プロローグ

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 河野涼一(かわのりょういち)の座っているバーカウンターの前に、頼んでもいない水が置かれた。隣で誰かの座る気配がする。きっと水を置いた相手だろう。  やっとドロドロになりそうだったのに。──非難とともに隣席をにらむと、相手は見たことも会ったこともない男だった。 「ちょっと飲みすぎなんじゃない?」  初対面にも関わらず、男は馴れ馴れしく涼一の肩に手をかけてくる。  (いわ)く、あなたのことは少し前から見ていた。別の男に誘われて出て行ったこともあるだろう。なのに毎日のように飲みに来て、寂しい思いをしているのではないか。云々。 「これから、どう? もっと落ち着ける場所に行かない?」  耳元でささやかれた時、涼一は「ああ」と納得がいった。  なるほど、彼も同性愛者というやつか。 「ここ、会社が近いんですよ。誰かに鉢合うのもいやだし……もっと別の駅だったら……」 「え、ほんと? いいの?」  涼一がスツールから降りようとすると、ぐらりとよろけた。男がさっと涼一を支える。  会って数分もしない男に、肩どころか腰へ腕を回された。指で胴まわりを(まさぐ)られながらバーを出る。夏の終わりのむわりとした湿気が全身に絡みついた。この泥酔具合ではタクシーに乗車を断られそうだと、涼一はぼんやり考えた。  オフィス街に近いこの通りは、まだ品のいい薄暗さがある。だが駅の方角へ一つ路地を変えると、週末の都会は泥酔客とキャッチで溢れかえっていた。 「あ……」  そんな人の波の中、涼一は知り合いの姿を見つけた。  湯部晃(ゆべあきら)──会社の同僚だ。向こうも涼一を見て目を丸くしたが、状況を理解するやいなや、軽蔑のような視線を投げかけてきた。  涼一は慌てて男の肩で顔を隠した。視界から逃れる瞬間、湯部が何かを口走る。だが周囲の喧騒のせいで、口の形は見て取れても、声までは聞き取れなかった。  まさか、見ず知らずの男に抱きかかえられている場面を、十年来の同期に目撃されるとは。出社したときにどう弁解しよう? 「そういえば、ぼくタチだけど問題ないよね?」 「えっ?」 「きみの顔には、抱いて欲しいって書いてある。だろ?」  相手は勝手に納得し、静かに笑う。会話に気を取られている隙に、湯部の姿はなくなっていた。  涼一は男に支えられながら、駅のホームまで向かった。ホームの片側に電車が停まっている。 『三番線、ドアが閉まります。ご注意ください』  涼一の目の前で、電車が音を立てながら閉まり始めた。  ──今だ。  涼一は男の手を振り切って、電車に飛び乗った。相手は完全に油断していたようで、涼一を追いかけようとしたときにはホームドアが閉まりきっていた。男の驚いた顔は遠ざかり、やがて消えた。  涼一は胸をなで下ろし、人目をはばからずその場でしゃがみこむ。終電より早い時間のせいか、車内は乗客がまばらだ。おそらく(のぼ)りの電車だろう。  涼一は膝を抱えた。酔いなどすっかり冷めてしまった。  見知らぬ人間に声をかけられることは初めてではなく、むしろこれまでに何回もある。相手はたいてい男で、誘いを断ると力に訴えられることもあった。以来、涼一はこうしてだまし討ちのように電車に飛び乗っては、相手を振り切る手を使っている。  涼一がいたバーはごく一般的な店だ。会社から近く、静かな雰囲気やシックな店内の造りも相まって、泥酔するには品がよすぎるが、気に入っている酒場の一つだった。  なぜ男たちは、そんなところにまで押しかけて自分にいちいち声をかけてくるのだろう。  顔は百人並みよりは整っている自覚があるし、飲むときはドロドロに酔うと決めているので、無防備にも見えるかもしれない。だが涼一自身は男に恋愛感情を抱いたことなど一度もなかった。  ゲイの心理や世界など知るよしもないし、生涯知りたいとも思わない。だからあえて視界に入れないようにしているのに、涼一がどれほど無難に過ごそうとしても、寄ってくるのはつねに向こうで、迷惑を被るのは自分だった。  涼一はこわごわ、膝に沈ませていた顔をあげた。電車がどこに向かっているかくらいは確認しておきたい。  すると、真横の席にいた若い女性と目が合った。女子高生なのか、それともただのコスプレなのか、とにかく制服のような、丈が短すぎるプリーツスカートを履いていた。胡乱(うろん)そうに涼一を見つめ、手にはスマホを持っている。  (そで)のはだけた白い腕には、リストカットの痕が見えた。 「うっ……」  自殺を連想させるものは、酔いよりもひどいぐらつきを涼一に与えた。強烈な吐き気が襲ってきて、涼一は手で口を押さえる。  救いのように、電車が次の駅に停車した。涼一はホームへかけ降りると、そのまま吐いた。地面に吐瀉物をぶちまけながら、鉢合ってしまった湯部の言葉を口の形だけ思い浮かべる。 『バカじゃねえのか』  その通りだと思った。
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