31人が本棚に入れています
本棚に追加
前編
それは突然の出来事だった。今日も、いつもと変わらない平和な日常を送れればいいと思っていた。
通勤途中の電車の中で、青戸蓮は痴漢の被害に今にも合いそうな彼女を庇った。左右に揺られる車内で、男と彼女の隙間に入る。少しでも変な動きをしたら、自分が痴漢と間違われるかもしれない。つり革を掴む手に力が入り、汗が滲み出てくるのを必死に抑える。彼女を庇ったつもりが満員電車の中で、例の男に尻を撫でられた。
犯人は彼女の尻だと思い込んでるのか、触れてくるその手の動きを止めなかった。ここで一声あげて大騒ぎになるのは避けたい。そう思った矢先、斜めうしろにいたある男が、痴漢男の手を掴んだ。振り返ると静かに痴漢男の手首を掴んだまま声をかけていた。
「逃げても無駄ですよ……」
「――っ……!」
彼との出会いは偶然か必然なのか。彼は痴漢男の腕を掴み続けたまま、次の駅のホームで降りた。青戸は彼のあとを追うように人混みに揉まれながら降りていく。
「あ、あの――」
彼に声をかけようとしたが、周囲の誰かが不審に思いホームの柱に設置してある防犯ブザーのボタンを押した。
「警察が来るまで放しません!」
「お、俺はやってねえって!」
ふたりのやり取りに圧倒されて、一歩下がって状況を眺めていた。ああ、今日の出勤は遅刻確定だ……と、ふともう一人の自分に声をかけた。彼女への被害は免れたが、しょうもない気持ちに駆られていた。彼女はこのやりとりを何事もなかったように今も電車内にいると思うとなんだかホッとした気持ちにもなるが、虚しくなる。
――男が男のケツに触れるって、前代未聞じゃ……。
――俺が、被害者? いやいや……。
ここで「恥ずかしい」の一言でさえ言えず、彼が警察に事情を話し終えたところで、やっと初めて声をかけることができた。
「さっきはありがとうございました。通勤の足を止めてしまってすみません」
「こちらこそ、いきなり出過ぎた真似をしてしまって申し訳ない。黙って見過ごすわけにいかなかったんでね」
彼はとても紳士的だった。背丈はさほど差はないが、青戸よりもはるかに年上だろう。
せめて名前だけでも尋ねたいところだった。初対面の人になにか話すきっかけになるような話はないのだろうか。彼の顔をぼうっと眺めていると、向こうから名刺を渡され、会話が自然に進んだ。
「君、学生かい?」
「え、いえ……ちょうどこれから出勤で……って言っても今日はもう遅刻確定ですけどね、あはは」
「それはすまなかった。髪染めてるし若々しく見えたからてっきり学生かと……」
「いや、まだ若い方だと思いますけどねえ」
青戸は苦笑いをした。なんとなく彼は自分とは違って少し気難しい性格の人かもしれない。勤め先は名刺に書いてあったので訊くのをやめた。けど俺は諦めなかった。
彼の名は入間カナトというらしい。
「あの……連絡先、教えてくれたり……なんて――」
「奇遇だな。俺も同じこと考えてた。構わないよ」
お互い、スマートフォンを取り出し連絡先を登録した。
「気が向いたらでいいから……またいつか会おう」
青戸は入間のうしろ姿を駅のホームで見送った。
――かっこいい……。
青戸は完全に落ちた。この男に。
なんの疑問も持たず、ただ彼のことを恰好いいと思った。男が男に惚れることなんて今までなかったからときめいてしまった。
次の電車がくると、青戸はそれに乗り込んだ。時間が遅くなったために乗車する人の数も減った。椅子に座って電車に揺られてると、さっきまで自分の身に起こったことが幻にさえ思えて来る。パーカーのポケットに入れていた名刺を大事に財布にしまい直した。
最初のコメントを投稿しよう!