月の光

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 運命の神様は、よほど試練好みのようだと知れる。 駅に向かう最中、俺は『先生』と、耳に届いた声に振り返っていた。 「泉、こんな遅い時間までほつき歩いていていいのか?」 ほらな? 口を開けば、説教臭いことしか言っていない。 職業病になるにしても早すぎると思し、となれば、粗方の原因はこいつにある気がしてくる。 「今晩は、新倉先生」 首元を覆う菫色のマフラーの質感そのままに、泉透子はふわりと柔らかい表情を覗かせた。 時折に見せるこの表情の受け止め方が、俺には分からない。 ただ、非常にであることだけは分かっていた。 「私はそこの英会話教室の帰りなんです」 泉は向かいのビルを指さした。 駅前留学という看板が啓発運動の如く掲げられている。 聞けば、この近くのスタジオでピアノ練習をした後で入れていたコマだったと言う。 「ピアノ留学することを夢見ていたんです。やめてしまおうかとも考えたんですが、せっかくなら続けなさいと父が」 空き枠があり次第、もう少し早い時間帯に変えて貰うつもりではいるのだと、泉は陰りを見せながらも落ち着いた声で話した。 「ふふっ、さては先生は呑んでいますね?」 泉は茶化したようにスンスンと鼻を鳴らした。 「メントールじゃあ誤魔化しきれませんよ?」 つい、口寂しさに一本吸ってしまったのだ。 「バレたか。まぁ、大人の嗜み程度だよ」 「大人であろうと煙草は百害あって一利なしですよ」 どうやら次期生徒会長は教師以上に説教臭い模様。 総選挙戦、泉は危なげなく当選を果たし終えていた。 「そこまでご一緒していいですか?」 「そこまでも何も家まで送ってってやるよ」 これまで散々に通い詰めた道のりだ。 途中下車になるが、見るからの箱入り娘を捨て置く気にはなれなかった。 「いえ、駅に父が迎えに出向いてくれているので大丈夫ですよ」 見るからではなく、事実箱入りだった。 それとも年頃の娘を持つ父親とはそうしたものなのだろうか? うちは男兄弟だから基準がよく分からない。  俺には二つ下に弟がいる。 勉強こそ出来ない奴ではあったが、俺とは違ってすこぶる出来の良い弟は、早くも春には人の親になる。 遠からず、弟もそうした父親になるのかもしれない。  俺たちは歩みを揃えて駅に向かった。 付き従えた控えめの距離感は、教師と生徒のそれ。 誰の目にも勘違いなどされることのないこの距離が、こうも煩わしいと思うのは何故なのか? 車道を行き交う車がやけにうるさく感じられた。 「泉――」 彼女の肩を少しばかり引き寄せた。 歩道を逆走する自転車に気付いたからだ。 「鞄、気を付けなさい」 ショルダーバッグを狙ったひったくりが増えていると、警察から学校に向けて注意喚起があったのは、つい昨日のことだった。  塾帰りの女子高生が被害に遭ったとか。 「は、はい。ありがとうございます」 意図した訳じゃあなかったが、縮まった距離をそのままに、俺たちは肩を並べて歩いた。 泉は甘やかな笑みをマフラーの下に含んでいた。 それは、ほとんど無意識だった。 厄介――うっかり伸ばそうとした手。 寸でのところで、慌てて握り込む。 ――や、やっべぇ、ふっつうに女を連れている感覚と間違った。 怖っ!俺、怖っ! 「先生、聞いていますか?」 いや、先生は暫し意識が飛んでいました。 「ごめん、何?」 「卒業文集に載せる三年生への贈る言葉の締め切りは昨日でしたが、未提出は先生だけでしたよ?」 しっかりした生徒を持つと、先生とはうっかりしてくるものだ。 「わ、悪い……忘れていたよ」 というよりも、先送りをしているうちについ期日を逃していた。  二学期から此方に赴任してきた俺としては、三年生とのかかわりは殆どない。深く考えすぎかもしれないが、残す言葉を贈ることに少しばかり及び腰になっていた。    さらに言うと、不登校の末に高校を中退している俺には、卒業文集にピンとくるものが無かったのだ。数年越しに手に入れた高校卒業程度認定書、それが俺の卒業証書である。 「だいたいが、俺には文才なんて無いしなぁ」 そこへいくと泉は素晴らしかった。 選挙戦のスピーチは流石と唸るほど雄弁で、後に続いた対抗馬の候補者は、既に敗北を認めたかのように覇気がなかった。 「いつもの飾らない言葉で良いのだと思いますよ」 そうは言っても、出ないものは出ない。 この俺に、何が言えたものだと考えこんでの先送りだったのだ。 有り体に、『少年よ大志を抱け』とかでいいものか?
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