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「珍しいね、こんな場所で会おうなんて」
「たまにはいいでしょ? 今日は満月が綺麗だってネットで言ってたからさ」
「確かに。夜なのに眩しいくらいだね」
私は相手をアパートの屋上に呼びだした。何も知らない相手は、風に靡く長い黒髪を押さえて微笑んでいる。
「突然ごめんね、沙友里」
呼びだした相手は、十年来の親友。沙友里だ。
「ううん、予定もなかったし、大丈夫。でも、どうしたの?」
「ちょっと……聞いてほしいことがあって」
「……うん」
私の様子に何かを察したのか、沙友里が真剣な顔で向き直る。
「直人とね、別れたの」
沙友里が息を呑んだ。それから、辛そうな顔をしてみせる。
――わざとらしい。
思わず奥歯を噛みしめる。
「他の女とね、子どもが出来たんだって。だから、別れて欲しいって」
「……それは……」
私を慰める言葉を探しているのだろうか。直人を罵る言葉を探しているのだろうか。沙友里が言い淀んでいるところへ、そのまま追撃をかます。
「沙友里だよね?」
「……え……何の話?」
全く何のことか分からない、というようにとぼけて見せる。しらじらしい。怒りに震えそうになる声を押さえて、そのまま続ける。
「直人がね、私のことをよく知る人に結婚の相談をしたって。沙友里のことだよね」
「どうして、それだけで私だって?」
「だって私、沙友里にしか直人のこと紹介してない」
そう言うと、沙友里は驚いた顔をして見せた。私は交友関係が広いから、きっと他にも紹介していると思っていたんだろう。でも違う。
私は昔からもてたから。いつも彼氏が居たから。女同士のいざこざは、沙友里よりも知っている。本当に大切な人を、不用心に他の女に見せびらかしたりしない。
睨みつけていると、沙友里は少しだけ目を伏せて、いつものように穏やかに微笑んだ。
「うん。それで?」
「…………は?」
それで? 何を言っているのだろう、この女は。
「あ、んた……自分が何したか、分かってんの……?」
「だって、あんな男、咲綾に相応しくないよ」
「は、あ……?」
「どうせ顔だけ好きだったんでしょ? だったらさ、私があの男の子どもを産んであげるから。一緒に育てよ? きっと似るよ」
全く意味が分からない。無茶苦茶だ。目の前にいるのは、誰だろう。十年見てきた相手が、得体の知れない化け物に見える。憎しみが、恐怖へと変わっていく。
「ね、咲綾」
「ッ寄らないで!!」
手に、肉の感触。息が切れる。私はそのまま後ずさった。沙友里の腹部には、包丁が深々と刺さっていた。
「あんたが……悪いのよ」
よろめく相手に、言い訳のように続ける。
「あんたさえいなければ、私は幸せだったのに……! 全部、全部めちゃくちゃにして! 親友だと思ってた……信じてたのに……ッ、地獄に落ちろ!!」
吐き捨てて、私はその場を後にした。罪悪感はなかった。あんな女、死んで当然だ。あれなら子どもだって助からない。
直人。直人。待ってて。元凶はいなくなった。二人でやり直そう。二人でなら、幸せになれる。
あなたを一番、愛してる。
×××
『咲綾との結婚のことで相談したいことがあります。会えませんか?』
メールの文面を読んで、私は顔を顰めた。以前咲綾から紹介された男、秋津直人。私はこの男が好きではない。
親友の彼氏を悪く言いたくはないが、直感で嫌な印象を受けていた。とはいえ、何をされたわけでもない。咲綾に何か酷いことをしたわけでもない。何より、咲綾が彼のことを信じきっている。だから水を差すようなことはしたくなかった。何の確証もないのだから。
しかし、咲綾抜きで会う気にはとてもじゃないがならない。それに、結婚の相談とは言え、親友の彼氏に内密に会うというのはどう考えても不義理だろう。
『申し訳ないですが、咲綾に黙って会うのは気が引けます。メールでなら相談にのるので、それでは駄目でしょうか?』
そう返信すると、すぐに返事がきた。
『それなら大丈夫です。沙友里さん以外にも、同級生の方に声をかけていますので、是非ご一緒に』
要するに、二人きりで会うわけではない、と言いたいのだろう。同級生にも声をかけているということは、結婚式のサプライズか何かでも相談したいのかもしれない。大切な親友の彼氏だ。あまり頑固に断るのも、今後のためにならないか。
溜息を吐いて、私は了承を返した。
「――おひとりですか?」
「すみません。誘ってはいたんですけど、どうも皆さん都合が悪くなってしまったようで」
思わず目を眇めてしまう。何を企んでいるのか、と穿ってしまうのは、私の性格が悪いのだろうか。
しかし、来てしまったものは仕方ない。居酒屋の席につき、私は一杯だけ付き合ってすぐにお暇しようと決めた。
「何にしますか?」
「ビールで」
「はは、似合いますね」
度数も弱くてちょうどいいと思っただけだが、どうせ可愛らしいカクテルなどは似合わない。
頼んだドリンクはすぐに来て、乾杯をし、口をつける。
「それで、相談というのは?」
「いきなり本題ですか」
「すみません。今日はあまり時間がないので、手短に済ませていただけると」
「そうなんですか、残念です。では、ちょっと聞きたいことがあるんですけど――」
***
「――……?」
ぼんやりと意識が浮上して、体に違和感を感じ、勢いよく起き上がる。
「ああ、起きた?」
絶句したまま視線を向けると、秋津直人がベッドの端に座っていた。視線を走らせれば、どうもホテルの一室にいるらしい。
状況が理解できずに、脳が混乱する。確か、居酒屋で彼の相談に乗っていたはずだ。暫くは話をしていた記憶がある。けど、その先が思い出せない。酒には決して弱くない。ビール一杯で記憶をなくしたりしない。
「何か、盛った?」
確信を持って問いかけると、秋津はにんまりと笑った。
「まぁ、ちょーっとおクスリ的な? あそこの店員とは仲いいんだぁ」
飲み物からは目を離さなかった。途中でトイレに立ったりもしていない。まさか最初から。己の落ち度に歯噛みする。
「何が、目的なの」
「ん~、咲綾のことなんだけどさ。あんた、俺のこと寝取ったってことにしてくれない?」
「……は?」
何を言っているのか全く理解が出来ずに、思わず声が漏れてしまう。
「正直、結婚とか冗談じゃないんだよね~。それをあのバカ女がさぁ、話進めちゃって。でも結婚詐欺とかで訴えられたら困るし? だから揉め事はそっちでやってほしくて、とりあえず既成事実的な」
「そんな……バカな提案を、私が呑むとでも思ってるの?」
「呑むよ、あんたは。だって、咲綾のことが大事だろう?」
にぃ、といやらしく笑う男を、思い切り睨みつける。
「あいつ俺にベタ惚れだからなぁ。あんたが俺に襲われたって言って、あいつ信じると思うか?」
分からない。咲綾は、この男を信じ切っている。
「仮に信じたとしてさ。俺に裏切られたって分かったら、あいつ自殺でもするかもな~」
物騒な言葉に手に力が入る。否定しきれないほど、親友はこの男を心底愛している。
「しかも、自分の婚約者が親友を襲ったなんて? 自分の責任だと思い込んだら……壊れちまうだろうな~」
このクズは、こうやって自分だけ安全地帯へ逃げようとしている。最低の提案だ。それが分かっていても、そうなってしまうかも、と思う自分がいる。
「んじゃ、決心ついたら良さげなシナリオ考えて連絡ちょーだい」
ベッドから立ち上がり、秋津が部屋を出ていこうとする。
「地獄に落ちろ、クソ野郎」
その背中に、そう声をかけるのが精いっぱいだった。
***
「ッ寄らないで!!」
じわりと、腹部に熱い感触。刺されたのか、と痺れる頭でぼんやり考えた。
「あんたが……悪いのよ」
咲綾の声が震えている。
「あんたさえいなければ、私は幸せだったのに……! 全部、全部めちゃくちゃにして! 親友だと思ってた……信じてたのに……ッ、地獄に落ちろ!!」
ああ、私と同じ言葉を吐き捨てている。十年も一緒に居たから、似たのかもしれない、なんて思わず笑ってしまった。
十年も一緒にいた私より、大して一緒にいなかったあの男の方が大事だったの。信じられたの。
そう問い詰めてしまいたい気持ちもあった。だけど、答えは分かっていた。私は親友だけど、いつだって咲綾の一番にはなれない。
心から愛していた男に裏切られ。自分のせいで親友を傷つけたと思うくらいなら。私に裏切られた方が、まだ心の傷は浅いのではないか。
それなら、ただの被害者でいられる。私を恨むことで、生きる気力をたもってくれるかもしれない。
咲綾が壊れることだけは、耐えられなかった。だから、あの男の提案を呑んだ。
包丁の持ち手を拭って、自分の手でしっかりと握り直した。万一に備えて、遺書を用意しておいて良かった。これなら、おそらく自殺として処理されるはずだ。
咲綾はあのクズ野郎と別れて、私への復讐も果たして、きっと次へ進めるはずだ。裏切られた傷は残るかもしれないが、癒してくれる人が現れるだろう。
懺悔をするなら、私は確かに咲綾を裏切っていた。もう随分と前から、私にとって、咲綾はただの親友ではなくなっていた。墓場まで持っていくと決めていたが、これでもう誰にも知られることはないだろう。
さようなら、どうか幸せに。
あなたを一番、愛してた。
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