうはいない。 泉透子信奉者はなにも桧山先生だけではなかった。 彼女が不登校から抜け出した時の、先生方の拍手喝采と言ったらなかった。 暴落傾向だった俺の株までもが上がったものだ。 「散々、(めい)ゎ――けほっ、いや、心配させたんだ。そんくらい挽回しても罰は当たんねぇぞ?」 「新倉先生は――いえ……」 何かを言いかけた様子の泉は、少しばかりためらったように口を噤んだ。 「なんだよ?言いたいことはさっさと言えよ」 「えっと、その……わ、私が生徒会長になったら、先生は嬉しいものですか?」 「くっ、くっくっ。何を言うかと思えば……」 しっかりしていそうで、存外に子供みたいな奴だなと思う。 「嗚呼、嬉しいよ。お前なら円滑にことが運びそうだし、何より俺の手足となって働いてくれそうだしな」 前半部分はともかく、後半は冗談ごとに言ったというのに、泉は花開いたような笑みを覗かせた。 無防備な笑みは純粋そのもので、こういうのは少し不味いと思う。 なかなかに手を焼いた繊細な猫が、急に懐き始めたその感覚を覚えてしまった。 「お前、そうも油断しない方が良いと思うぞ」 何処に不埒な影が潜んでいるか分かったものじゃあない。 いいから高嶺の花を気取っておけよと、口を吐いて出そうになった。 『間違っても手を出さないようにねっ!!!』 桧山先生の苦言が今更に俺の耳奥に轟いた。 ――俺はねぇよっ!!! 無い無い無い無い無い無い、ありえねぇ。 念仏のように唱えている時点で、既に運命は傾き始めていると、俺は気付くべきだったのかもしれない。
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